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誘拐された偽物令嬢は、誘拐された本物令嬢を見つける。~養女になりました~  作者: ウナ


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第四話:アイラと国家プロジェクトと王家への不信

王宮の広大な厨房から続く大広間は、これまでにない熱気と芳醇な香りで満たされていた。


本日は、アルジェント公爵家と王宮の料理人たちによる技術交流の集大成とも言える、「アイラ考案レシピの特別試食会」が開催されているのだ。


広間の中央に設えられた長テーブルには、王宮の財を尽くした銀器が並び、そこに次々と芸術的な料理が運ばれていく。


「アイラお姉様、王宮の料理人の方々も、すっかりジャンのように目が血走っておりますわね」


私の隣で、リリアが少し引いたような笑顔で呟く。


「ええ。一流の料理人が新しい知識と道具を手に入れたら、こうなるのは必然よ」


私は手元の羊皮紙に目を落としながら、冷静に答えた。


私たちのテーブルには、王宮に新しく導入された『コールド・キーパー』や『インフェルノ・オーブン』などの魔道具の稼働状況を示すメーター(これもミーアのお手製だ)が並んでいる。


「アイラ様、王宮の厨房は魔力溜まりの濃度が公爵邸と少し違うので、出力の微調整が必要ですね」


ミーアが真剣な顔つきでメーターを読み取り、数値を記録していく。


私たちは今回、試食会のメインゲストではなく、あくまで「魔道具のデータ取りと使用感の確認」という名目で、会場の隅に陣取っていた。


やがて、重厚な扉が開かれ、本日の主賓である国王陛下、王妃陛下、そしてジュリアン殿下とエドワード殿下の四人が姿を現した。


「おお……なんという良い香りだ。日々の政務で疲弊した胃袋が、一瞬で目覚めるようだよ」


国王陛下が、目の下に少しだけ隈を作りながらも、期待に満ちた声で席に着く。


王妃陛下もまた、上品な扇子で口元を隠しながら、ふわりと漂うスープの香りに目を細めていた。


「父上、母上。本日は、アルジェント公爵家の『食の女神』がもたらした奇跡を、とくとご堪能ください」


ジュリアン殿下が、芝居がかった手振りで料理人たちを促す。


「まずは前菜から。極寒の海で獲れたばかりの白身魚を『コールド・キーパー』で熟成させ、柑橘の香りを纏わせたカルパッチョでございます!」


王宮料理長が、かつてのプライドの高さを微塵も感じさせない、ただの情熱的な料理愛好家のような顔で料理を説明する。


国王陛下がフォークで一切れを口に運んだ瞬間、その威厳ある顔が驚愕に染まった。


「……っ! なんだこれは! 魚の生臭さが全くないどころか、噛むほどに濃厚な甘みが溢れ出してくる!」


「まあ、本当に……。それにこのソース、酸味がとても爽やかで、心身の疲れが洗い流されていくようですわ」


王妃陛下も、恍惚とした表情で頬に手を当てている。


次々と運ばれてくる、完璧な温度管理で調理されたコンソメスープや、内側から肉汁を閉じ込めたロースト肉。


王族たちは、一口食べるごとに深い感嘆の息を漏らし、その顔からは日々の激務による疲労の色が目に見えて消えていった。


「美味しいものを食べると、人はそれだけで癒されるのね」


私がその光景を眺めながら呟くと、ミーアがふと顔を上げた。


「アイラ様……癒される、といえば、実際に『魔法的な効果』を料理に付与することはできないのでしょうか?」


「魔法的な効果?」


「はい! 例えば、水属性の治癒魔法の波長を、食材の水分に定着させる回路を組み込んだ魔道具を作るとか……」


ミーアの天才的な発想に、私の脳内で前世のゲームで見たような「バフアイテム」の概念が閃いた。


「それ、すごく面白そうね。食べただけで傷が治るスープとか、一口かじるだけで徹夜の疲れが吹き飛ぶお菓子とか……」


私とミーアが声を潜めて盛り上がっていると、いつの間にか近くに料理長のジャンと王宮料理長がすっ飛んできていた。


