第14話 異世界二日目
ふっと、意識が浮上した。
元の世界のように電子的なアラームが鳴り響いたわけではない。規則正しい生活によって染みついた日頃の習慣が、勇雄を叩き起こしたのだ。
すでに壁を隔てた廊下の向こうは、朝早くからひどく騒がしかった。漏れ聞こえてくる不穏な話し声から察するに、やはり昨夜はろくに眠れなかった者が多かったようだった。
ふと視線を動かすと、窓際の薄暗がりに、不釣り合いに頭の大きいアヒルの神━━ツルがちょこんと座っていた。
一体、いつからそこにいたのかは全く分からなかった。
「おはようございます、武藤さん」
「……おはようございます」
勇雄はベッドから上半身を起こした。昨日の昼下がりから今朝に至るまで、一体どこで何をしていたのかを問い詰めるつもりだった。しかし、ツルのどこか張り詰めた表情を一瞥し、その言葉を喉の奥へと引っ込めた。
勇雄の沈黙を肯定と受け取ったのか、ツルの方から切り出してきた。
「昨日、お伝えするのをすっかり失念しておりました。あなたに宿っているあの『黒髪の神』から授かった━━『加護』の具体的な効果について、今のうちに説明をしておきます」
ツルは窓際で居住まいを正し、いつになく真剣な声音で言葉を紡ぐ。
「その効果は━━『あらゆる異能を、数秒間だけ無効化する』というものです」
「異能とは、具体的に何を指すんだ」
「その詳細を教えることは適いません。ただ、私から言えるのは━━それは人間や、あるいは生物が扱えるようなものではないということです」
勇雄はツルを睨んだ。だが全く怯む様子はなかった。
「……納得はいかないが、分かった。使い方は?」
「『使い方』は至って単純です」ツルは小さな頭を持ち上げ、真っ直ぐに勇雄を見つめた。「ご自身の『両目』に意識を集中させてみてください。まるで、脳内のチャンネルが切り替わるような、独特な感覚を覚えるはずです」
ツルは短い羽を器用に動かし、勇雄の両目を指し示した。
「体内の魔力を両目へと充填することで、その加護は発動します。魔力の詳細なコントロール方法については、これからこの施設の講義で嫌でも身体に叩き込まれることになるでしょう」
勇雄は視線をわずかに天井へと向けた。神から与えられた『加護』。この手のものには、発動後に相応の反動があるのが常識だ。
「……発動に伴う『代償』はあるのか」
ツルは言葉に詰まったように、しばらく複雑な表情のまま沈黙した。そして、自らの無力を深く恥じるように、ぽつりと力なく呟いた。
「……それが、分からないのです」
「分からない、とはどういう意味だ。お前は神だろう」
「本当に、私を以てしても構造の解析が不可能なのです。ここでは使い道がないですが、強力な権能です。使用後に魂の損耗や、あるいは肉体への凄まじい反動があるのは確実なのですが、その代償がわからないのです……。お力になれず、申し訳ありません……」
ツルは再び、大きな頭を深く下げた。その謝罪の念には、微塵の嘘も含まれていないように見えた。
さらに、彼女は念を押すように言葉を重ねた。
「……それと、もう一つだけ、お伝えさせてください。その加護を発動させた後、あの黒髪の神と、極めて短い単語のによる精神通信が可能になるはずです。……たとえ加護を空振りさせた状態であっても、通信経路だけは開通する仕様になっていますが、その先は━━」
「使わない」
勇雄は、ツルの言葉の先を待たずに一刀両断で切り捨てた。
「……ええ。それが最も賢明な判断だと、私も思います」
ツルもそれ以上、その機能の使用を無理に勧めることはしなかった。
「……朝飯を食いに行ってくる」
「はい、一緒に行きますね」
♢
重い扉を開けて廊下に出た。
ちょうどその時、隣の部屋からミカが姿を現したところだった。
彼女の目の下には、昨日までなかった濃い隈が刻まれていた。
肌の血色は明らかに悪く、不自然なほどに白さが増している。綺麗に整えられている髪も、心なしか少し乱れていた。それを整えるだけの時間的な余裕がなかったのか、あるいはそれをするだけの精神的な気力が湧かなかったのか、勇雄には判別がつかなかった。
「……大丈夫か」
「……あ、武藤くん。おはようございます」
やはり、こちらの声に対する反応がワンテンポ遅い。声にもいつもの張りが全くなかった。
歩き出そうとした彼女の身体が、一瞬だけわずかにふらついた。彼女は咄嗟に壁に手をついて身体を支え、すぐに体裁を取り繕うようにパッと手を離した。
「眠れなかったのか」
「ちょっと、嫌な夢を……見ちゃって……」
そこでミカは言葉を区切った。
それ以上、続きを語ろうとはしなかった。
勇雄は数秒間、彼女の横顔をじっと見つめた。その「夢」の内容が酷く気になりはしたが、無理に聞き出すことはしなかった。
「食堂に行くぞ」
「……はい、行きましょう」
♢
