第五話:平民の市場と不穏すぎる大衆食堂
「……はぁ、今日も完璧な焼き加減ね。」
アルジェント公爵邸の朝の食堂で、アイラは表面がサクッと、中がふんわりと焼き上がった白パンをかじりながら、満足げな溜息を吐き出した。
ミーアが開発した『絶対零度の貯蔵庫』と『灼熱の万能窯』のおかげで、公爵邸の食卓は日々進化を続けている。
料理人たちの技術も向上し、もはや王宮の料理長すら教えを乞いに来るレベルとなっていた。
「アイラお姉様、このイチゴのジャムもとっても美味しいですわ!」
隣の席では、リリアがジャムをたっぷりと塗ったパンを幸せそうに頬張っている。
「ええ、魔道具で温度を一定に保って煮詰めているから、フルーツの香りが全く飛んでいないのよ。」
アイラは微笑ましく頷きながら、ふと窓の外へと視線を向けた。
美しい公爵邸の庭園の向こうには、活気に満ちた王都の街並みが広がっているはずだ。
公爵令嬢としての生活は、分刻みのスケジュールで窮屈な部分もあるが、この究極の食事と安全なベッドがあるだけでも、スラム時代に比べれば天国である。
だが、アイラの飽くなき食への探求心は、すでに公爵邸の中だけでは満足できなくなりつつあった。
(公爵家や王宮のご飯は確かに最高だけど、この世界の『一般的な平民』って、普段どんなものを食べているのかしら?)
スラムでの泥水やカチカチの黒パンのような極限状態は知っているが、市場で買い物をし、普通の家で料理をする平民の食生活は、アイラにとって未知の領域だった。
前世の記憶にあるような、安くて美味しい屋台飯や、庶民の知恵が詰まった郷土料理が、この世界にも存在するのだろうか。
「……ねえ、お父様、お兄様。」
アイラは紅茶のカップを置き、正面に座る二人に向かって真剣な顔で切り出した。
「私、王都の街に出て、平民の食生活を見てみたいですわ。」
「「ブフゥッ!?」」
アイラの爆弾発言に、レオンハルトとセオドアが同時に紅茶を吹き出した。
「な、何を言っているんだアイラ! 街に出るなど危険すぎる!」
「そうです! 先日の誘拐事件の首謀者もまだ捕まっていないのですよ!? 私の可愛い妹を、野蛮な平民たちがうごめく街へ出すなど絶対に許可できません!」
二人は血相を変え、身を乗り出して猛反対してきた。
相変わらずの過保護ぶりだが、アイラもこれで素直に引き下がるつもりはない。
「でも、私が知っているのはスラムのゴミ箱の味と、公爵家の最高級食材の味だけですわ。その中間の、一番多くの人が食べているものを知らなければ、真の美食の追求はできません。」
アイラがもっともらしい理由をつけて反論していると、食堂の奥の扉がバンッと開かれた。
「アイラお嬢様のおっしゃる通りです!!」
現れたのは、コックコートを着た料理長のジャンと、その背後に控える屈強な体格の料理人だった。
「ジ、ジャン!? 貴様、なぜ急に入ってきた!」
レオンハルトが驚いて声を上げる。
「申し訳ありません、閣下。しかし、アイラお嬢様の『食の探求』というお言葉が耳に入り、居ても立っても居られず……!」
ジャンは熱い涙を流さんばかりの勢いでアイラに歩み寄り、深く頭を下げた。
「お嬢様の飽くなき探求心、料理人として感服いたしました。確かに、公爵家の厨房にこもっていては、市井に眠る未知の食材や、平民たちの独自の調理法を見逃してしまう恐れがあります。」
ジャンはそう言うと、背後にいた体格の良い料理人を前に押し出した。
「こちらは、我が厨房で市場からの仕入れを統括している、料理人のガストンです。王都の市場の裏の裏まで知り尽くした男です。」
「お初にお目にかかります、アイラお嬢様。ガストンと申します。」
ガストンは深く一礼し、熱を帯びた瞳でアイラを見つめた。
「お嬢様が街の食事情を視察されるというのであれば、ぜひこのガストンが案内役として同行させていただきたく存じます! 食材の目利きや、安全な屋台の選別など、全てお任せください!」
料理人たちの予想外の援護射撃に、アイラは内心でガッツポーズをした。
