第六話:真実の冠と最強の兵糧革命
アイラが発案した食堂が軌道に乗り、王都全域を網羅する国家レベルの諜報網へと進化した前代未聞の諜報機関が誕生したが、そんなアルジェント家の動きを、王家が見逃すはずもなかった。
『味王の食卓亭』のオープンから一ヶ月が過ぎた頃、王宮からレオンハルトとアイラ宛てに、ジェラール国王陛下からの非公式な呼び出しの使者がやってきたのだ。
「……絶対に何かバレているわね。」
アイラが豪華な馬車の中で呟くと、レオンハルトも重々しく頷いた。
「ああ。食堂にあれだけの数の暗部を給仕として潜り込ませているのだ。王家の情報網が気づかないはずがない。」
「お姉様、王宮に行ったらまた美味しいお菓子が食べられますわね!」
緊張する大人たちをよそに、同行を志願したリリアだけが無邪気に喜んでいた。
王宮に到着すると、アイラとレオンハルトは国王の私室へと案内され、リリアは別室へ通されることになった。
「リリア嬢、よく来てくれたね!」
別室で待ち構えていたのは、顔を真っ赤にしてソワソワとしている第二王子のエドワード殿下だった。
「エドワード殿下! 今日もとっても良いお天気ですわ!」
リリアが天使のような笑顔で挨拶すると、エドワード殿下は嬉しさのあまり昇天しそうな顔になった。
「さ、さあ、王宮の庭園を案内しよう! 君のために、とびきり甘いお菓子も用意してあるんだ!」
エドワード殿下はリリアをエスコートし、二人は和やかに庭園のお散歩へと出かけていった。
リリアの安全と胃袋が確保されたのを見届け、アイラとレオンハルトは重厚な扉を開けて国王の私室へと足を踏み入れた。
そこには、ジェラール国王陛下と、いつもの余裕ある微笑みを浮かべたジュリアン王太子殿下が待ち受けていた。
「よく来てくれた、アルジェント公爵、そしてアイラ嬢。」
国王陛下が葉巻の煙をくゆらせながら、鋭い眼光で二人を射抜く。
「本日はどのようなご用件でしょうか、陛下。」
レオンハルトが臣下としての礼を尽くして尋ねると、ジュリアン殿下がクスクスと笑いながら口を開いた。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。単刀直入に聞くが、あの大通りにできた『味王の食卓亭』……ただの食堂ではないだろう?」
ジュリアン殿下の言葉に、レオンハルトは表情を崩さずにシラを切り通そうとした。
「何をおっしゃるのか分かりかねます。あれは、我が公爵邸の料理人たちを育成するための、ささやかな修練場に過ぎません。」
「ほう。修練場の二階に、公爵家が誇る凄腕の暗部たちをメイドとして大量に配置して、貴族たちの密会を盗み聞きさせていると?」
ジュリアン殿下が、テーブルの上に一枚の羊皮紙を滑らせた。
そこには、『味王の食卓亭』に出入りしている公爵家の暗部たちの名前と、彼らの不審な動きが事細かに記されていた。
「……流石は王家の情報網ですね。お見事です。」
レオンハルトが観念したように溜息を吐くと、アイラがふわりと微笑んで前に出た。
「殿下。情報を集めているのは事実ですが、それはあくまで我が家の自衛のためですわ。」
アイラが臆することなく答えると、ジュリアン殿下は面白そうに目を細めた。
「自衛、ね。だが、王都の裏情報を一介の公爵家が独占するというのは、国家の治安上、看過できる問題ではないのだよ。」
「では、その情報を王家と共有するというのはいかがでしょうか?」
アイラの提案に、国王陛下が眉をピクリと動かした。
「共有だと? どのような手段でだ。情報を紙に書いて届けるのでは遅すぎる。」
「紙など使いませんわ。……これを使うのです。」
アイラは懐から、先日ミーアが完成させたばかりの『双方向通話魔道具』のペンダントを取り出し、ジュリアン殿下に向かって放り投げた。
