第21話 執務室
扉を開けた。
廊下の騒がしさが、そこでぷつりと途切れた。
静まり返った部屋だった。
エルクスが扉のすぐ脇に立っている。
出迎える様子はない。ただ、視線だけが勇雄へ向けられていた。
それは品定めするような目ではない。
相手の正体を見極めようとする、冷徹な観察者の目だった。
勇雄は、その姿を自分の父親と重ねた。
やはり顔は同じだった。
それだけではない。感情をほとんど表に出さず、じっと相手を見据える、あの独特の視線までそっくりだった。
エルクスは何も言わない。
勇雄もまた、あえて口を開かなかった。
そのまま部屋へ足を踏み入れる。
案内役の職員は一礼すると、静かに退出していった。
そこは広々とした執務室だった。
天井は高く、二つの大きな窓から外の光が差し込んでいる。
壁際には頑丈な棚が並び、古びた書物や書類が隙間なく整然と収められていた。
部屋の中央には、大きな机が置かれている。
その机の上は、完全に埋まっていた。
すべて書類だ。
綺麗に整理されてはいるが、山のような量だった。
資材の記録、転移者たちの情報、訓練の報告書、物資の申請書……。
まるで、この戦いに関する運営のすべてを、この男が一人で引き受けているかのようだった。
豪華さとは無縁の、戦時下における責任者の部屋。
それが、この空間の正体だった。
シグナルドは、黙々と書類にペンを走らせていた。
やがて顔を上げ、勇雄を見る。
わずかに口元が緩んだ。
それが好意によるものなのか、興味によるものなのかは読み取れない。
「訓練を途中で抜けてくるとはな」
「外に出るには、申請が必要だと聞きましたので」
「で、何が望みだ?」
こちらの先を完全に見抜いている。
まるで、最初から話の結論を知っているかのような口調だった。
「施設の外への、外出許可をいただきたいです」
「理由は」
「実力を高めたい。外の世界を知りたい。それと、自分に合う武具を探したいです」
「随分と、事前の準備を重視するのだな」
「人間は、簡単に死ぬからです」
「普通の転移者は、与えられた加護に頼り切る。それで十分だと信じ込んでいるが?」
「本当に十分かどうかは、実際にやってみないと分かりません」
シグナルドの目線が鋭くなる。
「では、もしその加護が足りなかった場合はどうする?」
「できないなら、できるようになるまでやるしかないです」
シグナルドが、ふっと口を閉ざした。
書類をめくる手が、ぴたりと止まる。
何か遠い過去のことでも思い出したかのような、ほんのわずかな沈黙。
……だが、それもすぐに終わった。
シグナルドは、いつもの表情に戻る。
「……誰から、ディーヌ洞窟の情報を得た」
不意に声を響かせたのは、傍らに立つエルクスだった。
勇雄は一瞬だけ眉をひそめ、エルクスを見返した。
自分はまだ、ディーヌ洞窟の名前など一言も出していない。
だが、この施設全体を考えれば、監視用の魔道具を通じて知られたのだろう。そう考えれば不思議ではなかった。
勇雄は返答に詰まった。
下手な嘘は命取りになる。
誰かに聞いたと言えば、『誰からだ』と追及されるだけだ。
ツルから、『黒髪の神』に関することは秘匿するよう言われている。
ツルは人には見えない。
だが、神なら見えているのではないか。
そう考えたところで、勇雄はふと、シグナルドが何度かツルのいる方向を見ていたことを思い出した。
ならば、『黒髪の神』ではなく……ツルから聞いたと言えばいい。
「……ツルという神から━━」
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
エルクスの口角が、ほんのわずかに上がったからだ。
━━失言した。
そう気づいた瞬間には、もう遅かった。
「ツル、とは……一体誰のことだ?」
部屋の空気が、凍りついた。
温度が急激に変わったような、奇妙な感覚だった。
まるで世界そのものが、ほんの一瞬だけ静止したかのようだった。
「自分は神だと……本人がそう名乗っていました。信じてはいませんが」
「もし本当に神であるなら、その名に聞き覚えはないな」
エルクスは棚から一冊の記録簿を取り出した。
素早い手つきでページをめくる。
そして、すぐにこちらへ向き直った。
「記録にはない」
エルクスは眉一つ動かさなかった。
「少なくとも、私の知る神々の中には存在しない」
勇雄は何も言わず、ただ黙っていた。
エルクスが続ける。
「もし本当に神であるなら、正体を隠す魔法の類を使っているのか。あるいは、神のふりをしたただの道化か。それとも……」
「今はいい」
シグナルドが短く遮った。
エルクスがぴたりと言葉を止める。
「もし、そのツルとやらが敵であるなら、お前はとっくに殺されている」
シグナルドは淡々と言った。
「違うか?」
「……その通りです」
「ならば問題はない。少なくとも、今はな」
そう言いながらも、シグナルドの鋭い視線はまっすぐに勇雄を捉えていた。
それは値踏みするような目ではない。
ただ純粋な観測だった。
何か重大な事実を確認しようとしている。
「条件付きで、許可を与えよう」
シグナルドが言った。
「条件、とは」
