第20話 三日目の朝
目が覚めた。
天井が見える。勇雄の部屋ではない。まだ見慣れない、そっけない部屋の天井だ。
横を見ると、ミカがいた。
彼女はまだ眠っていた。おだやかな寝息を立てている。昨夜と変わらず、とても静かな寝顔だった。
勇雄はそっと起き上がった。
途端に、強烈な気まずさが襲ってきた。
恥ずかしいと思うより先に、今の状況を冷静に頭が理解してしまった。同じ部屋、同じ空間で一夜を過ごした。その事実を自覚したその瞬間、心臓が嫌になるほど速くなる。何もしていないのに息が上がる。いくら「神の石」を持っていようが、自分はただの一般的な男子高校生だった。その事を再確認した。
ミカの体がもぞりと動いた。
まぶたが開き、黒に近い茶色の瞳がまっすぐに勇雄を捉えた。
一瞬、息が詰まるような沈黙が流れる。
次の瞬間、見る見るうちにミカの顔が耳の後ろまで真っ赤に染まっていった。
「お、おはようございます……っ」
「あ、ああ」
お互いにそれ以上の言葉が出てこない。気まずく目をそらし合ったまま、じりじりと時間だけが過ぎていく。
耐えきれなくなったのはミカの方だった。彼女は逃げ出すように布団を抱え込むと、そのまま勢いよく扉を開けて飛び出していった。
廊下をドタドタと走っていく足音が遠ざかる。
その慌てぶりからは、彼女の体が「神」である雰囲気はみじんも感じられなかった。
しばらくして勇雄は気づいた。自分が使っていた布団まで、彼女に一緒に持っていかれていることに……。
ふと、勇雄は部屋の隅に目を向けた。頭の大きなアヒルの姿をした神━━ツルが座っていた。
いつからそこにいたのか全く分からない。ツルは部屋の隅から、二人のドタバタ劇をじっと見つめていたようだった。
勇雄はツルを睨みつけた。
「……いつからいた」
「少し前から、ですね」
「見ていたのか」
「観測中でした」
「観測と覗き見は違うだろ」
「似たようなものです」
ツルは特に悪びれる様子もなかった。勇雄はこれ以上突っ込むのを諦めた。
「朝食に行く」
「一緒に行きます」
♢
食堂に入った。
メニューは昨日と同じだった。
ミカは勇雄から少し離れた席に座り、一人で食事をしていた。たまにふと目が合うことがあっても、お互いに弾かれたようにすぐ目をそらした。
「知ってる? この世界には銃がないんだってさ」
「お前の家、ガンショップだろ? 銃作れよ。そしたら一発で無双できんじゃね?」
「嫌だよ。お前、中学が一緒だからって人の実家をバラすなよな」
「別にいいだろ、そんなことで怒るなよ」
あちこちから笑い声や話し声が聞こえてくる。二日目のときのような、不満や言い争いは消えていた。全体の雰囲気は良くなっている。昨日一緒にいた連中が、今日は別の集団で笑っている。不思議なことに、誰もそれを気にしていない。
勇雄はその輪から完全に取り残された形だった。今のところ、ここで特別な加護を得たり、有益な情報を手に入れたりはしていない。あの特殊な特別試験の内容を考えれば、孤立するのも仕方のないことだった。
まずは外の世界の情報を集めよう。動くのはそれからでも遅くはない。
朝食が終わりかけていたそのとき、食堂にどよめきが響いた。
一人の男子生徒が手を前に突き出している。
彼の手のまわりに、光り輝く魔力の刃が発生していた。薄い円を描くようにキィキィと回転し、数秒後にすっと消える。
「すごい!」
「真壁くん何それ、加護?」
「昨日の試験で選んだんだ」
勇雄は真壁と呼ばれた転移者に目を向けた。背の高い男だ。彼のまわりには、羨望の眼差しを向ける転移者たちが集まっていた。
そこへ、上級生の前川さんが真壁に近づいていった。
昨日交わした「取引」のためだろう。彼女の手には数枚の紙が握られていた。
「約束の件よ」前川さんは言った。「軍事記録の翻訳が終わったわ。昔の補給路と、魔物が出没するエリア、それから崩落した古い砦の場所。地図のメモも全部訳してあるから」
真壁は紙を受け取り、中身に目を落とした。その目が驚きで見開かれる。
「……これ、マジか」
「かなり価値があるんじゃない?」
「これ、どうやって訳したんだ?」
「翻訳ができる人に頼んだのよ」
前川さんがすました顔で言うと、まわりの連中から感心する声と、少し羨むような声が上がった。
「じゃあ、約束通り、特別試験の内容を教えて」
真壁の動きがぴたりと止まった。
彼は気まずそうに周囲の仲間を見た。
「……あれ? 先輩って、加護もらったんでしたっけ」
まわりの誰かがぽつりと言った。
一瞬で空気が冷え込む。
前川さんは言葉を詰まらせて固まった。それが何よりの答えだった。
