第七話:二つの国を胃袋で掴んだ令嬢、王家からの婚約と社交界の影
アイラは、アルジェント公爵邸の自室で、ふかふかの絨毯に寝転がりながら羊皮紙に猛烈な勢いで文字を書き込んでいた。
その目は、かつてないほどの真剣な光を帯びている。
彼女が発案した『味王の食卓亭』は連日大盛況で、王都の平民たちにジャンクフードの美味しさを伝えることには成功した。
しかし、アイラの真の野望は、そんな小さな食堂一つで満たされるものではなかった。
彼女が本当に食べたいのは、王都のどこを歩いても、どんな平民の家にお邪魔しても、前世の記憶にあるような豊かで多様なご飯が出てくる世界だったのだ。
食堂で美味しい料理を提供するだけでは、食文化の底上げには限界がある。
平民たちが自宅で、自らの手で工夫を凝らした料理を作り、それがまた新しいレシピを生み出すという循環こそが、真の美食国家への道なのだ。
そのためには、各家庭に冷蔵庫や調理用オーブンが必要不可欠である。
だが、現状の平民の生活水準では、高価な魔道具を買う余裕などない。
さらに、日々の過酷な労働や、手作業での洗濯、掃除といった家事に追われ、料理に時間をかける余裕など全くないのが現実だった。
料理を楽しむ余裕を持たせるには、まずは家事の時間を劇的に短縮させる『三種の神器』、つまり洗濯機、掃除機、そして万能オーブンを普及させる必要があった。
アイラは羊皮紙に、前世の家電のイラストをサラサラと描き込んだ。
そして、それらを一家に一台買えるだけの経済力を平民に持たせることが、最優先課題であった。
仕事を創出し、労働人口を増やして賃金を上げる。
一時的に税金を下げ、経済を回して平民の生活に余裕が生まれれば、彼らは必ず生活を豊かにする魔道具を求めるはずだ。
王都全体の経済対策は国王陛下やジュリアン殿下の仕事だが、アイラには自由にできる強力な地盤があった。
父親にお願いして、アルジェント領を自らの『経済と食の実験都市』にしてもらおうと、彼女は決意した。
計画の全貌がまとまり、アイラは満足げに頷くと、羊皮紙を抱えて執務室へと向かった。
アルジェント公爵家の執務室では、レオンハルトとセオドアが山積みの書類仕事に追われていた。
「お父様、お兄様。少しよろしいでしょうか。」
アイラが執務室の扉を開けると、二人はペンを置き、目尻を下げて愛しの娘、そして妹を迎え入れた。
「どうしたアイラ。また新しい料理のレシピでも思いついたのかい?」
セオドアが優しく微笑みかけると、アイラは堂々とした足取りで執務机の前に立ち、持っていた羊皮紙をドンッと広げた。
「いいえ。今日は料理のレシピではなく、アルジェント領の経済政策とインフラ整備についての提案ですわ。」
「……はい?」
レオンハルトとセオドアの思考が、一瞬完全に停止した。
九歳の可愛らしい令嬢の口から飛び出した「経済政策」と「インフラ整備」という単語が、全く結びつかなかったのだ。
「アイラ、お前は一体何を言っているんだ?」
レオンハルトが戸惑いながら羊皮紙を覗き込むと、そこには驚くほど緻密な領地開発の計画書が記されていた。
「アルジェント領を、私の理想とする食文化を普及させるための『実験都市』にしたいのです。」
アイラは、自らが練り上げた計画を滔々と語り始めた。
平民の家事負担を減らすための魔道具の普及、そのための雇用創出と賃金引き上げ、そして初期の消費を促すための一時的な減税措置についてである。
「……待て待て待て。アイラ、お前は自分がどれほど恐ろしいことを言っているのか分かっているのか?」
セオドアが、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「魔道具の普及はともかく、大規模な雇用創出と減税となれば、領の財政を根本から揺るがす大事業だぞ。」
「分かっていますわ。でも、インフラ整備という公共事業を起こせば、領民に仕事とお金が回ります。」
アイラは自信満々に胸を張った。
「道路を舗装し、水道を整備すれば、流通が活発になり、結果的に税収は後から何倍にもなって返ってきますわ。」
「それは、理論上はそうだが……それを実行するには莫大な初期投資と、途方もない年月、そして膨大な労働力が必要になる。」
レオンハルトが現実的な問題を指摘すると、アイラはニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「だから、労働力を魔法で補うのです。ミーアに『建設用魔道具』を作らせますわ。」
その言葉に、レオンハルトとセオドアは顔を見合わせた。
アイラという規格外の魔力と、ミーアという天才的な魔道具開発の技術。
この二つが合わされば、数十年かかるインフラ整備が、数ヶ月で完了してしまう可能性すらあった。