ジュリアン殿下がそれを受け取ると、アイラは自分の持っているもう一つのペンダントに魔力を通した。
「殿下、聞こえますか?」
ジュリアン殿下の手の中にあるペンダントから、アイラの声がはっきりと、しかも全くのタイムラグなしに響き渡った。
「なっ……!? これは、どういう原理だ!?」
ジュリアン殿下が驚愕に目を見開き、国王陛下も葉巻を取り落としそうになっていた。
「特定の魔力波長を繋ぐ通信魔道具ですわ。これがあれば、食堂で暗部が掴んだ緊急の情報を、瞬時に王宮へ伝達することができます。」
アイラがさらりと説明すると、ジュリアン殿下は震える手でペンダントを見つめた。
「……信じられん。本当に、タイムラグなしで会話ができている……!」
「ただし、魔力の減衰のせいで、現状では王都の城壁内までしか通信できませんけれどね。」
アイラが欠点を付け加えると、ジュリアン殿下の瞳に、次期国王としての恐ろしいほどの熱と野心が宿った。
「王都内だけ……? 違う、逆だアイラ嬢。届かないのであれば、中継地点を作ればいいのだ!」
ジュリアン殿下が机をバンッと叩き、立ち上がった。
「このペンダントの魔力を増幅し、次の魔道具へと繋ぐ『基地局』のような巨大な魔道具を国中に一定間隔で配置すれば、国境の砦から王宮まで、一瞬で情報が伝達できるようになる!」
アイラは内心で(前世の携帯電話の基地局の概念に一瞬でたどり着くなんて、やっぱりこの人頭いいわね)と感心していた。
「父上! この魔道具の技術は、我が国の国防を根底から覆す絶対的な力になります!」
ジュリアン殿下の熱弁に、国王陛下も興奮を隠しきれない様子で深く頷いた。
「うむ。よかろう、アルジェント公爵。そなたの食堂での情報収集活動を正式に許可し、王家の暗部との完全な連携を命ずる。」
「はっ、承知いたしました。」
レオンハルトが恭しく頭を下げる。
「そしてアイラ嬢、いや、魔法料理開発プロジェクト責任者よ。この通信魔道具の技術を応用した『基地局』の開発と、全国への設置計画を、国家の最重要機密として推し進めるのだ!」
「……ええと、それはミーアがとても忙しくなるということですね。分かりましたわ。」
アイラが苦笑しながら引き受けると、ジュリアン殿下はホッと息を吐き、いつもの優雅な笑みを取り戻した。
「さて、国防の難しい話はこれで終わりだ。アイラ嬢、実はもう一つ、君に頼みたいことがあるのだが。」
「なんでしょうか、殿下?」
ジュリアン殿下は少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、コホンと咳払いをした。
「君のあの食堂……『味王の食卓亭』から漂ってくる、あの暴力的に香ばしい匂いが、どうにも気になって仕事が手につかないのだ。」
「は?」
「王宮の料理長も、あの平民の料理の『力強さ』を学びたいと毎日のように泣きついてきてね。どうか、王宮の料理人たちも、あの食堂兼学校に入学させてやってはくれないだろうか?」
ジュリアン殿下の予想外のお願いに、アイラはきょとんとしてしまった。
「……まあ、ガストンの厳しい指導に耐えられるなら、構いませんわよ。」
アイラが快諾すると、ジュリアン殿下と国王陛下は、通信魔道具の時と同じくらい、いや、それ以上に嬉しそうな顔をして破顔した。
「おお、それはありがたい! これで王宮でも、あの『ジャンクフード』とやらが食べられるようになるのだな!」
結局のところ、王族であろうと公爵であろうと、美味しいご飯の前ではただの腹ペコな男たちに過ぎないのだ。
アイラは、国家の国防という重い責任と、王宮の料理人の育成という新たな任務を抱え込みながらも、今夜はどんな美味しいものを食べようかと、呑気に思考を巡らせるのだった。