周囲からヒソヒソとした陰口が漏れ聞こえてくる。
「全員に加護がもらえるんじゃなかったの?」
「保留にした人もいるみたいだけど、そういうこと?」
「神様に見捨てられたんじゃない?」
真壁は気まずそうに眉をひそめた。
「……悪い」
彼に悪意はないようだった。声を落とし、考え込むように言葉を続けた。
「加護のない人に、特別試験の内容を教える意味ってあるか? 情報は同じでも、俺たちとは立場が違うだろ」
まわりの人達が同調するように、声には出さず小さく頷いた。
前川さんは唇を噛みしめ、動けずにいた。
「約束は守るべきだ」
勇雄は席から立ち上がり、静かに言った。
食堂が、一瞬で静まり返る。
真壁が不機嫌そうに勇雄を睨み据えた。
「綺麗事を言ってる余裕なんてあんのかよ」真壁の声に明確な苛立ちが混ざる。「こっちは命がかかってんだぞ。加護もない人間に教えたところで何になるんだよ」
「約束を破る理由にはならない」
「何だと?」
「戦場に行くかどうかは関係ない。立場が変わったからといって、約束を破っていいわけじゃないはずだ」
真壁の手のまわりで、キィンと耳障りな金属音が鳴り響いた。先ほどの回転する魔力の光刃が、今度は鋭く展開される。
まわりの転移者たちが恐怖で一歩身を引いた。
体格は相手の方が上だ。手元には凶悪な魔力の武器。それでも勇雄は視線をそらさず、まっすぐに相手を見つめ返した。
お互いに距離を測り合う。真壁の目が鋭く細められた。喧嘩に慣れている者の目だ。勇雄もまた、静かに睨み返した。
約束をした、ただそれだけのことだ。これから戦うかどうかなんて関係ない。加護の有無や、生き残る確率、立場の差。そんなもので約束の重さが変わるなんて、勇雄には到底思えなかった。
なぜ口を挟んだのか。理由なら分かっている。約束を反故にされるのが、ただ気に入らなかった。
真壁はしばらく睨み続けた。だが勇雄は一歩も引かない。
息詰まる睨み合いの中、先に真壁の目から鋭さが消えた。……根負けしたように、彼の口から大きなため息が漏れる。
魔力の刃が霧のように消え去った。
真壁は乱暴に頭を掻いた。
「……チッ、悪かったよ」
真壁は吐き捨てるように言うと、前川さんに向き直った。
「試験内容を話す。俺のときは、性格診断みたいなやつだった。自分の性格について事細かく質問されて、それが終わったら加護の選択肢を見せられて、自分に合ったものを選んだ。それだけだ」
前川さんは少し間を置いてから、短く応じた。
「……ありがとう」
声は落ち着いていたが、その表情には悔しさと屈辱の色がにじんでいた。
勇雄は自分の受けた試験と内容を比較してみる。心理テストのような内容と、加護の選択。……自分の試験は全く違っていた。あの協力型の問いといい、加護の選択肢すら提示されなかったことといい、同じ試験だとは到底思えない。
真壁が勇雄に向き直り、きまずそうに言った。
「ごめん、ちょっとやりすぎた。……昨日の翻訳、お前も手伝ってたんだろ。約束を忘れて先に帰っちまったのも悪かった」
「いや、気にしていない」
「そうか……」
それだけ言うと、真壁は足早に食堂を出ていった。
真壁の姿が見えなくなると、前川さんがすぐに勇雄の元へ駆け寄ってきた。
「ありがとう、本当に助かったわ」彼女は少し無理をして笑っていた。「怪我はなかった? ごめんね、私のせいでこんな事になっちゃって……。でも、あんな能力を脅しに使うなんて卑怯じゃない?」
「怪我はないです。大丈夫です」
「神様から強い加護をもらったからって……ホント頭にくる。この借りは絶対に返すからね。何か困ったことがあったらすぐに呼んで」
「いえ、借りを返してもらうようなことではないです。気にしないでください。俺が勝手にやったことですから」
「ううん、絶対に返すわ。じゃあね!」
彼女はそう言って手を振り、去っていった。
いつの間にか、ミカが勇雄のすぐ近くまで戻ってきていた。彼女は前川さんが去っていった方向を一瞬だけ見つめ、それから勇雄を見た。何かを言いかけようとして、結局口を閉じた。
少し離れた場所には、理人が立っていた。何気ない立ち姿に見えたが、腕の位置がわずかに不自然だった。いつでも武器を抜ける、あるいは飛び込めるような独特の構えだ。
ただ、あの距離からでは、真壁が本当に動いていたとしても間に合わなかったはずだ。……理人の目に焦りの色はひとかけらもなかった。
ツルはただの観客のように、最後まで動かず事の顛末を見届けていた。
♢
全員で中央ホールに移動した。訓練を始める前に、一度ここに集まるよう指示されていたからだ。