「……お父上。これは、本気で検討する価値があるかもしれません。」
セオドアが、次期公爵としての鋭い目つきで羊皮紙を見つめ直す。
「我が領地が、王都すら凌ぐ経済力と生活水準を手に入れれば、アルジェント家の権力は盤石なものになります。」
「うむ……だが、その動機が『平民に美味しいご飯を作ってほしいから』というのだから、頭が痛くなるな。」
レオンハルトは深い溜息を吐き出すと、もはや抗うことを諦めたように笑い声を上げた。
「よかろう。アルジェント領の一部を特別区に指定し、お前の計画を実行に移す権限を与えよう。」
「ありがとうございます、お父様! そうと決まれば、さっそくミーアの工房へ行ってきますわ!」
アイラが意気揚々と執務室を出て行くと、残された二人は疲労感と共にソファーに深く沈み込んだ。
「……殿下にお伝えした方が良いでしょうか。アイラが今度は、領地経営に目覚めたと。」
「やめておけ。あの腹黒王太子が知れば、国家規模でアイラの計画を横取りしようとするに決まっている。」
過保護な父と兄は、アイラの壮大な計画をいかにして王宮から隠し通すかという、新たな悩みを抱え込むことになったのだった。
その頃、公爵邸の地下工房では、特例で男爵となった天才魔道具技師ミーアが、平和に小型の魔力回路をいじっていた。
「ミーア、新しいお仕事よ!」
勢いよく扉を開けて飛び込んできたアイラに、ミーアはビクッと肩を震わせた。
「ア、アイラ様! 今度はどのような恐ろしい兵器……いえ、魔道具を作るのでしょうか!?」
すっかりアイラの無茶振りに怯えるようになっているミーアに、アイラは満面の笑みで羊皮紙を差し出した。
「今回は兵器じゃないわ。平民の生活を豊かにするための、安全で安価な家事用魔道具よ。」
「家事用……ですか?」
ミーアが不思議そうに羊皮紙を見ると、そこには『洗濯機』や『掃除機』といった、見たこともない機械の図解が描かれていた。
「水と風の魔石で水流を作って服の汚れを落とす箱と、風の魔石でゴミを吸い込む筒ね。」
「なるほど……これなら、出力の低い安価な魔石の欠片でも十分に実用化できそうです!」
ミーアの技術者としての血が騒ぎ、瞳がキラキラと輝き始めた。
「でも、コストを極限まで削って、一般家庭でも買える価格に抑えてちょうだい。そして何より、魔法が使えない平民の子供が触っても絶対に怪我をしない『安全装置』を最優先で組み込むこと。」
「お任せください! 誰もが安全に使える魔道具こそ、私の目指す理想です!」
ミーアが嬉しそうに頷くと、アイラはさらに二枚目の羊皮紙をバンッと机に置いた。
「それが終わったら、次はこれね。」
「……? 『超大型整地ローラー』に『土魔法式自動舗装機』……ですか?」
ミーアの笑顔が引きつり、額から嫌な汗が流れ落ちた。
「ええ。アルジェント領の道路やインフラを一気に整備するための、建設系魔道具よ。」
「……ア、アイラ様。これ、構造が複雑すぎる上に、稼働させるための魔力タンクが家一軒分くらいの大きさになりますよ!?」
「大丈夫よ、私の魔力を数日かけてタンクに溜め込んでおけば問題なく動くわ。」
アイラが事もなげに言うと、ミーアは机に突っ伏して嘆いた。
「また私の胃が痛くなる日々が始まるのですね……。」
そこへ、おやつの時間に合わせてリリアが籠を持って工房に降りてきた。
「お姉様、ミーア! お茶の時間ですわ! 今日は甘いエナジーバーと、冷たい果実水を持ってきましたの!」
リリアの天使のような笑顔と、アイラ考案の美味しいおやつを前に、ミーアは涙を拭いて顔を上げた。
「……やります。私、お肉味のエナジーバーの量産機も作りたいですから、死ぬ気でやります!」
「その意気よ、ミーア! 目指すはアルジェント領の完全近代化よ!」
美味しいご飯の普及という、あまりにも個人的な欲望からスタートしたアルジェント領の経済改革は、アイラという暴走する頭脳とミーアという神がかった技術者による、壮大な『領地改造計画』として幕を開けたのである。
そして、この動きが後に王国の経済そのものを根底から覆すことになるとは、まだ誰も予想していなかった。
アルジェント領の『実験都市』化計画が始動してから、一ヶ月が経過した。
公爵邸の地下工房からは、今日もミーアの悲痛な叫び声が響き渡っていた。
「アイラ様……無理です、手が、絶対に手が足りません……!」
ミーアは目の下に濃いクマを作り、フラフラと覚束ない足取りでアイラに泣きついてきた。
アイラが発案した『洗濯機』や『掃除機』などの家事用魔道具は、ミーアの天才的な頭脳によってあっという間に試作機が完成していた。