「ア、アイラお嬢様! 今、なんとおっしゃいましたか!?」


「料理に、治癒や疲労回復の魔法を付与するですと!? それは、食の歴史だけでなく、医療の歴史をも覆す大革命では……!」


二人の料理人は、もはや信徒が神の啓示を受けたかのように震えていた。


「落ち着いて、ジャン。まだアイデアの段階よ。でも、もし特定の魔力波長を食材に閉じ込めることができれば、不可能じゃないかもしれないわ」


私が前世の「薬膳」の概念を魔法術式に置き換えて説明し始めると、厨房から手の空いた料理人たちが次々と集まってきた。


「それなら、集中力が極限まで高まるソースも作れるかもしれません!」


「肉体を強化する炎の魔力を定着させた肉料理はどうだ? 騎士団の遠征に持たせれば、無敵の軍隊ができるぞ!」


「少しの擦り傷なら、スープを飲んだだけで塞がるなんて……まさに奇跡だ!」


料理人たちは、新しい美食の可能性に目を血走らせ、完全に暴走し始めていた。


「お姉様、なんだか皆様、とても楽しそうですわね!」


リリアが無邪気に笑う横で、私は「また大ごとになってしまったわ」と内心でため息を吐いた。


「……ほう? それは非常に興味深い話だね」


不意に、私たちの背後から楽しげな声が降ってきた。


振り返ると、食事を終えて満足げな顔をしたジュリアン殿下が、グラスを片手に立っていた。


「殿下。盗み聞きは感心しませんわ」


「盗み聞きなどしていないよ。君たちの熱気が、大広間の端まで伝わってきただけさ」


ジュリアン殿下は肩をすくめ、面白くてたまらないというように目を細めた。


「アイラ嬢、君のその『魔法料理』の構想だが、ぜひ我が国を挙げて研究を支援させてもらいたい。騎士団の強化だけでなく、医療の行き届かない領民たちを救う手立てにもなる」


さすがは次期国王、すぐに国家運営の観点からメリットを見出している。


「ええ、構いませんわ。ミーアの魔道具開発の資金も必要ですし」


私が頷くと、ジュリアン殿下はさらに声を潜め、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「そこで、だ。もし効果を自由に付与できるのなら、王宮で捕縛された罪人や他国のスパイから、強制的に口を割らせる『自白料理』なども作れないだろうか?」


「自白、ですか?」


「ああ。拷問は時間がかかるし、死なせてしまっては情報を引き出せないからね。美味しいものを食べて、つい機密をペラペラと喋ってしまうような魔法の料理があれば、国家の裏の治安維持にこれほど役立つものはない」


ジュリアン殿下の、為政者としての腹黒い提案に、料理人たちは少し引いていた。


だが、私は特に驚くこともなく、あっさりと答えた。


「自白させるだけなら、わざわざ料理に頼らなくてもできますよ」


「……何?」


ジュリアン殿下の笑みがピタリと止まる。


「血を媒介にして、相手の精神に直接ダイブする魔法がありますから。防壁を内側から破壊して、記憶を根こそぎ読み取る方が早くて確実ですわ」


私がスラムで生み出した、闇魔法に近い禁術の一つをサラリと口にすると、ジュリアン殿下は完全に言葉を失った。


「……血を媒介に、精神へダイブだと? アイラ、君は……自分がどれほど恐ろしいことを言っているのか分かっているのか?」


ジュリアン殿下が、まるで人知を超えた魔王でも見るかのような目で私を見つめてくる。


「え? でも、嘘を吐かせないための尋問なら、記憶を直接見るのが一番合理的じゃないですか」


私が首を傾げていると、隣で沈黙していたミーアが、突然ハッと顔を上げた。


「……アイラ様! その『精神ダイブ』の魔術式、魔道具に組み込めないでしょうか!?」


「ミーア?」


「特定の魔石の波長を人間の脳波に同調させ、アイラ様の魔法を再現する帽子のような魔道具です! これがあれば、魔法の使えない尋問官でも、安全に相手の記憶を引き出せるかもしれません!」