「ほら、お父様。専門家のガストンもこう言ってくれていますし、絶対に無茶はしませんから。」
「うぐっ……し、しかしだな……。」
レオンハルトがまだ渋っていると、今度はリリアがアイラの袖をぎゅっと掴んできた。
「お父様、私もお姉様と一緒に街へ行ってみたいですわ! お姉様が探す美味しいものを、私も食べてみたいです!」
リリアの上目遣いでの懇願。
これが、シスコンと親バカの二人にとって最大の決定打となった。
「……わ、分かった。二人がそこまで言うのであれば、王都の視察を許可しよう。」
レオンハルトが苦渋の決断を下すと、セオドアも涙目で頷いた。
「ただし、条件があります。平民の生活に馴染むよう変装すること、そして、決して護衛から離れないこと。」
「ありがとうございます、お父様、お兄様!」
アイラとリリアが喜んで声を上げると、レオンハルトは鋭い目つきで背後の空間に向かって声をかけた。
「暗部よ。」
「はっ、ここに。」
空間が揺らぎ、二人の女性の暗部が音もなく姿を現した。
「お前たちは今日からメイドに扮し、アイラとリリアに一人ずつ専属の護衛として付け。いかなる事態が起きようとも、この二人の命に代えて娘たちを守り抜け。」
「御意。」
女性暗部たちは短く答え、再び影の中へと溶け込んでいった。
「目立たないように、と言っても、これだけ厳重な護衛がいれば安心ね。」
アイラがホッと息をついていると、セオドアが当たり前のような顔をして立ち上がった。
「もちろん、僕と父上も護衛として同行するからね。」
「……え?」
アイラが固まっていると、レオンハルトも深く頷いた。
「当然だ。可愛い娘たちを、危険な街へ子供と使用人だけで行かせる親がどこにいる。」
「いや、お父様もお兄様も、街歩きなんてしたことないでしょ……絶対に目立つわよ。」
アイラの嫌な予感は的中した。
数時間後、王都の賑やかな大通りに、ひときわ異彩を放つ集団が現れたのだ。
「おお、これが平民の市場というものか。活気があるな。」
レオンハルトは、平民の商人が着るような地味な服を着ているものの、その隠しきれない王者の威圧感と鍛え上げられた体躯のせいで、どう見ても『お忍びで視察に来た大貴族』か『裏社会のドン』にしか見えなかった。
「アイラ、リリア、僕から離れないようにね。少しでも怪しい奴がいたら、僕がすぐに切り捨てるから。」
セオドアに至っては、町娘風の地味なドレスを着たアイラとリリアの両脇をガッチリとガードし、道行く人々に殺気を振り撒いている。
その後ろには、目つきの鋭い『メイド』が二人と、屈強な体格の料理人ガストンが控えているのだ。
「……ガストン、なんだか私たちが通るたびに、道が開いていくのだけれど。」
アイラが呆れたように呟くと、ガストンは苦笑いを浮かべながら小声で答えた。
「皆様、只者ではないオーラがダダ漏れですからね。市場の荒くれ者たちも、本能的に道を譲っているのでしょう。」
「これじゃあ、普通の視察なんてできないわね……。」
アイラは深い溜息を吐きながら、市場の通りを見渡した。
しかし、そんな異様な状況でも、アイラの食への執着が揺らぐことはない。
通りには、獲れたての野菜や魚を並べた露店がひしめき合い、奥の方からは香ばしい肉の焼ける匂いや、スパイスの香りが漂ってきていた。
「アイラお姉様! あそこで何か、丸いものを焼いていますわ!」
リリアが目を輝かせて指差した先には、小さな屋台があった。
鉄板の上で、小麦粉の生地に野菜や細切れの肉を混ぜたものを、丸く平たく焼き上げている。
前世の記憶にある『お好み焼き』や『ガレット』に近い食べ物のようだ。
「あれは『粉焼き』と呼ばれる、平民の定番のおやつです。手軽に腹を満たせるので、市場の職人たちに人気がありますね。」
ガストンが素早く解説を入れてくれる。
「美味しそうね。お兄様、あれを少し買ってきていただけないかしら。」
アイラが頼むと、セオドアは「任せておけ!」と意気揚々と屋台に向かっていった。