しかし、それらを領民に普及させるための量産ラインの構築や、インフラ整備用の巨大魔道具の調整など、やらなければならないことが山のように積み上がっていたのだ。
「ごめんなさいね、ミーア。でも、普通の職人さんじゃ、あなたの高度な魔力回路の理論を理解できないじゃない。」
アイラが申し訳なさそうに言うと、ミーアは机に突っ伏して現実逃避を始めた。
「うぅぅ……私を三人に分裂させる魔道具でも作れないでしょうか……。」
確かに、このままではミーアが過労で倒れてしまうとアイラは危機感を覚えた。
アイラは腕を組み、真剣に人材不足の解消について考えを巡らせた。
必要なのは、貴族のしがらみがなく、頭が柔らかくて新しい技術をすぐに吸収できる、優秀な助手たちだ。
「……そうだわ。ミーアみたいな子を、もっと見つけてくればいいのよ。」
「ミーアみたいな子、ですか?」
「ええ。前世……いえ、私の経験から言って、環境に恵まれていないだけで、地頭の良い子供はごまんといるはずだわ。」
アイラ自身がスラム出身であり、そこで生き抜くためにどれほどの知恵と計算が必要だったかを身をもって知っている。
スラムの泥水の中から這い上がるような執念と賢さを持つ子供たちを拾い上げ、教育を施せば、必ずやミーアを支える優秀な人材になるはずだ。
アイラはさっそく、執務室にいるレオンハルトの元へと向かった。
「お父様、領地開発のための人材として、孤児院やスラムの子供たちを引き取って教育したいのです。」
アイラが単刀直入に切り出すと、レオンハルトは書類から顔を上げ、少しだけ目を瞬かせた。
「孤児たちを、か? まあ、高位貴族の義務として孤児院への寄付は常に行っているし、有能な人材を囲い込むのは貴族の常套手段だが。」
レオンハルトはあっさりと頷き、許可を出した。
「我が領地の未来を担う子供たちを保護し、教育を施すのは良いことだ。別邸の一つを彼らのための施設として開放しよう。」
「ありがとうございます、お父様! では、さっそく探しに行ってきますわ!」
数日後、王都の薄暗いスラム街に、不釣り合いなほど豪華で物々しい集団が足を踏み入れていた。
先頭を歩くのは、王都の裏社会のドンにしか見えない威圧感を放つレオンハルトと、氷の刃のような殺気を周囲に振り撒くセオドアである。
その後ろには、アルジェント公爵家が誇る完全武装の精鋭騎士団がガッチリと陣形を組み、その中央にアイラ、リリア、ミーアの三人の少女が守られていた。
「……おい、なんだあの集団は。あれ、貴族様の馬車じゃねえか。しかもあの紋章……まさかアルジェント公爵家か!?」
「馬鹿っ、目を合わせるな! スラムを丸ごと焼き払う気か!?」
スラムのギャングや荒くれ者たちは、壁の影に隠れて震え上がっていた。
「お姉様、なんだか皆様、とても怯えていらっしゃいますわね。」
リリアが不思議そうに首を傾げる横で、アイラは鋭い観察眼を光らせてスラムの子供たちを値踏みしていた。
「あの子、スリの手口が鮮やかだったわ。指先の使い方が魔法の微細な制御に向いているわね。騎士団、あの子を『保護』なさい。一滴も血を流させず、丁重にね。」
「はっ!」
「あそこの路地裏で、大人相手に堂々と物々交換の交渉をしている子もいいわね。計算が高そうだわ。あの子も保護して。」
「御意!」
アイラの指示が飛ぶたびに、騎士たちが素早く動き、スラムの子供たちを次々と保護していく。
しかし、スラムの住人たちから見れば、それは完全に公爵家による容赦のない子供のさらいにしか見えなかった。
「ひぃぃっ! 公爵家の悪魔たちが、スラムのガキどもを攫っていくぞ!」
後にスラムのギャングたちの間で血の収穫祭として語り継がれることになるこの出来事だが、当の子供たちは公爵邸で温かいご飯を食べられると知って、意外とあっさりついてきていた。
スラムでの人材発掘を終えたアイラたちは、次に王都の郊外にある大きな孤児院へと視察に向かった。
「よくぞお越しくださいました、公爵閣下。我が孤児院の子供たちは、皆健やかに育っております。」
恰幅の良い孤児院の院長が、愛想笑いを浮かべて出迎えた。
しかし、アイラの目は誤魔化せなかった。
院長は丸々と太っているのに、子供たちの服はボロボロで、痩せこけていることを彼女は見逃さなかったのだ。
アイラは院長の案内を無視して、厨房や倉庫の方へと歩いていった。
「ア、アイラお嬢様!? そちらは汚れておりますので……!」
「院長先生。アルジェント家から毎月多額の寄付と、良質な小麦や肉が届けられているはずですが、この倉庫にあるのはカビの生えた黒パンと、クズ野菜だけですわね。」
アイラの氷のような冷たい声に、院長の顔からサッと血の気が引いた。
「そ、それは……! 寄付金は建物の修繕費に……!」