アルジェント公爵邸の地下深く、厳重な防音と魔法結界が幾重にも張り巡らされた特別工房。
そこでは、アイラとミーアが、ついに人間が足を踏み入れてはならない深淵の領域に手をかけていた。
「アイラ様、これが『精神ダイブ』の闇魔法を物理的な魔力回路で再現した魔道具、仮称『真実の冠』です。」
ミーアが机の上に慎重に置いたのは、無数の黒い魔石が複雑な銀の配線で結ばれた、禍々しい装飾のヘッドギアだった。
アイラは以前、王宮の地下牢でスパイの記憶を読み取る際に、魔女システムで取得した『血の契約・精神干渉』というスキルを使用した。
その魔法の波長と術式を、ミーアの『魔力視』と天才的な魔道具構築の技術によって、強引に器へと定着させたのがこの魔道具である。
「見た目からしていかにも『悪のアイテム』って感じね。」
アイラが苦笑しながら真実の冠を手に取り、少しだけ自分の魔力を流し込んでみた。
その瞬間、冠に埋め込まれた黒い魔石が一斉に脈動し、アイラの中からズゴゴゴゴッと凄まじい勢いで魔力を吸い上げ始めた。
「……っ! なにこれ、すごい吸引力ね。」
アイラにとっては「少し息が上がる」程度の疲労感だったが、隣で魔力計の針を見ていたミーアが、顔を真っ青にして悲鳴を上げた。
「アイラ様、ストップです! 直ちに魔力の供給を絶ってください!」
ミーアが慌てて安全装置のスイッチを叩き、冠の明かりがふっと消えた。
「どうしたの、ミーア。別に私は平気だったけれど。」
「アイラ様の魔力総量が規格外すぎるだけです! 今の数秒間で、この魔道具は一般的な宮廷魔術師十人分の全魔力を一瞬で飲み込みました! 一歩間違えればアイラ様も干からびていたかもしれないんですよ!?」
ミーアは震える手で魔力計の記録紙をアイラに見せた。
「そもそも、黒魔法という悪魔の領域を、一般的な属性魔力と物理回路で無理やり変換・模倣しているため、魔力変換のロスが絶望的に大きすぎるのです。」
ミーアの解説によれば、この魔道具は完成こそしたものの、燃費が極悪すぎる『魔力馬鹿食いのモンスター』となってしまったらしい。
「普通の魔法使いが一人でこれを被って起動しようとすれば、対象の記憶を見る前に、数秒で魔力枯渇を起こしてショック死します。」
「なるほど、それは物騒ね。じゃあ、誰にも使えない失敗作ってこと?」
「いえ、魔力タンクとなる中継器を複数繋げば起動は可能です。ですが、最低でも五人、安全に余裕を持たせて運用するには、十人の優秀な魔術師が同時に魔力を注ぎ込み続ける必要があります。」
単独で起動できるのは、規格外の魔力を持つアイラか、宮廷魔法師団で若き天才と呼ばれるリュカ、あるいは師団長クラスのバケモノだけだという。
「まあ、十人がかりでも、魔法の使えない尋問官が安全に確実な情報を引き出せるなら、王家にとっては喉から手が出るほど欲しい代物でしょうね。」
アイラが冷静に分析すると、ミーアは「私、とんでもない物を作ってしまいました……」と頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
数日後、王宮の最奥にある、王族と一部の側近しか立ち入れない秘密の謁見室。
ジェラール国王陛下、ジュリアン王太子殿下、そしてアイラの養父であるレオンハルトと兄のセオドアの四人を前に、アイラは『真実の冠』の性能を報告していた。
「十人がかりで魔力を注ぐ必要があるとはいえ、対象の精神防壁を強制的に突破し、記憶を映像として引き出す魔道具だと……。」
報告を受けたジェラール国王陛下は、手にした葉巻の火が消えていることにも気づかず、戦慄の表情で冠を見つめていた。