しかし、屋台の親父は、鋭い殺気を放ちながら近づいてくるセオドアを見て、「ひぃっ! みかじめ料なら昨日払いましたよ!」と怯えて震え上がってしまった。
「ち、違う! この『粉焼き』というものを二つ、いや、五つ頼む! 金ならいくらでも払う!」
セオドアが慌てて金貨を一枚取り出して突きつけると、親父はさらにパニックになってしまった。
「き、金貨!? こんな屋台の食べ物に金貨なんて、お釣りが出ませんよぉ!」
「お兄様、お財布は私が預かりますから、下がっていてください。」
見かねたアイラが進み出て、セオドアから財布を受け取った。
「おじさん、ごめんなさいね。私の家族、市場に来るのが初めてで勝手が分からないの。粉焼きを五つ、これでお願いできる?」
アイラは財布から適当な銀貨と銅貨を取り出し、屋台の親父に差し出した。
「お、おう。お嬢ちゃん、しっかりしてるねぇ。ちょっと待ってな、今一番熱いやつを焼いてやるからよ。」
親父は愛想よく笑い、鉄板の上でジュージューと音を立てる粉焼きを器用にひっくり返した。
香ばしい焦げた匂いと、甘辛いソースの香りが辺りに漂う。
「はいよ、お待ち遠さん!」
紙に包まれた熱々の粉焼きを受け取り、アイラはさっそく一口かじってみた。
「……んっ!」
外側はカリッとしていて、中はもちもちとしている。
公爵家の最高級の肉や繊細なソースとは対極にある、荒々しくも力強い、まさに『庶民の味』だった。
「アイラ、そんな道端の食べ物を……お腹を壊さないかい?」
レオンハルトが心配そうに覗き込んでくるが、アイラは満面の笑みで粉焼きを差し出した。
「お父様も食べてみてください。公爵家のご飯とは違った、ジャンクな美味しさがありますわよ。」
レオンハルトは少し躊躇いながらも、アイラに勧められるまま粉焼きを口にした。
「……むっ?」
目を見開くレオンハルト。
「なんだ、これは。使われている小麦も肉も下等なもののはずだが……この、焦げたソースの香ばしさと、生地の食感が絶妙に合わさって、妙に後を引く味だ。」
「お姉様! 私のもとっても美味しいですわ!」
リリアも口の周りにソースをつけながら、幸せそうに粉焼きを頬張っている。
「でしょう? 高級な食材を使わなくても、工夫次第で美味しいものは作れるのよ。」
アイラが勝ち誇ったように言うと、ガストンも深く頷いた。
「アイラお嬢様のおっしゃる通りです。市場の屋台には、生き残るための平民たちの知恵と工夫が詰まっています。我々料理人も、この『力強さ』を学ばねばなりません。」
「次はあっちのお肉の串焼きを食べてみましょう!」
アイラが意気揚々と歩き出すと、レオンハルトとセオドアも、少しだけ市場の雰囲気に毒されたのか、楽しそうな顔をして後を追った。
公爵家という鳥籠を抜け出し、王都の広大な食の海へと漕ぎ出したアイラたち。
彼女の美食への飽くなき探求心は、この日を境に、公爵邸の厨房だけでなく、王都全体の食文化をも巻き込んでいくことになるのだった。
市場には、活気と平民たちの工夫が満ち溢れていた。
アイラたちは粉焼きの屋台を後にして、香ばしい匂いを漂わせる串焼きの屋台へと足を向けた。
「おじさん、この串焼きを五本お願いできるかしら。」
アイラが銀貨を渡すと、屋台の店主は手際よく肉の串をひっくり返し、壺に入った黒っぽいタレにどっぷりと浸した。
タレが炭火に落ちて、暴力的なまでに食欲を刺激する焦げた匂いが立ち上る。
「はいよ、火傷しないように気をつけてな!」
手渡された串焼きを一口かじると、肉自体は少し硬くスジ張っていたが、ニンニクと甘辛いタレの味がガツンと脳を揺らした。
「……んんっ、これよこれ! 高級な柔らかいお肉じゃ出せない、この噛み応えとジャンクなタレの味!」
アイラが感動に打ち震えていると、隣で串焼きを食べたレオンハルトとセオドアも目を丸くしていた。
「確かに肉は硬いが、このタレの強烈な風味がそれを完全にカバーしているな。」
「噛むほどにタレの味と肉の脂が混ざり合って、不思議と後を引く味だね。」