「嘘をつくな。お前の懐に入っていることは、既に我が家の暗部が裏帳簿を押さえて確認済みだ。」
いつの間にかアイラの背後に立っていたセオドアが、冷酷な声で言い放ち、一枚の書類を突きつけた。
「ひっ……!」
「我がアルジェント家の慈悲を食い物にするなど、万死に値する。騎士団、この豚を捕らえよ。王国の法に則り、厳正に処罰する。」
レオンハルトの静かな、しかし絶対的な怒りが込められた命令により、院長はその場で引きずられていった。
「大丈夫よ。今日からあなたたちは、アルジェント家の別邸で暮らすの。美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせてあげるわ。」
アイラが怯える孤児たちに優しく微笑みかけると、子供たちの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
こうして、スラムと孤児院から集められた数十人の子供たちは、公爵家の別邸へと移送されたのである。
別邸での生活は、子供たちにとってまさに天国だった。
「まずは、栄養状態を改善して、体力をつけさせることが最優先よ。」
アイラの方針により、子供たちには毎日、肉や野菜がたっぷりと入った温かいスープと、ふかふかの白パン、そしてミーアお手製のエナジーバーが振る舞われた。
みるみるうちに顔色を良くし、活気を取り戻した子供たちに対し、アイラは次なる段階である適性検査を実施した。
簡単な読み書きや計算、そしてミーアが作った立体パズルなどを解かせて、彼らの地頭の良さを測るのである。
「やはり、過酷な環境を生き抜いてきただけあって、物覚えが凄まじく早いわね。」
アイラは検査結果を見ながら、満足げに頷いた。
地頭がミーアレベルにずば抜けている天才クラスの数名は、ミーアの直属の助手として魔道具の基礎理論を叩き込まれることになった。
地頭が良い秀才クラスは、将来の魔道具の量産ラインを管理する現場監督候補として、計算や図面の読み方を学ぶ。
地頭が普通の子供たちは、量産ラインでの組み立て作業や、インフラ整備の補助などの仕事を任されることになった。
「みんないい? あなたたちが頑張って魔道具を作れば、この国中の人が、毎日温かくて美味しいご飯を食べられるようになるのよ!」
アイラが熱弁を振るうと、子供たちは目を輝かせて元気よく返事をした。
「おおーっ!」
美味しいご飯の力で忠誠心を完全に掌握された子供たちは、アイラの期待をはるかに超える速度で知識を吸収し、成長していった。
ミーアもついに徹夜から解放されると涙を流して喜び、助手たちと共にすさまじい勢いで量産ラインの構築とインフラ用魔道具の完成へと邁進していった。
そして、アイラたちの飽くなき食への執念と、子供たちの努力が結実し、アルジェント領が劇的な変貌を遂げるまでに、それほど時間はかからなかった。
* * *
数えきれないほどの試行錯誤と、領民が一丸となった開発の日々を経て、三年という月日が瞬く間に過ぎ去っていったのである。
王都から馬車で数日離れた場所にあるアルジェント領の中心都市は、かつての長閑な田舎町の面影を完全に消し去っていた。
「お姉様、見てください! メインストリートの舗装が、領地の端まで完了したそうですわ!」
馬車の窓から身を乗り出して歓声を上げるのは、十二歳になり、ますます天使のような美しさに磨きがかかった双子の妹のリリアである。
「ええ。ミーアたちが作った『自動舗装機』のおかげで、馬車が全く揺れないわね。」
同じく十二歳になったアイラもまた、淑女としての落ち着きと、どこか魔王のような威厳を漂わせながら、満足げに街並みを見渡していた。
街の道路は、ミーアの魔道具によって平らに固められた滑らかな石畳で舗装され、道の両脇には清潔な水路が整備されている。
家々の窓からは、かつてのような薪の煙ではなく、魔道具のオーブンで焼かれる香ばしい肉やパンの匂いが漂ってきていた。
「お母さん、洗濯機終わったよー!」
「ありがとう! じゃあ次は、掃除機かけてちょうだい!」
平民の家からは、家事用魔道具が稼働する心地よい音と、余裕の生まれた家族たちの明るい笑い声が聞こえてくる。
家事から解放された平民たちは、余った時間を労働や趣味、そして料理へと費やすようになっていた。
領地の市場には、アイラが望んだ通り、各家庭で工夫を凝らされた多様な食材や惣菜が並び、活気に満ち溢れている。
「……三年で、ここまで街を変えてしまうとはな。」
向かいの席に座るレオンハルトが、感嘆と畏怖の混じった溜息を吐いた。
「アイラが孤児たちを育て上げたおかげで、魔道具の生産体制が完璧に機能していますからね。今やアルジェント領の生活水準は、王都を凌駕する勢いです。」