朝食を終えた後、勇雄達は昨日と同じ講義室へと移動し、午前中の座学が開始された。
教壇に立った施設の職員が、黒板に文字を書きながら説明を始める。
「今から、この世界の大部分で広く使用されている共通言語━━『ワール語』の基礎を学びます。この言語さえ覚えておけば意思疎通に困ることはありません」
始まったのは、異世界語である『ワール語』の座学だった。複雑な文字の構造、基礎的な単語の暗記、特有の発音規則。職員が淡々と進める説明に対し、他の転移者たちは早くも猛烈な苦戦を強いられていた。
「おいおい、この文字、どれも同じような形にしか見えないぞ……」
「発音のバリエーションが多すぎるだろ、これ」
「たったの一ヶ月でこんなの覚えられる気がしないって……」
もっとも、中には驚異的な飲み込みの早さを見せる生徒も数名おり、彼らは職員の言葉に深く頷きながら、一心不乱にノートを執っていた。
そんな中、勇雄はただ黙々とペンを走らせていた。
昨日、すでに図書館でワール語の本を読んでいた勇雄にとって、知っている内容ばかりであった。
━━カラン、と。
静かな室内に、軽い音が響いた。
ふと横を見ると、ミカの細い指先からペンが滑り落ち、床を転がっていた。
勇雄はそれを拾い上げ、彼女の机の上へと戻した。
「……あ。……ありがとうございます、武藤くん」
お礼の言葉が出てくるまでに、やはり妙な間がある。彼女の瞳の焦点は、どこか微かにずれていた。手元のノートを盗み見ると、書きかけのワール語の文字が、途中で無残に途切れたまま放置されている。完全に意識がどこかへ飛んでしまっている状態だった。
勇雄はそれ以上、彼女に深く声をかけることはしなかった。
ミカは弱々しくペンを持ち直したものの、文字を書く手は震え、何度も止まってしまっていた。
♢
座学が終了すると、実技を行うため、元の世界でいう体育館のような広大な屋内訓練場へと移動した。
課目は、『魔力操作の初歩』。
自らの身体の内側へと意識を向け、そこに流れるエネルギーを掌へと循環させる。昨日行われた水晶の検査と、基本原理は全く同じだった。
驚くべきことに、転移者たちの魔力操作の適性は、現地の職員たちが事前に予測していた水準を遥かに凌駕していた。指導に当たる職員たちは、何度も驚愕の表情を浮かべていた。言葉にこそ出さなかったが、その目元には隠しきれない動揺がありありと現れている。
「おい、こいつら、信じられないほど習得が早いぞ……」
「そもそも、一人当たりの魔力量が異常に多すぎる。これが、異界からの転移者のポテンシャルか……」
もっとも、驚異的な適性を持つ転移者たちの間でも、徐々に明確な実力差は現れ始めていた。すでに安定した魔力の循環を完成させている者。その感覚を掴みかけて四苦八苦している者。そして、未だに体内の魔力を微かにしか感知できていない者。
勇雄は、自らの内に眠る魔力を発動した。
実際のところ、魔法を循環させるだけなら苦労はなかった。
勇雄が目指すものは、魔王討伐ではない。元の世界で消えた少女、望月美香を無事に助け出すことだ。━━ただ、それだけだった。
この状況下で不必要に目立つメリットは何一つないため、自分の魔力を平均よりわずかに上に収めた。担当の職員が彼の様子を見て、軽く満足そうに頷く。それだけで十分だった。
近くにいるミカの容態は、時間が経つにつれて目に見えて悪化していた。
直立したまま、彼女の細い身体がわずかに横へとよろめいた。壁に手をつくような無様な真似はしなかったものの、顔が更に青白くなっていた。
その異変に気づいた勇雄は、そっとミカのすぐ隣へと移動した。
「……あまり、無理はするな」
口に出した瞬間、勇雄は自分が無意識に彼女を気遣う言葉を発していたことに気づいた。
ミカは、ゆっくりと顔を上げた。
「……大丈夫、です。これくらい、なんてことありませんから」
「とても、そうは見えないが」
「……本当に、大丈夫、ですから」
ミカは自分自身の身体に今、一体何が起きているのかを、彼女自身すら正確に把握できていない━━そんな表情だった。
勇雄はそれ以上言葉を重ねるのをやめ、ただ無言で彼女のすぐ隣に寄り添い続けた。
周囲では女子達が自然と輪を作っていたが、ミカだけが一人だった。社交的な彼女なら、自然と輪の中心にいるはずだ。それでも彼女は、誰にも近づこうとしなかった。
♢
昼休みが近くなった頃、古賀理人と目が合った。
理人は遠くの状況を一瞬だけ確認するような素振りを見せた後、迷いのない足取りで、こちら側へと真っ直ぐに近づいてきた。
そして、隣で青ざめているミカに向かって、気さくなトーンで話しかけた。
「ミカさん……だっけ? ちょっと顔色が真っ青だよ。もし体調が悪いなら、俺が今から医務室まで連れて行ってあげようか。本当に大丈夫?」
「……あ、古賀くん。お気遣い、ありがとうございます。昨夜、ちょっと寝付けなかっただけですから……本当に、大丈夫です」