貴族の食卓には決して並ばない野性味あふれる味に、過保護な家族たちもすっかり魅了されているようだ。
さらに市場の奥へと進むと、今度は甘い砂糖の匂いが漂ってきた。
「アイラお姉様、あそこにキラキラした赤いお菓子がありますわ!」
リリアが指差した先には、棒に刺さった丸ごとの小さなリンゴに、真っ赤な飴をコーティングしたお菓子が売られていた。
前世の記憶にある『りんご飴』と全く同じものだ。
「あれも一つ買ってみましょうか。」
リリアがりんご飴を受け取り、パリッと音を立ててかじると、中から甘酸っぱい果汁が溢れ出した。
「外は甘くてパリパリなのに、中はシャキシャキで酸っぱいですわ! とっても美味しいです!」
リリアが天使のような笑顔で頬張る姿を見て、レオンハルトとセオドアは目尻を限界まで下げてデレデレになっている。
市場の屋台飯を堪能したアイラは、今度は食材を売る通りへとガストンを案内させた。
「ガストン、あそこの少し形の悪い野菜や、スジが多くて安いお肉を大量に買い込んでちょうだい。」
アイラの指示に、ガストンは不思議そうな顔をしながらも従った。
「アイラお嬢様、このような下等な食材を公爵邸にお持ち帰りになるのですか?」
「ええ。今日はこの平民の食材を使って、最高にジャンクで美味しい料理を作るわよ。」
アイラの宣言に、ガストンはゴクリと喉を鳴らした。
食の女神とも称されるアイラが、あえて最高級の食材を使わずに何を生み出すのか、料理人としての好奇心が刺激されたのだろう。
大量の食材を買い込み、一行は満足げに公爵邸へと帰還した。
屋敷に戻るなり、アイラはドレスを着替える間も惜しんで厨房へと直行した。
「ジャン! ミーアも呼んでちょうだい! 新しい料理の開発を始めるわよ!」
アイラが厨房の扉を開け放つと、ジャンをはじめとする料理人たちが一斉に居住まいを正した。
「お待ちしておりました、アイラお嬢様! して、本日はどのような極上の食材を……って、それは?」
ガストンが背負っていた麻袋から出されたのは、不揃いなじゃがいもや、少し硬そうな赤身肉、そして大量の小麦粉と油だった。
「市場で平民たちが実際に使っている食材よ。」
アイラが誇らしげに言うと、ジャンたちは戸惑いの表情を浮かべた。
「このような……失礼ながら、我々が普段なら捨ててしまうような部位のお肉や野菜で、料理をされると?」
「その通りよ。最高級の食材を美味しく料理できるのは、あなたたちなら当然のことだわ。」
アイラは料理人たちを見回し、不敵な笑みを浮かべた。
「でも、限られた安い食材を、知恵と工夫で『最高級とは違ったベクトルで圧倒的に美味しくする』のが、平民の料理の力強さなのよ。」
「……なるほど。あえて条件の悪い食材を使い、我々の腕とアイラお嬢様の知識で至高の味へと昇華させるという試練ですね!」
ジャンが勝手に解釈して熱く燃え上がっているが、アイラはただ前世のジャンクフードが食べたかっただけである。
「ミーア、お願いしていた魔道具の調整はどうなっているかしら?」
いつの間にか厨房に来ていたミーアが、銀色の深い鍋型の魔道具を指差した。
「はい、アイラ様! 炎の魔石と温度感知回路を連動させ、中の油の温度を常に百七十度に保ち続ける『恒温揚鍋』です!」
「完璧よ、ミーア! これで最高の揚げ物ができるわ!」
「ガストン、まずはじゃがいもを細長く切り揃えて、水にさらしてデンプンを抜いてちょうだい。」
アイラは用意された踏み台の上に立ち、熟練の料理人たちに次々と指示を出していく。
「それをしっかりと水気を拭き取ったら、ミーアの作ったフライヤーの油の中へ投入して!」
ガストンが指示通りにじゃがいもを油へ落とすと、ジュワァァァッという心地よい音と共に、油の細かい泡がじゃがいもを包み込んだ。
「油の温度が全く下がらない……! これなら食材が油を吸いすぎず、カラッと揚がりますね!」
ジャンが驚愕の声を上げる中、キツネ色に揚がった『フライドポテト』を網に上げ、熱いうちに塩を強めに振らせる。