すっかり立派な青年となったセオドアも、誇らしげに頷いている。
「ああ。だが、あの腹黒いジュリアン王太子殿下も抜け目がないぞ。」
レオンハルトが、苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか感心したような顔で言った。
「アイラの領地開発をただ黙って見ていたわけではなかった。我が領地での実証実験が終わって安全性が確認された魔道具やインフラ技術を、国王陛下と共に吟味し、次々と王都にも導入しているのだ。」
「ええ。アルジェント領の開発スピードには数歩遅れていますが、王家主導で整備された現在の王都は、三年前に比べて凄まじい発展を遂げています。」
セオドアの言葉に、アイラはクスリと笑みをこぼした。
王家が普及を急いでくれているなら、王都の平民たちも美味しいご飯を作れる環境になってきているはずであり、それはまさにアイラの野望通りであった。
「みんなが美味しいご飯を食べられるようになって、本当に良かったですわ!」
リリアが無邪気に笑うと、アイラも優しく微笑み返した。
これでようやく、彼女の理想の食環境の土台が完成したのだ。
アイラは、馬車の中でミーアが作ってくれた新作の保存食クッキーを齧りながら、平和な景色を堪能していた。
しかし、アルジェント領の異常なまでの発展と、誰も見たことのない未知の魔道具の数々が、他国や王家の新たな思惑を呼び寄せることになるのは、もはや避けられない未来であった。
「さて、次は何を作って食べようかしら。」
アイラの美食への探求心は、三年が経過しても全く衰えることを知らず、さらなる波乱へと家族を巻き込んでいくのだった。
アイラたちがスラムの子供たちを保護し、アルジェント領の劇的な近代化を推し進めていた三年間。
その裏側で、アイラはもう一つの途方もない野望を、王宮を巻き込んで密かに進行させていた。
「……やっぱり、パンやお肉もいいけれど、どうしても『あれ』が食べたいのよ。」
十二歳になったアイラは、ある日の公爵邸の食堂で、ふかふかの白パンを見つめながら深く溜息を吐き出した。
「お姉様、『あれ』とは何のことですの?」
同じく十二歳に成長し、ますます天使のような可憐さに磨きがかかったリリアが小首を傾げる。
「お米よ、リリア。白くてツヤツヤして、噛むほどに甘みが出て、どんなおかずにも合う奇跡の穀物……あの究極の主食がなければ、私の美食探求は完結しないわ。」
前世の記憶を持つアイラにとって、白米の存在しない食卓は、どんなに豪華であってもどこか決定的なピースが欠けているような気がしてならなかったのだ。
アイラはすぐさま、『味王の食卓亭』が誇る国家レベルの諜報網と、王宮の調査機関を総動員して、大陸中から米らしき植物の原種を探し出させた。
数ヶ月後、南方の小国から運び込まれたそれは、確かに米の原種ではあったが、収穫量が極端に少なく、味もパサパサとした粗悪なものだった。
「これではダメね。ミーア、植物の成長を促進し、品種改良を加速させる魔道具の設計をお願い。」
「はっ、はい! 今度は農業の歴史をひっくり返すのですね!」
アイラの無茶振りにすっかり慣れきったミーアは、徹夜で『魔力式品種改良ポッド』を完成させた。
アイラの特異な治癒・生命力活性化の魔法と、ミーアの魔道具を組み合わせた結果、その原種は凄まじい速度で進化を遂げた。
結果として、一粒の種籾から八百から千粒もの良質な米を安定して収穫できる、まさに奇跡のようなスーパー種籾が誕生したのである。
「やりましたわ! これで毎日、炊きたての白米が食べられます!」
アイラは狂喜乱舞して公爵領の広大な農地に種を蒔いたが、すぐに致命的な壁にぶち当たることになった。
ヴァリエール王国の気候と土壌が、米の栽培に全く適していなかったのである。
「……育たない。茎は伸びるけれど、実の入りがスカスカだわ。」
絶望の淵に立たされたアイラだったが、そこで思わぬ助け舟を出したのが、あの腹黒いと噂のジュリアン王太子殿下だった。
「アイラ嬢、君が探している条件の土壌と気候なら、隣国のジニオン王国がぴったり合致するはずだよ。」
ジュリアン殿下は、王宮の執務室で巨大な大陸地図を広げながら、優雅な笑みを浮かべて言った。
「ジニオン王国……確か、長閑な農業国家でしたわね。」
「ああ。彼らは軍事力を持たず、常に周辺国からの脅威に晒されている。そこで、我が国から提案を持ちかけたのだ。」
ジュリアン殿下は、さも当然の外交交渉のように、恐るべき内容を口にした。
「我がヴァリエール王国の精鋭騎士団の一部をジニオン王国に駐屯させ、彼らの国境を完璧に防衛する。その代わり、君が作ったあの『奇跡の種籾』の栽培を彼らの全土で行わせ、収穫された米の安定供給と独占契約を我が国と結ばせる、という平和的な協定さ。」