ジュリアン殿下も、いつもの余裕ある微笑みを完全に消し去り、その魔道具がもたらす圧倒的な情報制圧の力に息を呑んでいる。
「アイラ嬢、君たちは本当に、人間が踏み込んではならない神と悪魔の領域に手を出してしまったようだ。」
「美味しいご飯のレシピを考えるついでに、尋問の効率化を図っただけですわ。」
アイラの呑気な返答に、レオンハルトとセオドアが「お願いだからこれ以上話を大きくしないでくれ」とばかりに頭を抱える。
「……この魔道具の存在は、我がヴァリエール王国の最高国家機密とする。」
ジェラール国王陛下が、室内を震わせるほどの重々しい声で宣言した。
「絶対に他国に、いや、国内の貴族や宮廷魔法師団の末端にすら漏らしてはならん。この力が世に出れば、世界中のパワーバランスが崩壊するぞ。」
「承知いたしました、陛下。運用は、殿下直属の信頼できる暗部と魔術師のみに限定すべきかと存じます。」
レオンハルトが臣下としての礼を尽くして同調する。
「アイラよ。そなたの我が国への底知れぬ貢献に対し、褒美として欲しいものがあれば何でも融通しよう。よく考えておくように。」
「ありがとうございます、陛下。では、幻の珍味と呼ばれる海竜の肉を……。」
「食い物以外で考えておけ。」
即答で却下され、アイラは少しだけ頬を膨らませた。
そして、国王の鋭い視線が、アイラの背後で小動物のように縮こまっていたミーアに向けられた。
「ミーアとやら。前に出よ。」
「ひゃ、ひゃいっ!」
ミーアが裏返った声で返事をし、ガクガクと震えながら一歩前へ進み出た。
「そなたのその神懸かった魔道具開発の技術は、もはや一介の平民が持って良いものではない。」
国王の威圧感に、ミーアは今にも泣き出しそうな顔になっている。
「我が国は、そなたの才能をいかなる手段を用いてでも国内に縛り付ける必要がある。他国に引き抜かれるようなことがあれば、それは我が国の滅亡に直結するからな。」
国王陛下は玉座から立ち上がり、ミーアを見下ろした。
「よって、そなたの功績を高く評価し、特例として男爵の位を授け、正式な貴族として遇することとする。」
「だ、だ、男爵ですかぁ!?」
ミーアが目を限界まで見開いて奇声を上げた。
平民から一代で貴族に成り上がるなど、建国以来の歴史を見ても数えるほどしか例がない、あり得ないほどの大出世である。
「技術の流出を防ぐためだ。安心せよ、領地の管理や面倒な貴族の義務などは王家が代行するゆえ、そなたは今まで通りアイラの元で研究を続けるだけでよい。」
ジュリアン殿下が、気絶しそうになっているミーアに優しく補足説明をした。
「そ、そんな、私みたいな村娘が貴族だなんて、絶対に無理です……!」
「王命である。……それに、貴族の身分があれば、今後のそなたの人生の選択肢も大きく広がるだろう?」
ジェラール国王陛下はニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
「将来、そなたに良い相手が現れれば、それがたとえ公爵家の人間であろうと、身分差を気にせず王家が全力で結婚を支援してやろう。」
そう言った瞬間、国王陛下の視線が、チラリとアイラの隣に立つセオドアの方を向いたような気がした。
最近、公爵邸の工房に籠りきりのアイラを心配して様子を見にくるセオドアが、よくミーアとお茶を飲みながら談笑しているのを、王家の密偵が報告していたのかもしれない。
「ひゃああっ! け、結婚だなんて、私にはそんな……っ、それにアイラ様のお側にいられなくなるなんて絶対に嫌ですぅぅ……!」
ミーアは顔を真っ赤にして両手で頬を押さえ、頭から湯気を出してその場にしゃがみ込んでしまった。
「な、なぜ僕を見るのですか、陛下! 僕には可愛いアイラという妹が……!」