「次はこれよ。ジャン、硬くてスジの多いお肉を一口大に切って、包丁の背で徹底的に叩いて繊維を断ち切って。」
アイラの指示に合わせて、ジャンが凄まじい手際で肉の繊維を叩き潰していく。
「そこに、すりおろしたニンニクと生姜、醤油に似た発酵調味料、そして少しのお酒を揉み込んで下味をつけてちょうだい。」
「承知いたしました! このような下味のつけ方は初めてですが、香りがすでに凶悪です!」
「そして、小麦粉とデンプン粉を混ぜた衣をたっぷりとまぶして、油へ!」
ガストンが衣をつけた肉を油へ投入すると、再びフライヤーからバチバチと油が弾ける盛大な音が響き、厨房内にニンニクと醤油の焦げるような、暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満した。
前世で誰もが愛したジャンクフードの王様、『唐揚げ』の完成である。
「最後は、市場で食べた『粉焼き』の進化系と、お肉をパンで挟んだものを作るわよ!」
アイラが指示を飛ばし、若手の料理人たちがインフェルノ・オーブンで丸いパンを次々と焼き上げていく。
並行して、ジャンとガストンが巨大な鉄板を使い、細かく切った肉と野菜、そして平打ちの麺を豪快に炒め合わせた。
「そこに、私が配合した甘辛いソースをたっぷりと絡めて!」
アイラの合図でソースが投入されると、鉄板から焦げたソースの香りが立ち上り、厨房の料理人たちの理性を奪っていく。
『焼きそば』と、パンに肉汁たっぷりのハンバーグと新鮮な野菜を挟んだ『ハンバーガー』の完成だ。
「さあ、試食会よ! お父様たちも食堂に呼んでちょうだい!」
数十分後、公爵邸の豪華な食堂の長テーブルには、銀の食器に盛られた茶色いジャンクフードの山が並んでいた。
「……アイラ。これは、なんとも野性味あふれる香りの料理だな。」
レオンハルトが、目の前の巨大なハンバーガーと山盛りの唐揚げを前にして、少しだけ引きつった笑いを浮かべている。
「お姉様、この細長いお芋、とっても良い匂いがしますわ!」
リリアは躊躇することなくフライドポテトを手に取り、パクリと口に入れた。
「……カリッとしていて、中はお芋の甘さがホクホクです! お塩の味が後を引いて、手が止まりませんわ!」
リリアが次々とフライドポテトを口に運ぶのを見て、レオンハルトとセオドアも恐る恐る唐揚げにフォークを突き刺した。
「では、一口……っ!?」
レオンハルトが唐揚げを噛み締めた瞬間、サクッという心地よい音と共に、中から熱々の肉汁が溢れ出した。
「なんだこれは!? あの市場で買った下等な肉が、どうしてこんなに柔らかく、そして強烈な旨味を放っているのだ!」
「ニンニクと生姜の風味が食欲を限界まで引き上げている! 噛むほどに溢れる肉汁と衣の香ばしさが、口の中で爆発するようだ!」
セオドアも完全に理性を失い、手掴みで唐揚げを貪り食っている。
「このパンに肉を挟んだ料理も凄まじいぞ! 肉の脂を新鮮な野菜が中和し、ふかふかのパンが全ての味を包み込んでいる!」
公爵邸の主たちが、上品なマナーなど完全に忘れて、口の周りをソースや油だらけにしながらジャンクフードを頬張る姿は、なんともシュールだった。
「アイラお嬢様……我々の完敗です。食材の格など、調理の工夫とアイデアの前では些末な問題でしかなかったのですね。」
壁際で試食をしていたジャンたち料理人も、唐揚げと焼きそばの麻薬的な美味しさに涙を流しながら屈服していた。
「でしょう? 高級なフレンチもいいけれど、たまにはこういう頭の悪いご飯も最高なのよ。」
アイラはハンバーガーに大きくかぶりつきながら、前世の懐かしい味を心ゆくまで堪能した。
平民の知恵と活気から着想を得て、魔道具と料理人の技術で限界まで高められた『究極のジャンクフード』。
この日、アルジェント公爵家の食卓に新たな伝説が刻まれ、アイラの美食探求はさらなる混沌と熱狂の渦へと進んでいくのだった。
アルジェント公爵邸の重厚な執務室で、アイラは大きな羊皮紙を机の上に広げた。