「それ、平和的という言葉を隠れ蓑にした、事実上の属国化宣言ではありませんの?」
アイラが呆れたようにツッコミを入れると、ジュリアン殿下は悪びれずに笑って答えた。
「お互いに利益のある素晴らしい協定じゃないか。」
こうして、アイラの「米を食べたい」という個人的な食欲は、隣国を巻き込んだ国家規模の安全保障条約へと発展してしまったのである。
ジニオン王国の土壌は、アイラの前世の記憶にある日本と酷似しており、奇跡の種籾はそこで爆発的な豊作をもたらした。
「……美味しいっ! これよ、この甘みと適度な粘り気!」
最初の収穫祭で、土鍋で炊き上げられたツヤツヤの白米で作った塩むすびを頬張り、アイラは感動のあまり涙を流した。
「お姉様、この白いご飯、とっても甘くて美味しいですわ! どんなお肉やお魚とも合いそうです!」
リリアも口の周りにご飯粒をつけながら、幸せそうに咀嚼している。
「このお米という穀物は、パンとは違う不思議な腹持ちの良さと、魔力を回復させるような力強さがありますね……!」
特例で男爵となったミーアも、自ら開発した『魔力式自動炊飯器』の試作機を抱きしめながら、白米の虜になっていた。
アイラ、リリア、そしてミーアの三人は、主な発案・開発者として親善大使の肩書きを与えられ、頻繁にジニオン王国を行き来するようになった。
「親善大使の護衛と、外交の調整は私の役目だからね。」
当然のように、公務と称してジュリアン殿下も毎回同行し、二国間の繋がりとアイラたちが作る絶品のお米料理への執着を強固なものにしていった。
アイラたちの怒涛の野望は、領地の近代化とこの隣国を巻き込んだ白米革命によって、目まぐるしく過ぎ去っていったのである。
* * *
白米の安定供給と領地の発展が軌道に乗ってから、さらに四年の月日が流れた。
王都のアルジェント公爵邸、その広大な庭園で、十六歳に成長したアイラは、優雅に日本茶のような緑茶を啜っていた。
かつての幼さは抜け落ち、誰もが振り返るほどの美貌と、公爵令嬢としての洗練された立ち振る舞いを身につけている。
しかし、その頭の中身は、相変わらず美味しいご飯のことで満たされていた。
「ミーア、あの新しい魔道具の調子はどうかしら。」
「完璧です、アイラ様! ジニオン王国から運び込まれる大量のお米を、鮮度を保ったまま一瞬で精米する『魔力式自動精米機』の大型ラインが稼働を開始しました!」
同じく十六歳になったミーアは、男爵としての立派な身なりをしながらも、相変わらず工具を手放せない技術者の顔で報告してきた。
「ありがとう。これで王都の平民たちも、毎日安くて美味しい白米が食べられるわね。」
アイラが微笑むと、隣で特大のおにぎりを幸せそうに頬張っている少女が顔を上げた。
「お姉様、この鮭のおにぎり、塩加減が絶妙ですわ!」
アイラの双子の妹であるリリアもまた、十六歳の見目麗しい淑女へと成長していた。
社交界では「アルジェント家の双子の天使」と称賛され、数多の貴族子弟から求婚が殺到しているが、本人はおにぎりの具材選びにしか興味がない。
アイラたちが十六歳を迎えた現在、ヴァリエール王国の発展は他の周辺諸国の追随を全く許さないレベルに到達していた。
アイラが考案し、ミーアが形にしたインフラ用魔道具や保存食、そして通信魔道具の数々は、国中に行き渡っている。
それに加えて、ジニオン王国からの潤沢な食糧供給により、ヴァリエール王国は圧倒的な経済力と、飢えを知らない士気最強の軍事力を誇る、大陸随一の超大国となっていたのだ。
「それにしても、ジニオン王国からの手紙には驚きましたね。」
いつの間にか庭園に現れたセオドアが、苦笑いを浮かべながら一枚の封書を差し出した。
アイラの兄であるセオドアも、二十歳を超えて次期公爵としての威厳と色気を身につけ、王宮で重要な政務を担う若き重鎮となっていた。
「ジニオンの国王夫妻から、また何か要請がありましたの?」
アイラが封書を受け取って目を通すと、そこにはあまりにも予想外な内容が記されていた。
『貴国の技術に依存しすぎた結果、もはや単独での国家運営は不可能となった。つきましては国を明け渡すので――王都のアイラ殿の近くに隠居させ、毎日あの「炊きたての白米と焼き魚」を食べさせてはくれまいか。』
「……併合してくれって、一国の王様がそんな適当な理由で国を明け渡していいのかしら。」
アイラが呆れたように呟くと、セオドアは深く溜息を吐いた。
「彼らにとっては切実なのでしょう。軍事は完全に我が国が担い、経済も我が国の技術に依存している現状、周りから見ればジニオン王国はすでに立派な属国ですからね。」
「ジュリアン殿下はどうおっしゃっているの?」