セオドアもなぜか動揺して視線を泳がせ、レオンハルトに「お前、まさか……」と胡乱な目を向けられている。
アイラは、真っ赤になって震える天才魔道具技師と、慌てふためくシスコンの兄を見比べながら、密かに微笑んだ。
王家の思惑や国家機密などという重苦しい空気は、若者たちの初々しい反応によってあっさりと吹き飛ばされてしまった。
「……お父様、今日の夕食は、ミーアの男爵就任のお祝いパーティーにしましょう。」
アイラが提案すると、レオンハルトは深い溜息を吐きながらも、優しく頷いた。
「そうだな。ジャンに腕によりをかけて、ミーアの好きなものを作らせよう。」
アイラは、国家の闇を覗くような恐ろしい魔道具を王家に引き渡したことなどすっかり忘れ、今夜の豪華なディナーの献立のことばかりを考えながら、王宮を後にするのだった。
アルジェント公爵邸の華やかな大広間は、今夜ばかりは高位貴族ではなく、少しばかり緊張した面持ちの平民たちを主役として迎え入れていた。
王家より特例で男爵位を授かった天才魔道具技師、ミーアの叙爵を祝うささやかな、しかし最高級の宴である。
「ミ、ミーア……本当にこんな立派なドレスを着て、公爵様と同じテーブルでお肉を食べていいのかい?」
ミーアの父親が、ガチガチに震える手でナイフとフォークを握りしめながら小声で尋ねている。
「お父さん、大丈夫だから落ち着いて! アイラ様も公爵様も、とっても優しい方たちだから!」
豪華なドレスに身を包んだミーアも、顔を真っ赤にしながら家族を必死に宥めていた。
アイラは自分の席で、ジャンが腕によりをかけて作った極上のローストビーフを頬張りながら、その微笑ましい光景を眺めていた。
「ミーアのご家族も、これで一生安泰ね。」
アイラが隣に座るリリアに言うと、リリアもニコニコと頷いた。
「ええ、ミーアは私たちの家族みたいなものですから、ご家族も大切なお客様ですわ!」
ふと視線を移すと、セオドアがミーアの家族の席へ歩み寄り、恭しくグラスを掲げているのが見えた。
「この度は、ミーア嬢の叙爵、誠におめでとうございます。彼女の才能は我がアルジェント家の、いや、この国の誇りです。」
セオドアが爽やかな極上の笑みを向けると、ミーアは「ひゃうっ」と変な声を出して顔から火を噴きそうになっていた。
(お兄様、無自覚にタラシの才能を発揮するのはやめてあげてほしいわ。)
アイラが呆れている横で、レオンハルトも上機嫌でワイングラスを傾け、この平和で温かい宴の夜は更けていった。
それから数日後、公爵邸の地下工房は、宴の和やかな空気から一変して、熱気と魔力に満ちた実験場へと戻っていた。
「アイラ様! ついに完成しました、空間の空気を完全に抜き去り、密閉状態を作り出す魔道具です!」
ミーアが興奮気味に机の上に置いたのは、分厚いガラス容器と、それに接続された銀色のポンプのような魔道具だった。
アイラは前世の知識である『真空パック』や『瓶詰め保存』の概念をミーアに語り、食材を腐らせる原因である『空気(酸素)』を遮断する技術の開発を依頼していたのだ。
「風の魔石の吸引力を極限まで高め、容器内の空気を一気に吸い出します。そして同時に、土と火の魔石の力で蓋の隙間を完全に溶接・密閉する術式を組み込みました!」
ミーアがスイッチを入れると、ガラス容器の中に入っていた萎びた花が、シューッという音と共に瞬時に空気を奪われ、容器が完全に密閉された。
「素晴らしいわ、ミーア。これと『インフェルノ・オーブン』による加熱殺菌を組み合わせれば、理論上は最強の保存食が作れるわね。」
アイラが満足げに頷くと、ミーアも誇らしげに胸を張った。