「お父様、お兄様。私、王都の目抜き通りに新しい食堂を開きたいのですわ。」
アイラの唐突な提案に、執務机に向かっていたレオンハルトとセオドアは、ピタリと羽ペンを止めた。
「食堂、だと? 我が公爵家が、平民向けの飲食店を経営するというのか?」
レオンハルトが驚きと共に問い返すと、アイラは自信満々に頷いた。
「ええ。先日開発したジャンクフードをはじめとして、高級食材に頼らない料理を出すお店です。」
アイラはミーアに清書してもらった食堂の図面を指差した。
「この食堂は、単なる利益目的ではありません。我が公爵邸の料理人たちを育成するための、いわば『学校』なのです。」
公爵邸の厨房はすでに魔道具によって極限まで効率化されているが、アイラは彼らが高級食材に甘え、発想が凝り固まることを危惧していた。
「限られた予算と一般的な食材で、いかに美味しく、大衆の胃袋を掴む料理を作れるか。純粋な調理技術と発想力を鍛えるには、実戦の場が一番ですわ。」
「なるほど。下ごしらえの基礎や、柔軟なアイデアを若手料理人に学ばせるための修練場というわけだな。」
セオドアが感心したように頷くと、アイラはさらに悪い笑顔を浮かべた。
「それだけではありません。この食堂は、一階を一般の平民向けの広いホールとし、二階を貴族などがお忍びで利用できる完全防音の個室にするのです。」
「……ほう? なぜわざわざ階層を分けるのだ?」
レオンハルトが目を細めると、アイラは図面の二階部分をトントンと叩いた。
「一階のホールスタッフは王都の平民から広く雇い入れ、活気を出します。しかし、二階の貴族相手の個室には、我がアルジェント公爵家の『暗部』であるメイドたちを給仕として配置するのです。」
その言葉に、執務室の空気が一瞬にして張り詰めた。
「美味しい料理と極上の酒。そして、誰にも聞かれないという安心感のある個室。そこで貴族たちが何を話すか……お分かりになりますわね?」
「……密会、裏取引、あるいは他国のスパイとの接触。それらの情報を、給仕に扮した暗部たちに全て収集させるというのか。」
レオンハルトが驚愕に目を見開く。
「その通りです。もし万が一素性がバレて客に襲われても、うちの暗部なら余裕で逃げ切れますから安全ですわ。」
「しかし、それほど客の入りが良くなければ、情報も集まらんだろう。治安の維持も問題だ。」
「問題ありません。食堂の警備として我が公爵家の騎士たちを常駐させます。彼らには給料の他に、昼食と閉店後の『極上の賄い』と『お酒』を無料で提供するシステムにしますわ。」
アイラが事もなげに言うと、レオンハルトとセオドアは完全に言葉を失った。
あの絶品のジャンクフードや魔道具で作られた料理がタダで食べられるとなれば、騎士たちは血眼になって食堂の平和を守り抜くに違いない。
「料理人の育成、平民の雇用創出、騎士の士気向上、そして王都全域の裏情報の独占……。」
セオドアが震える声でアイラの提案を反芻する。
「アイラ……お前という娘は、ただの九歳の少女の皮を被った魔王か何かなのか……?」
「私はただ、毎日美味しくて新しいご飯が食べたいだけですわよ。」
レオンハルトは深く、深い溜息を吐き出すと、もはや抗うことを諦めたように笑い声を上げた。
「……よかろう。資金も人員も好きにするがいい。王都の中心に、アルジェント家の名を冠した『美食と情報の拠点』を築き上げようではないか!」
こうして、国家すら揺るがしかねない恐るべき食堂の設立計画が、アイラの食欲を原動力としてスタートしたのだった。
それから数ヶ月後、王都の最も活気ある大通りの一角に、『味王の食卓亭』という名の真新しい二階建ての食堂がオープンした。
オープン初日、厨房ではすさまじい熱気と怒号が飛び交っていた。
「火加減が甘い! その肉の繊維なら、もっと高温で一気に表面を焼き固めんか!」
「ソースの香りが飛んでいるぞ! 『恒温揚鍋』の温度管理に気を抜くな!」