アイラが尋ねると、セオドアは少しだけ顔をしかめた。
「あの腹黒……ゲフンッ、殿下は、『我が国に併合する大義名分が向こうから転がり込んできた』と、大喜びで併合の手続きを進める準備をしていますよ。」
ジュリアン殿下も二十二歳となり、国王の代理として実質的に国政の大部分を動かすほどの権力を掌握していた。
「殿下のことだから、きっと血の一滴も流さずに、ジニオン王国を完璧な穀倉地帯としてヴァリエール王国に組み込んでしまうわね。」
アイラはお茶を飲み干し、おにぎりを食べ終えたリリアの口元をハンカチで優しく拭ってやった。
「まあ、私たちにとっては、お米の供給ルートがより確実になるだけだから、大歓迎ですけれど。」
「アイラ、お前は本当に……国が一つ消滅して組み込まれるという歴史的瞬間を、食材の供給ルートとしか認識していないのだな。」
セオドアが頭を抱えて呻いたが、アイラは悪びれずに微笑んだ。
「美味しいご飯が平和に食べられるなら、国境線がどう引かれようと些細な問題ですわ。」
平民に美味しいご飯を食べさせたい、ただそれだけの純粋な食欲と探求心から始まったアイラの行動は、わずか七年の間に、大陸の地図を書き換え、二つの国家の運命を一つに結びつけてしまったのである。
十六歳という、貴族の令嬢として本格的な社交と婚約の時期を迎えたアイラたちであったが、彼女たちを取り巻く環境は、もはや一介の公爵令嬢の枠を遥かに超えた、国家の覇権すら左右する激動の渦の中にあった。
「さて、お米も安定したことだし、次はお醤油や味噌の本格的な大量生産ラインを作らないとね!」
アイラの飽くなき美食の追求は、国をいくつ飲み込もうとも、決して止まることはないのである。
* * *
アルジェント公爵邸の執務室は、まるでお通夜のような重苦しい空気に包まれていた。
重厚なマホガニーの机の上には、王家の紋章である双頭の鷲が刻まれた封蝋の親書が、二通並んで置かれている。
「……ついに、この時が来てしまったか。」
レオンハルトが、十年は老け込んだような憔悴した顔で呟いた。
「ええ。アイラとジュリアン王太子殿下、そしてリリアとエドワード第二王子殿下の、正式な婚約打診です。」
セオドアもまた、深い溜息を吐き出しながら親書を見つめている。
かつてアイラが九歳の頃に打診された際は、ロリコン疑惑という奇跡的な自爆によって回避することができた。
しかし、アイラたちが十六歳という立派な婚姻適齢期を迎えた今、王家からの要請を再び退ける正当な理由はどこにもなかった。
「アイラがこれまで生み出してきた魔道具や保存食、そして巨大な情報網と経済力は、もはや一介の公爵家が抱えきれる規模を遥かに超えてしまった。」
レオンハルトが、苦渋に満ちた声で現実を語る。
「これ以上、彼女たちをアルジェント家に留め置けば、国内外の過激派による暗殺や誘拐の標的になる危険性が高すぎるのだ。」
「王家の完全な庇護下に入り、ジュリアン殿下の妻という最強の盾を得るのが、アイラの安全を保障する唯一の道……悔しいですが、それが現実です。」
セオドアはギリッと奥歯を噛み締め、ペンを手に取った。
「それに、エドワード殿下も、七年間ずっと一途にリリアを想い続けてくれましたからね……これ以上、あの純情な王子を待たせるのも酷というものでしょう。」
二人の極度のシスコンと親バカは、愛する娘と妹の安全な未来を守るため、ついに断腸の思いで王家からの婚約を了承する返状にサインをしたのであった。
一方その頃、当のアイラは公爵邸の厨房で、盛大な音を立てて麺を啜っていた。
「ズズズッ……んんっ! これよ、この小麦の香りと、醤油ベースの深いコクのあるスープ!」
「お姉様、この『らーめん』というお料理、とっても美味しいですわ!」
アイラの隣では、同じく麺を啜っているリリアが、満面の笑みでスープを飲んでいる。
ジニオン王国からの米の安定供給と同時に、アイラは密かに大豆の栽培と発酵技術の研究を進め、ついに『醤油』と『味噌』の量産に成功していたのだ。
「豚骨と鶏ガラからじっくり煮出した黄金色のスープに、醤油の深いキレと香ばしい香味油が絡み合って……麺を啜るたびに悪魔的な旨味が口いっぱいに弾けるわね!」
アイラがどんぶりを置いて恍惚としているところへ、重い足取りのレオンハルトとセオドアが厨房に入ってきた。
「アイラ、リリア……少し、大事な話がある。」
レオンハルトがこの世の終わりのような顔で切り出すと、アイラは口元をナプキンで拭いながら首を傾げた。
「どうしたのですか、お父様。何か領地でトラブルでも?」
「いや……実は先ほど、王家からの婚約打診の親書に、了承の返事を出したのだ。」
その言葉に、厨房の空気が一瞬だけピタリと止まった。