勇雄は何気なく全体の人数を数えてみた。三十三人━━初日から四人減っている。
いつ、どこで減ったのか不明だ。何人か脱走したのだろうか。気にはなかったが、今の勇雄には確かめる手段もなかった。
全員が揃ったタイミングを見計らったように、神シグナルドが姿を現した。
「今日から、この施設の制度を変更する」
彼の低い声がホール全体によく通った。
「これより訓練は自由参加とする。城や城下町への出入りも自由だ。ただし、遠出をする場合は申請を出し、許可を得ること。服装の制限も解除する。訓練自体を拒否することも認めよう」
転移者たちの間に、ざわざわと戸惑いの声が広がった。
「自由ってことは、訓練しなくていいのか?」
「お前馬鹿だな。誰かが魔王倒すまで帰れないがいいのか?」
「こんだけいれば、誰か倒しにいくでしょ。俺は冒険するぞ」
「……なんでもいいから、早く帰りたい……」
シグナルドは広場の転移者、全員の顔を見ていた。少し落ち着くの待った。
「諸君らは兵士ではない」シグナルドは淡々と言った。「好きに生きるがいい」
一瞬の静寂。
「ただし、魔王討伐は別だ。最初に説明した通り、諸君らの肉体は一年が限界だ。……それを超えればどうなるか、分かっているな」
ざわめきがぴたりと止まった。
自分たちは守られているのだという生ぬるい感覚が、一瞬で消し飛んだ。
♢
気づけば、ミカが隣に立っていた。朝の気まずい雰囲気は消え、いつも通りの様子に戻っている。
「私は訓練に行きます」ミカは言った。「少しでも戦えるようになりたいから。武藤くんはどうしますか?」
「分かった。俺は外の情報を集めることにする」
「……一人で、ですよね?」
「……誰かと一緒に行くように見えるか」
「そ、そうですよね。……じゃあ、お昼ご飯は一緒に食べますか?」
「わかった。どこかで合流しよう」
ミカは「それじゃあ」と言って、訓練施設のある方向へ小走りで去っていった。一度も振り返らなかった。
ツルがその背中を見送り、勇雄にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「私も訓練を見てきますね」
「好きにしてください」
去り際、ツルが足を止めて言った。
「もし、他の神と話す機会があっても━━『神の居住区』で起こったことと、あの『指示』については、絶対に話してはならない」
「どういう意味ですか」
「いいですね?」
こちらの質問を無視して、ツルはそのまま姿を消した。
神の居住区で起こったこと。それは、この世界に転移してくる前の出来事だ。黒髪の神から加護を押し付けられ、邪神を探すように命じられたこと。
そして「あの指示」とは、加護を発動させた後、黒髪の神から届いた、ディーヌ洞窟を調査しろというあのメッセージのことだろう。
なぜ隠さなければならないのか、理由は皆目見当がつかない。両方とも『黒髪の神』に関することだ。ただ、下手に情報を漏らせば命取りになることだけは分かった。
勇雄はホールに残っていた施設の職員に、日本語で話しかけた。
「外の地理について知りたいです。それと、旅の準備についても」
職員は困ったように眉を下げた。
「それは……個人で申請していただく内容になりますね。直接、シグナルド様に許可を取っていただく必要があります」
「シグナルド様はどこにいますか」
「管理棟です。ご案内します」
職員に連れられてホールを出ようとしたとき、まだ残っていた理人と目が合った。彼は何かを話しかけてきそうな素振りを見せたが、なぜか思いとどまり、視線をそらした。
勇雄はそのままホールを後にした。
静かな廊下を歩く。
やはり、視線を感じる。壁の隙間、曲がり角、通路の天井近く。この施設に入ったときからずっと続いていた不気味な感覚だったが、今日は特にそれが強かった。
管理棟にある、目的の部屋の前に立った。
ノックをしようと勇雄が手を持ち上げた、まさにその瞬間だった。
「……入れ」
大気を直接震わせるような、シグナルドの低い声が扉の内側から響いた。
こちらの動きのすべてを見透かされているような、背筋が凍るような薄暗さを覚えながら、勇雄は静かに扉を押し開けた。
第20話を読んで頂きありがとうございます。
今回は、神々の夜の密談から一転して、学校生活のような朝の空気、そしてクラスの「残酷な現実」が一気に押し寄せる回となりました。
今朝のミカとの気まずい距離感には年相応の高校生を意識して描きました。
次はシグナルドとの会話です。一体この先どうなるかを予想しながらお待ち下さい