「そう? ……あ、そう言えばさ、君の苗字って何だっけ? なんて呼べばいいか迷っちゃって」
「……え」
ミカの動きが、一瞬で凍りついた。
彼女が使っている「ミカ」という名は偽名だ。勇雄は昨日の会話から思い出した。動揺した彼女がボロを出す前に、勇雄は理人の言葉を遮るようにして、ぶっきらぼうに名前を被せた。
「……望月さん、だ」
それは、咄嗟に脳裏に浮かんだ、元の世界で消えた少女の苗字だった。
ミカは驚いたように、一瞬だけ弾かれたように勇雄の顔を見つめた。しかし、すぐに視線を理人へと戻し、話を合わせるように言葉を紡いだ。
「……ええ、はい。望月です。望月ミカといいます」
「そっか、望月さんか。オッケー、次からはそう呼ぶよ。これからもよろしくな」理人は爽やかな笑みを浮かべながら言った。「……ちなみにさ、君は『ミーチル』って名前に、何か心当たりとかあったりする?」
ミカは視線をわずかに上に向け、記憶の糸を手繰り寄せるようにして考え込んだ。
理人は彼女の反応を待ちながら、その横目で、隣に立つ勇雄の表情の変化を観察していた。しかし、勇雄の表情は微動だにしない。理人は何も言わず、再びミカへ向き直った。
やがて、ミカは困ったように首を横に振った。
「いいえ、その名前は聞いたことがありません……。古賀くんの、どなたかお知り合いの方ですか?」
「いや、何でもないんだ。ちょっと昔のことを思い出しちゃってさ」理人はそれ以上の追及をせず、肩をすくめて笑った。「とにかく、本当に体調が悪そうだから、無理をしないで早めに施設の人に言った方がいいよ。まあ、隣に武藤がついていてくれるなら、俺が心配する必要もなさそうだけど。……じゃあ、俺はもう行くわ。お大事に」
それだけを言い残すと、理人は何事もなかったかのように踵を返し、再び他の生徒たちの集団の中へと滑らかに溶け込んでいった。勇雄は何も言わず、ただ去りゆく理人の背中を、静かに見つめ続けた。
「……武藤くん、本当にありがとう」
「いや。気にするな」
「……ううん、本当に、助かりました」
ミカがここへ来てまで頑なに隠そうとしている、彼女の「本当の名前」の正体━━それは確かに気になりはした。しかし、勇雄の考え方は変わらない。彼女が自らの意志でその口を開くその時まで、ただ静かに待つだけだ。
ふと遠く離れた訓練場の端へ目をやると、ツルが別の人を見ていた。
理人がこちらに近づいて接触を図ってきたあのタイミングは、まさにツルの視線が、理人から外れた直後の出来事だった。
♢
やがて、訓練場の中央に現地の職員が集まり、声を張り上げた。
「はい、全員注目してください! 午前の基礎訓練はここまでとします。午後は引き続きこの場所で魔力操作の訓練を行いますが……同時に、訓練の合間を縫って、皆さんを数人ずつ個別に呼び出しを行うとのことです」
その言葉に、生徒たちの一人が怪訝そうな声を上げる。
「呼び出しって、一体何をするんですか?」
「昨日、シグナルド様からお話があった『特別試験』です。申し訳ありませんが、我々一般の職員にも、誰がどの順番で選ばれるのか、具体的に何が行われるのかといった詳細は一切知らされていません。内容は完全非公開となっております」
その不穏なアナウンスに、訓練場内は一瞬にして蜂の巣をつついたようなざわめきに包まれた。
「うわ、出たよ。昨日言ってた怪しすぎる試験ってやつか……」
「一体、どんな恐ろしい試験なんだろ……」
「該当者には追って個別に連絡を回しますので、各自その指示に従ってください!」
転移者たちが不安げに言葉を交わし合う中、勇雄は隣にいるミカの様子を伺った。
彼女は近くの椅子に腰掛けていたが、膝の上に重ねた両手は微かに震えていて、その瞼は今にも閉じかけていた。
精神的にも、肉体的にも、すでに限界を迎えていた。
その時、いつの間にかすぐそばまで移動してきていたツルが、極めて低い声で、ぽつりと呟いた。
「特別試験……いよいよ、来ますね」
勇雄の耳には、確かにそう聞こえた。
ツルの丸い瞳は、誰か特定の一人ではなく、訓練場全体の不穏な空気そのものを見つめていた。一体、何が来るというのか。具体的なことは何も分からない。
ただ、この日の午後が大きな転機になる━━そんな予感だけが、勇雄の胸に静かに残っていた。
ミカは目を閉じ、訪れるであろう嵐の前の静けさの中で、ただゆっくりと、浅い呼吸を繰り返していた。
第14話を読んで頂きありがとうございます。
異世界の2日目の午前中の出来事を描きました。
ミカが段階的に体調が悪くなっていく様子を表現しました。
理人がツルの視線が外れた瞬間に動いた場面、気づきましたか。体調の悪いミカを気遣いながら同時に探りを入れている様子です。
次の話は特別試験です。お楽しみ下さい。