「……アイラはジュリアン王太子殿下に、リリアはエドワード第二王子殿下に嫁ぐことになる。」
セオドアが涙ぐみながら告げると、リリアはぽうっと頬を赤らめた。
「まあ……エドワード殿下と……。」
「ごめんよ、お前たちをずっと手元に置いておけなくて……!」
レオンハルトが泣き崩れ、セオドアも目頭を押さえている。
そんな劇的な家族の別れのシーンにあって、アイラは冷静に相槌を打った。
「ふーん。」
姉妹揃って王族に嫁げば、アルジェント家に権力が集中しすぎて他の貴族から猛反発を食らうのではないか。
一瞬、アイラの脳裏にドロドロとした権力闘争の構図が浮かんだ。
(まあ、妙な動きをする貴族がいれば、経済的に兵糧攻めにすればいいだけだし。面倒な調整は全部ジュリアン殿下がやってくれるわよね)
アイラはものの数秒で思考を放棄した。
圧倒的な実力と手駒があるからこその、絶対的な余裕である。
「お父様、お兄様。そんなに泣かなくても大丈夫ですわ。結婚したって、毎日美味しいご飯を食べに帰ってきますから。」
アイラが呑気に告げると、レオンハルトたちは涙声で反論した。
「そういう問題ではない!」
「それより、この『醤油ラーメン』が冷めないうちに食べてくださいな。絶品ですよ。」
結局、国家の命運を分ける重大な婚約の報告は、醤油ラーメンの強烈な香りと旨味の前にあっさりと流されてしまうのだった。
そして数日後、王宮の華やかな大広間では、今年のデビュタントを祝う盛大な夜会が開催されていた。
十六歳から十八歳を迎える貴族の子女たちが正式に社交界へと足を踏み入れる、人生で最も重要なイベントの一つである。
今年はアイラとリリアも、このデビュタントに参加することになっていた。
「アイラお姉様、このドレス、少し胸元が苦しいですわ。」
王宮に用意された控室で、リリアが純白のドレスの裾を気にしながら言った。
「我慢して、リリア。今夜は私たちアルジェント家の娘が、正式に社交界の表舞台に立つ日なのだから。」
アイラは、夜空のように深い群青色のドレスに身を包み、鏡の前で冷ややかな微笑みを浮かべていた。
裏社会を牛耳る暗部の元締めとして、また国家のインフラを裏から操る黒幕として生きてきた彼女にとって、表の社交界などただの退屈な見本市に過ぎない。
コンコン、と控えめなノックの音がして、控室の扉が開かれた。
「迎えに来たよ、私の美しい妖精たち。」
現れたのは、王家の正装である純白の軍服に身を包んだ、二十二歳のジュリアン王太子殿下だった。
その背後には、同じく軍服姿で、顔を真っ赤にしているエドワード殿下の姿もある。
「ジュリアン殿下。本日はエスコートをよろしくお願いいたしますわ。」
アイラが完璧な淑女の礼をとると、ジュリアン殿下は眩しいものを見るように目を細め、そっとアイラの手を取った。
「ああ。今夜の君は、この国の誰よりも美しく、そして恐ろしいよ。」
ジュリアン殿下が耳元で囁くと、アイラは小声で返した。
「褒め言葉として受け取っておきます。」
「り、リリア嬢……! き、今日の君は、まるで女神のようだ……!」
エドワード殿下がガチガチに緊張しながらリリアの手を取ると、リリアは天使の微笑みで応えた。
「ありがとうございます、エドワード殿下。」
「さあ、行こうか。我らがヴァリエール王国の、真の支配者のお披露目だ。」
ジュリアン殿下の合図で、重厚な大広間の扉がゆっくりと開かれる。
シャンデリアの眩い光と、数百人の貴族たちの視線が、一斉に入口へと注がれた。
「王太子殿下、第二王子殿下、ならびにアルジェント公爵令嬢アイラ様、リリア様、ご入場です!」
高らかな先触れの声と共に、四人が大広間へと足を踏み入れた瞬間、会場の空気がピンと張り詰めた。
圧倒的な美貌と、隠しきれない絶対的な権者のオーラを纏うアイラに、貴族たちは息を呑み、道を空けるようにして後ずさった。
「あれが……あの数々の奇跡の魔道具を生み出し、ジニオン王国を属国にしたというアルジェント家の長女……!」
「なんて恐ろしくも美しいのだ……。」
ざわめきが波のように広がる中、アイラはただ真っ直ぐに、会場の奥に座るジェラール国王陛下へと歩みを進めていく。
とりあえず、この面倒な挨拶が終わったら、壁際にあるビュッフェのローストビーフを全種類制覇してやろうと、アイラは密かに意気込んでいた。
王都の社交界を震撼させる歴史的なデビュタントの夜にありながら、彼女の頭の中は相変わらず美味しいご飯のことで満たされていたのだ。
しかし、この華やかで完璧な夜会の裏で、大広間の暗がりからアイラを睨みつける冷たい視線があった。
アイラの平穏な美食ライフを脅かす、ある『不穏な影』が密かに蠢き始めていることに、この時の彼女はまだ気づいていなかったのである。