「はい! 実は三ヶ月前からアイラ様に内緒で小型の試作機を作り、色々な食材を入れてテストを繰り返していたのです。結果、三ヶ月経っても中の肉や野菜は全く腐敗せず、安全に食べられる状態を維持していました!」
「三ヶ月も前からテストしていたの? さすがは天才男爵様ね。」
アイラが褒めると、ミーアは「男爵と呼ばれるのはまだ慣れません」と照れ臭そうに笑った。
「理論値で言えば、この完全密閉と殺菌の工程を経た食材や料理は、二年、長ければ三年は常温で保存できるはずですわ。」
アイラの言葉に、いつの間にか工房に降りてきていたレオンハルトとセオドアが、ゴクリと喉を鳴らした。
「に、二年だと……? 常温で、肉や調理済みの料理がそれほど長期間持つというのか?」
レオンハルトが震える声で尋ねる。
「ええ。空気中の見えない菌が繁殖しない限り、食べ物はそう簡単に腐りませんから。」
「アイラ、これがどれほど国家の歴史を変える発明か分かっているのか……!」
セオドアが頭を抱え、震えながら呟いた。
「凶作による飢饉が起きても、この容器に保存した食糧があれば多くの民を救うことができる。それに……戦争や魔物討伐の遠征において、兵糧の概念が根底から覆るぞ!」
塩漬けの硬い肉や、カビの生えた硬パンをかじりながら行軍していた騎士たちにとって、数年保存できる美味しい料理が戦場で食べられるなど、士気を爆発的に引き上げる魔法のような話なのだ。
「というわけで、さっそく厨房で『最強の保存食』の開発に取り掛かるわよ。」
アイラが意気揚々と宣言し、一行はそのまま厨房へと移動した。
厨房では、すでに料理長のジャンたちがアイラの指示を待ち構えていた。
「まずは、遠征や災害時にすぐにエネルギーになる、小型で高カロリーな保存食を作るわ。」
アイラは、細かく砕いたナッツや乾燥させたフルーツ、そして先日ミーアの魔道具で作った極上のチョコレートを大量に用意させた。
「それらを全て蜂蜜と一緒に煮詰め、ギュッと固めてからオーブンで水分を飛ばし、四角く切り分けてちょうだい。」
アイラの指示通りにジャンが作り上げたのは、前世で言うところの『エナジーバー』だった。
「これをミーアの魔道具で真空密閉すれば、ポケットに入れて持ち運べる最高の兵糧になるわ。」
アイラが完成したエナジーバーを一つかじると、ナッツの香ばしさとチョコレートの甘さ、ドライフルーツの酸味が口の中で絶妙に混ざり合い、脳に直接エネルギーが叩き込まれるような感覚があった。
「う、美味い……! こんなに小さくて甘いのに、一口食べただけで全身に力が漲ってくるようだ!」
試食したレオンハルトが、目を丸くして感嘆の声を上げた。
「これなら、行軍中で火が使えない時でも、歩きながら手軽に極上の栄養補給ができますね!」
セオドアも興奮気味にエナジーバーを頬張っている。
「これだけじゃないわ。ジャン、昨日の夕食の残りのビーフシチューはまだあるかしら?」
アイラが尋ねると、ジャンはすぐに寸胴鍋を持ってやってきた。
「ええ、しっかりと火を入れてあります。しかし、これをどうされるので?」
「このガラス容器にシチューを入れて、ミーアの魔道具で空気を抜いて密閉するのよ。」
アイラはシチューを容器に詰めさせ、ミーアの魔道具で完璧な真空状態を作り出した。
「そして、このまま沸騰したお湯の中で容器ごと加熱殺菌すれば、いつでも温めるだけで作りたてのシチューが食べられる『長期保存シチュー』の完成よ。」
アイラが前世の『レトルト食品』や『瓶詰め』の原理を再現して見せると、ジャンたち料理人はもはや言葉を失い、ただただひれ伏すしかなかった。
「アイラお嬢様……あなた様は、ついに『時間』という料理の最大の敵すらも打ち倒してしまわれたのですね……!」
ジャンが涙を流しながらガラス容器を拝んでいる。