「今回の件は、すべてお前への貸し付けとする。利息もつける。いずれ魔王を討伐した際の報酬から差し引かせてもらう。当然、魔王討伐への参加義務もそのまま継続だ」
「分かりました」
「その代わりに」
シグナルドは机の引き出しを開けた。
「旅費を支給する。簡易的な装備も用意させよう。あいにく、この施設には在庫がない。城の窓口で手続きをしてくれ。城下町にあるギルド本部への紹介状と、一部の制限区域に入れる通行許可証も発行する」
いくつかの書類が、机の上に置かれた。
「洞窟へ行くなら、必ず仲間を連れていけ。一人で行けば死ぬだけだ。その紹介状を見せれば、腕の立つ者を雇うこともできるだろう」
「分かりました」
シグナルドは少し間を置いた。
そして、探るような目で勇雄に訊ねる。
「あの、いつも眠そうな少女はどうするつもりだ?」
勇雄の動きが、ほんの少しだけ止まった。
ミカのことだ。
「連れて行くのか?」
「……本人が、それを望むのであれば」
シグナルドが、楽しげに笑った。
「優しいのだな」
「……」
「……あるいは、甘いと言うべきか」
シグナルドはさらに続けた。
「随分と仲が良いようだが、こちらに来る前から親しかったのか?」
「いえ。ここで知り合いました」
勇雄が淡々と答える。
シグナルドの視線が、わずかに落ちた。
書類をめくる大きな手が、またぴたりと止まる。
再び何か遠い過去の記憶を見るかのように、静かに目を伏せた。
その口元から、吐息のようなかすかな声が漏れる。
「……奇跡、か」
勇雄は聞き間違いかと思った。
「奇跡、ですか?」
「いや、何でもない」
シグナルドはすぐに書類へ目を戻した。
「以上だ。下がっていい」
エルクスは、ミカのことについて何も口にしなかった。
ただ、何かを深く考え込んでいるようだった。
シグナルドはさらさらと滑らかな手つきで紹介状を書き上げる。
ペンを動かしながら、ぽつりと言った。
「外の世界は、この施設ほど安全ではないぞ」
「分かっています」
「だが━━」
ペンの動きが止まった。
「君は、訓練施設で満足する人間ではなさそうだな」
勇雄は答えなかった。
手渡された紹介状を受け取る。
通行許可証と一緒に小さく折りたたみ、ポケットへ仕舞い込んだ。
「失礼します」
扉へ向かい、ノブを回す。
開いた隙間から廊下の白い光が差し込む。
そして、扉が静かに閉まった。
♢♢
大魔神王シグナルドは、勇雄が去っていった扉をじっと見つめていた。
彼の気配が完全に遠ざかったのを確認してから、右断神エルクスに声をかける。
神公用語だった。
「喉が渇いてしまったな。何か冷たい飲み物を頼む」
「……珍しいですね。普段は水分など、滅多に口にされないのに」
エルクスは不思議そうに言いながらも、棚からガラスのボトルを取り出した。
コップに液体を注ぐ。
そこへ魔法をかけると、一瞬で液体が冷え、表面に薄い氷が張った。
それをシグナルドの机へ運ぶ。
「すまない」
「大魔神王様」
エルクスはコップを置くと、シグナルドを真っ直ぐに見つめた。
「本当は、ツルという神について知っているのではないですか?」
シグナルドは答えない。
「ここ一週間、あなたの行動には不自然な点が多すぎます。あの神と、裏で接触していたのではないですか?」
シグナルドは冷たいコップに指を触れたまま、黙っていた。
少しの沈黙。
エルクスはさらに踏み込んだ。
「それから、勇雄が持つ神の石━━あの宝神石の封印に関わる件で、不穏な報告があります」
「聞こう」
「神々が数柱、失踪しています」
「……」
「交信の記録を調べました。どの神も、一週間前を境に、突然連絡が取れなくなっているのです」
エルクスは一度言葉を切った。
「宝神石は、ご存じの通り、魂であれば封印することが可能。それは、たとえ神であっても……」
「……」
「私は、これが単なる偶然だとは思えません」
エルクスの声が、わずかに低くなる。
「あなたがこの一週間、どこで何をしていたのかまでは追及しません。ですが……そこまでして、ツルという神は警戒すべき存在なのですか?」
シグナルドは、ゆっくりと天井を見上げた。
そして、重苦しい声でつぶやく。
「……そうだ。あいつは━━」
言葉が、そこで途切れた。
その横顔に浮かんでいたのは、激しい怒りではなかった。
それは、底知れない深い憎悪。
そして、その奥にわずかににじむ━━確かな恐怖だった。
エルクスは息を呑み、言葉を失った。
静まり返った部屋の中で、エルクスが小さくその名をつぶやく。
「ツル……?」
その瞬間。
壁に仕掛けられた監視の魔道具が、一瞬だけ激しいノイズを上げた。
ジジッ、と映像が歪み、音声が途切れる。
ほんの一秒にも満たない、ごくわずかな狂い。
エルクスの目が、鋭く細められた。
今のは、ただの誤作動ではない。
そう直感していた。
第21話を読んで頂きありがとうございます。
勇雄が洞窟に向かう為の外出許可を得る場面です。シグナルドとの会話は如何だったでしょうか。
一言:勇雄がエルクスの尋問でツルではなく黒髪の神と言った場合エルクスは黒髪の神と勇雄がやり取りがあった事は聞いているので「そうか」と言われ、終わります。
次回は昼食の場面です。あのキャラが急接近してきます。お楽しみください。