公爵邸から指導役として派遣されたガストンが、若手料理人たちに容赦のない檄を飛ばしている。
アイラは邪魔にならないよう、厨房の隅に用意された特製の踏み台の上に立ち、全体を見渡しながら指揮を執っていた。
「ガストン、あの野菜炒めは少し火を通しすぎよ。平民の料理は、野菜のシャキシャキとした食感が命なんだから。」
「はっ! アイラお嬢様のご指摘通りに! おいお前ら、野菜を入れるタイミングをあと数秒遅らせろ!」
九歳のアイラは調理台には背が届かないため、自ら包丁を握ることはないが、その的確な指示は熟練の料理人たちを完璧に統率していた。
厨房で生み出されるのは、あの暴力的なまでに香ばしい唐揚げや、甘辛いソースが焦げる匂いがたまらない焼きそば、そして安価な麦酒に最高に合うモツの煮込みなどだ。
一階の広大なホールは、オープン直後から平民たちで超満員となっていた。
「うおおっ、この肉の揚げ物、外はサクサクなのに中から肉汁が溢れてきやがる!」
「この麺の料理も最高だ! ソースの匂いだけでエールが何杯でも飲めるぜ!」
平民から雇われたホールスタッフたちが、笑顔で次々とジョッキや皿を運んでいく。
そして、その熱気あふれるホールの四隅には、アルジェント公爵家の紋章をつけた屈強な騎士たちが、腕を組んで鋭い眼光を光らせていた。
「……おい、あそこの客、少し酔って絡み始めているぞ。」
「すぐにつまみ出せ。我々の『至高の賄い』を提供する神聖な食堂を汚す輩は、この俺が許さん。」
騎士たちは、閉店後に提供される唐揚げと極上のエールという報酬のため、凄まじい気迫で治安維持に当たっていた。
おかげで、これほど酒が入り乱れる大衆食堂でありながら、酔っ払いの喧嘩や無銭飲食などのトラブルは皆無という、奇跡のような空間が保たれていた。
一方、食堂の裏口からひっそりと入れるようになっている二階の個室フロアは、一階の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
そこには、王宮の夜会でも顔を合わせるような高位貴族や豪商たちがお忍びで足を踏み入れていた。
「……ここが、アルジェント公爵家が後ろ盾になっているという新しい食堂か。」
「ああ。一階は平民のたまり場だが、この二階の個室は完全に防音されていて、誰の目も気にせず密会ができると評判でな。」
恰幅の良い伯爵が、対面に座る男に向かって声を潜める。
コンコン、と控えめなノックの音がして、美しいメイドがワインと料理を運んできた。
「失礼いたします。本日の特製ローストビーフと、年代物のワインでございます。」
洗練された所作で料理を並べるメイド。
彼女こそが、アルジェント公爵家が誇る暗部の一人であった。
「うむ、下がってよい。」
伯爵が顎でしゃくると、メイドは深く一礼して音もなく部屋を退室した。
「……さて、例の国境付近での魔石の密輸の件だが……。」
伯爵たちが誰にも聞かれていないと信じ込み、極秘の裏取引の話を始めたその時。
メイドは扉のすぐ外に立ち、特殊な魔道具のイヤーピースを通じて、室内の会話を一言一句漏らさず記憶していた。
「……伯爵と、隣国の商人が魔石の密輸に関与。裏帳簿の隠し場所は、別邸の地下室……っと。」
メイドは脳内で情報を整理すると、完璧な営業スマイルを浮かべたまま、次の個室の給仕へと向かっていった。
万が一、酒に酔った客が暴走してメイドに危害を加えようとしても無駄である。
彼女たちは公爵家随一の戦闘力と暗殺術を身につけたプロフェッショナルであり、メイド服のスカートには常に毒塗りの暗器が仕込まれているのだから。
『味王の食卓亭』の最奥に設けられた、オーナー専用の特別室。
そこでアイラは、厨房から運ばせてきた出来立てのハンバーガーを頬張りながら、暗部たちの元締めからの報告を聞いていた。
「……以上が、本日二階の個室で交わされた主な密会情報のリストにございます。」
「ご苦労様。やっぱり、美味しいご飯とお酒の前だと、人間って気が緩んでつい喋っちゃうものなのね。」