「これで、遠征先でもお父様たちが美味しいご飯を食べられるわね。」
アイラが満足げに微笑むと、レオンハルトは感動のあまりアイラを力強く抱きしめた。
「アイラ……! お前という娘は、どこまで私を驚かせれば気が済むのだ。これがあれば、我が国の騎士団は大陸で最も士気の高い、無敵の軍隊となるだろう!」
「お姉様! 私もこの甘い四角いお菓子、お散歩の時に持っていきたいですわ!」
リリアがエナジーバーを気に入って目を輝かせている。
飢饉を救い、戦争の兵站を根本から変革してしまう、恐るべき保存食革命。
国家の命運を左右するような大発明をまたしても生み出してしまったアイラだったが、本人の頭の中は「これでいつでもどこでも美味しいおやつが食べられる」という平和な食欲で満たされていたのであった。
数日後、王宮の広大な庭園に設えられた白亜のガゼボでは、優雅なティータイムが開かれていた。
テーブルの上に並べられているのは、王宮専属のパティシエが腕によりをかけた芸術品のようなケーキと、アイラたちが開発した無骨な四角い『エナジーバー』である。
「ミーア、このエナジーバーの密閉容器だけれど、もっと開けやすくする工夫はできないかしら。」
アイラが真剣な表情でエナジーバーのガラス容器を手に取りながら、対面に座るミーアに問いかけた。
「開けやすさ、ですか? 現在の魔力溶接は完全に隙間をなくしているため、専用の魔力解除キーがないと開けられない仕様になっていますが……。」
「そう。でも、災害時や行軍中で余裕がない時に、いちいちキーを探すのは手間でしょう? 容器の一部に魔力の継ぎ目を作って、少し力を入れればパキッと割れて開けられるような構造がいいのだけれど。」
アイラが前世の『プルタブ』や『簡単に切れるパック』の概念を伝えると、ミーアは目を丸くして羊皮紙を取り出した。
「なるほど……! 容器の強度を保ちつつ、一箇所だけ魔力結合を意図的に脆くするのですね! それなら、火の魔石の出力を局所的に調整すれば……!」
ミーアが猛烈な勢いで数式や魔力回路の図を書き込み始めると、隣でケーキを食べていたリリアが身を乗り出してきた。
「アイラお姉様! 甘いお味もとっても美味しいですけれど、私、しょっぱいお味のエナジーバーも食べてみたいですわ!」
「そうね、ナッツとお肉の乾燥粉末を混ぜて、少しスパイシーな味付けにしても美味しいかもしれないわ。」
アイラが頷くと、リリアは「わあ!」と天使のような笑顔で歓声を上げた。
「王宮の料理長にも相談して、長期保存が利いて美味しい料理のレシピをもっと開発しましょう。」
「はいっ! 密閉さえ完璧なら、汁物でもお肉でも、どんなものでも保存してみせます!」
アイラ、リリア、そして男爵となったミーアの三人は、ただ純粋に「いつでもどこでも美味しいものを便利に食べる」という食欲と探求心だけで、恐ろしく高度な技術開発会議を繰り広げていた。
そんな彼女たちの熱気あふれる会話から少し離れた席で、ジュリアン殿下とセオドアは、香り高い紅茶を静かに啜っていた。
「……アイラたちは、自分たちがどれほど恐ろしい歴史的発明をしたのか、微塵も理解していないようですね。」
セオドアが、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえて深い溜息を吐き出した。
「ええ。常温で数年保存できる兵糧など、他国が知れば国を挙げて血眼になり、戦争を起こしてでも奪いにくる代物だ。」
ジュリアン殿下も苦笑しながら、ティーカップをソーサーに置いた。
「だが、当の彼女たちにとっては『遠足に持っていくのに便利で美味しいおやつ』程度の認識なのだろうね。」