ミーアは目をキラキラと輝かせ、猛烈な勢いで羊皮紙に何やら複雑な図形を書き込み始めた。


「……なるほど、自白の魔道具ね。それなら私の魔力を使わずに済むし、便利かも」


私が呑気に相槌を打つと、ジュリアン殿下は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。


「……癒しの魔法料理の話をしていたはずなのに、なぜ数分で国家を揺るがす尋問用魔道具の開発に話が飛躍しているのだ……」


「殿下? お加減でも悪いのですか? それなら、ジャンに消化のいいスープを作らせますわよ」


私が心配して声をかけると、ジュリアン殿下は力なく笑って立ち上がった。


「いや、大丈夫だ。ただ、君という存在の規格外さに、私の常識という名の胃袋が悲鳴を上げているだけさ」


「お姉様はすごいですからね! 殿下も早く慣れた方がよろしいですわ!」


リリアが誇らしげに胸を張るのを見て、ジュリアン殿下は「本当にそうだな」と深い深いため息を吐いた。


美味しいご飯で心身を癒す『魔法料理』の探求と、国家の暗部をも照らし出す『自白の魔道具』の開発。


王宮の試食会は、単なる美食の発表の場を越え、ヴァリエール王国を新たなる魔法技術の次元へと引き上げる、恐るべき会議の場へと変貌してしまったのだった。


王宮の試食会は、私の不用意な発言によって、思わぬ方向へと転がってしまった。


「……血を媒介に精神へダイブする闇魔法など、歴史上の悪逆非道な魔王しか使えないような代物ではないか……」


ジュリアン殿下が、未だに信じられないというように額を押さえて天を仰いでいる。


(スラムの過酷な環境で生き抜くために独自に開発した、なんて適当なことを言ってしまったけれど、本当は違うのよね)


私は内心で冷や汗をかきながら、そっと視線を逸らした。


実はあの『精神ダイブ』の魔法は、私が前世の記憶を取り戻した際に脳内に現れた『魔女システム』という謎のインターフェースの、スキルツリーの端っこをポイントで解放して取得しただけのものなのだ。


(『血の契約・精神干渉』のスキルがたったの3ポイントで取れたからポチッと押しただけなんて、次期国王陛下には絶対に言えないわ)