アイラがリストに目を通すと、そこには王都の貴族たちのスキャンダルや裏取引の証拠が、山のように記載されていた。
「お姉様、このポテト、塩加減が絶妙ですわ!」
隣ではリリアが、情報収集の報告など全く気にする様子もなく、フライドポテトをサクサクと食べている。
「ええ。若手の料理人たちも、少しずつ火加減や味付けのコツを掴んできているみたいね。」
アイラは指についた油をペロリと舐め、窓から眼下の大通りを見下ろした。
一階から漏れ聞こえる平民たちの笑い声と、美味しい料理の匂いが、王都の夕闇に溶け込んでいく。
「お父様もお兄様も、この情報リストを見たらきっと喜ぶわね。これでまた、公爵邸の厨房予算をふんだんに引き出せるわ。」
料理人の腕を磨くための修練場であり、平民たちの胃袋を満たすオアシスであり、そして王都の裏情報を吸い上げる巨大な蜘蛛の巣。
アイラの食への執着が生み出した『味王の食卓亭』は、こうして王都の表と裏の歴史に、深くその名を刻んでいくことになるのだった。
『味王の食卓亭』がオープンして数週間後。
アルジェント公爵邸の地下深く、厳重な結界が張られたミーア専用の魔道具工房。
そこでは、国家の根幹を揺るがしかねない恐るべき魔道具の開発が大詰めを迎えていた。
「アイラ様! ついに完成しました!」
ミーアが目の下のクマも気にせず、歓喜の声を上げて三つの小さな魔道具を机に並べた。
一つ目は、米粒ほどの大きさしかない黒い石のようなものだ。
「これが、ご要望の『小型盗聴魔道具』です。」
ミーアは小さなピンセットでそれをつまみ上げた。
「『味王の食卓亭』の二階の個室の壁や机の裏にこれを仕込んでおけば、室内の音を正確に拾い上げます。」
「素晴らしいわ、ミーア。」
アイラは感嘆の声を漏らし、二つ目の魔道具に視線を移した。
それは、美しい装飾が施されたイヤリング型の魔道具だった。
「そしてこちらが、盗聴器が拾った音を離れた場所で聞くための『受信イヤーピース』です。」
ミーアが自分の耳にイヤリングをつけ、魔力を通すと、工房の端に置かれた盗聴器の近くの音が鮮明に聞こえてきた。
「これで暗部のメイドたちが、客の会話を完璧に記憶できるわね。」
アイラが満足げに頷くと、ミーアは最後に、少し大きめのペンダント型の魔道具を手に取った。
「そしてこれが本命、『双方向通話魔道具』です!」
ミーアの言葉に、後ろで黙って見守っていたレオンハルトとセオドアがゴクリと喉を鳴らした。
「特定の魔力波長を合わせたペンダント同士であれば、どれだけ離れていても、まるで目の前にいるかのように会話ができます。」
ミーアが説明しながら、一つのペンダントをアイラに渡し、もう一つを自分が持った。
そして、アイラが工房に残り、ミーアが公爵邸の三階まで移動して通話の実験を行った。
「アイラ様、聞こえますか?」
ペンダントからミーアの鮮明な声が聞こえてきた瞬間、レオンハルトとセオドアは驚愕に目を見開いた。
「ええ、はっきりと聞こえるわ。ノイズも全くないわね。」
「ただし、大きな問題があります。」
ミーアの声が少しだけ沈んだ。
「お互いの魔力波長を直接繋いでいるため、距離が離れるほど魔力の減衰が激しく、現状では『王都の城壁内』までしか魔力波が届きません。」
ミーアが工房に戻ってくると、アイラは少し考えてからポンと手を打った。
「王都内だけでも十分よ。これでアルジェント家は、王都の情報をリアルタイムで完全に掌握できるわ。」
アイラが不敵な笑みを浮かべると、レオンハルトとセオドアも背筋に冷たいものを感じながらも、その圧倒的な優位性に歓喜した。
「情報伝達のタイムラグがないというだけで、我が家は他家に対して絶対的な優位に立てる。」
「アイラ、お前は本当に我が家の、いや、この国の歴史を変えてしまう気なんだな。」
レオンハルトが歓喜と畏怖の混じった震える声で呟く。
ただの純粋な「食欲」から始まったメイドの盗み聞きが、王都全域を網羅する国家レベルの諜報網へと進化した瞬間だった。