「本当に……うちの妹は、頭の中の九割が美味しいご飯のことで占められていますから。」
以前は「腹黒王太子」としてジュリアン殿下を警戒していたセオドアだったが、アイラの規格外の行動に対処するという共通の苦労を重ねるうちに、二人の間には奇妙な連帯感と絆が芽生えつつあった。
「しかし、だからこそ、あの純粋な笑顔と才能を守り抜かなければならない。」
ジュリアン殿下の声のトーンが一段下がり、次期国王としての冷徹さと、一人の男としての強い決意がその瞳に宿った。
「他国の諜報機関の動きや、国内の貴族たちの醜い権力闘争……そういったドロドロとした政治の裏側は、我々が全て引き受け、完璧に処理しよう。」
「同感です、殿下。アイラには、ただ美味しいご飯を食べて、好きなように研究をして、ずっと笑っていてほしいですから。」
セオドアもまた、次期アルジェント公爵としての鋭い眼光を光らせ、力強く頷いた。
規格外の天才少女たちが無邪気に生み出すオーパーツのような発明を、いかにして安全に国家運営に組み込み、外敵から隠匿し、あるいは外交のカードとして利用するか。
それは、彼女たちの身内であり、国の未来を担う彼ら若き為政者たちに課せられた、途方もなく重い試練であった。
「重要なところは、そこ(料理の味)じゃないんだけどね……。」
ジュリアン殿下が呆れたように呟いたその時、テーブルの端でソワソワとしていたエドワード殿下が、意を決したように立ち上がった。
「り、リリア嬢! その、もしよければ、あちらに咲いている珍しい薔薇を見に行かないかい!?」
エドワード殿下が顔を真っ赤にしてリリアに声をかけた。
しかし、リリアはアイラとミーアの保存食トークに完全に夢中になっていた。
「ごめんなさいませ、エドワード殿下! 今、お姉様ととっても大切なお肉のお味の兵糧のお話をしているところなのです!」
リリアが全く悪気のない満面の笑みで即答すると、エドワード殿下は「お肉の……兵糧……?」と呟いたまま、真っ白に燃え尽きてガゼボの柱に寄りかかってしまった。
「……エドワードには少し可哀想だが、今の彼女たちの目には、我々男衆よりもエナジーバーの方が魅力的に映っているらしい。」
ジュリアン殿下が弟の不憫な姿に同情の視線を向けながら言うと、アイラが不意に会話を止めてこちらを振り返った。
「殿下、お兄様、どうかしましたの?」
アイラが不思議そうに首を傾げると、ジュリアン殿下はいつもの優雅で完璧な微笑みを作った。
「いや、なんでもないよ。その素晴らしい保存食の量産体制の構築と、軍への導入計画は私とセオドアで完璧に進めておくから、君たちは好きなように新しい味の開発をしてくれ。」
ジュリアン殿下の言葉に、アイラはパッと顔を輝かせた。
「まあ、助かりますわ! 国家の予算や難しい手続きはお任せしますね!」
アイラはそう言うと、ミーアとリリアの手を引いて立ち上がった。
「では、さっそく王宮の厨房へ行って、料理長たちとお肉味の保存食の試作をしてまいりますわ!」
「行ってらっしゃい。あまり厨房を爆発させないようにね。」
セオドアが優しく送り出すと、三人の少女たちはキャッキャと楽しそうな声を上げながら、小走りで王宮の中へと消えていった。
残されたガゼボには、爽やかな風と、甘いケーキの香りだけが漂っている。
「……さて。彼女たちが平和に料理をしている間に、我々は暗部からの報告書に目を通し、他国のスパイの排除計画を練るとしようか。」
「ええ。アイラが愛する平穏な食卓を脅かす輩は、この私が一人残らず、跡形もなく社会的に抹殺してみせますよ。」
ジュリアン殿下とセオドアは、温かい紅茶を口に含みながら、愛する少女たちのためにこの国を盤石なものにするという、重くも誇り高い覚悟を新たにするのだった。