「……まあ、尋問用の魔道具については、後日ミーアと宮廷魔法師団の者たちでじっくりと協議させよう」


ジュリアン殿下は気を取り直すように咳払いをし、真剣な眼差しを私に向けた。


「それよりも、だ。アイラ嬢が提案した『疲労回復』や『身体強化』の魔法料理の件だが、これを実現させるには、やはり宮廷魔法師団の魔術理論が必要不可欠だろうね」


殿下の言葉に、私は顎に手を当てて少し考えた。


「宮廷魔法師団の皆様にご協力を仰ぐのは素晴らしいと思いますが、まずは私の魔法を使って、実際に効果のある魔法料理の『試作品』を作ってみませんか?」


「君の魔法で、試作品を?」


「ええ。魔道具に組み込む前に、魔法と食材がどのように反応するのか、実際にデータとして見ておいた方がよろしいかと存じますわ」


私の提案に、隣で聞いていた王宮料理長とジャンが「おおおっ!」と歓声を上げて抱き合った。


「アイラお嬢様の魔法料理……! 食の歴史の新たな1ページが、この厨房で開かれるのですね!」


こうして、王族たちの試食会が一段落した後の厨房で、私による魔法料理の実験が急遽行われることになった。


「お姉様、何をお作りになるのですか?」


リリアが目をキラキラさせて調理台を覗き込んでくる。


「そうね。まずは一番分かりやすい『疲労回復』の効果を付与した、滋味豊かな鶏のスープを作ってみましょう」


私は寸胴鍋に丁寧に下処理をした鶏肉と野菜を入れ、そこに私自身の魔力である『治癒魔法』の波長を、ゆっくりと注ぎ込んでいった。


「すごい……食材の細胞一つ一つに、魔力が染み込んで固定化されていくのが見えます……!」


魔力視の能力を持つミーアが、震える手で羊皮紙に猛烈な勢いでメモを取っている。


さらに私は、別のフライパンで分厚い赤身肉を焼きながら、『身体強化』の魔法を肉汁の中に閉じ込めるようにして焼き上げた。


「よし、完成よ。でも、効果のほどを確かめるには、実際に疲れている方に食べていただかないとね」


私が厨房を見回すと、ジュリアン殿下が面白そうに口角を上げた。


「なるほど。ならば、王宮内で最も過酷な労働をしている者たちを連れてこよう」


数十分後、厨房に連れてこられたのは、山積みの書類仕事で目の下に真っ黒な隈を作った文官たちと、日々の厳しい鍛錬で筋肉痛に苦しんでいる近衛兵の卵たちだった。


「で、殿下……! 我々のような下働きの者に、このような素晴らしい料理をいただけるなど……!」


文官の一人が、黄金色に輝く鶏のスープを前に感極まって泣き出している。


「構わない。これは国家の未来のための重要な実験だからな。さあ、冷めないうちに食べてくれ」


ジュリアン殿下に促され、彼らは恐る恐るスプーンとフォークを手に取った。


文官が鶏のスープを一口飲み込んだ瞬間、その顔からスッと隈が消え去り、濁っていた瞳に信じられないほどの生気が宿った。


「な、なんということだ……! 三日三晩徹夜した重い頭が、まるで朝霧が晴れたかのようにスッキリとしている……!」


「うおおおおおっ! なんという力が漲ってくるのだ!」


その隣では、身体強化の肉料理を食べた近衛兵の卵が、突然上半身の服を破り捨てて筋肉を誇示し始めていた。


「筋肉の痛みが全くないどころか、普段の三倍の重さの剣でも軽々と振り回せそうだぞ!」


使用人たちの劇的な変化に、厨房にいた全員が言葉を失って息を呑んだ。


「……アイラ様。これは、凄まじいことになりますよ」


ミーアが額の汗を拭いながら、震える声で私に囁いた。


「ええ。少し効果を高めに設定したとはいえ、これほど即効性があるとは思わなかったわ」


私が驚いていると、ジュリアン殿下は完全に政務モードの鋭い目つきになっていた。


「……アイラ嬢。君がもたらしたこの『魔法料理』の技術は、もはや一貴族の趣味の領域を完全に超えている」


ジュリアン殿下は私の前に歩み寄り、王族としての威厳に満ちた声で宣言した。


「我がヴァリエール王国は、本日この瞬間より、アイラ・アルジェントを責任者とした『魔法料理開発プロジェクト』を国家の最重要機密として立ち上げる!」


「えっ、私が責任者ですか?」


「当然だろう。君の知識と魔力がなければ、この奇跡は再現できないのだからね。王宮の施設も予算も惜しみなく提供しよう」


ジュリアン殿下は私の肩にポンと手を置き、ニッコリと、しかし逃げ場のない極上の笑顔を向けた。


「お姉様、ついに国家のプロジェクトですわ! 凄いです!」


リリアが無邪気に拍手喝采を送る横で、私は「ただ美味しいご飯が食べたかっただけなのに、どうしてこうなったのかしら」と、遠い目をして現実逃避をするしかなかった。


こうして、私とミーア、そして一流の料理人たちを巻き込んだ、国を挙げてのトンデモ魔法料理開発が幕を開けたのである。


国家の最重要機密として立ち上げられた『魔法料理開発プロジェクト』は、予想以上のスピードで進展していた。


王宮の厨房の一部を改装して作られた特別研究室には、今日も甘い香りと魔力の光が満ちている。


「アイラ様、今の魔力波長をこの魔石に定着させますので、もう少しだけ術式を維持してください!」


ゴーグルを装着したミーアが、特製の『魔力定着器』を操作しながら真剣な声で指示を出す。


「分かったわ。でも、あまり強い魔力を込めると、食材の味が飛んでしまうから微調整が難しいわね。」


私が慎重に魔力を注ぎ込んでいると、カチリという音と共に魔石が淡い光を放って安定した。


「やりました! これでアイラ様の『疲労回復』の魔法波長を再現する魔道具の核が完成です!」


ミーアが歓喜の声を上げ、周囲で見守っていたジャンや王宮料理長たちも一斉に拍手喝采を送った。


「アイラお姉様、ミーア、お疲れ様ですわ!」


リリアが淹れたての紅茶を運んできてくれて、私たちはほっと一息をついた。


「ありがとう、リリア。これで私がずっと厨房にいなくても、この魔道具を組み込んだ魔法付与鍋を使えば、誰でも魔法料理が作れるようになるわ。」


「魔法料理やバフ効果のあるアイテムは即効性が命ですが、問題はその効果時間ですね。」


いつの間にか研究室にやってきていたジュリアン殿下が、手元の書類に目を通しながら口を開いた。


「殿下、またいらしたのですか?」


「私の肝入りプロジェクトだからね。それに、先日の近衛兵たちを使った実験データが上がってきたのだけれど、非常に興味深い結果が出ているよ。」


ジュリアン殿下が差し出した書類には、身体強化の肉料理を食べた近衛兵たちが、どれだけの時間、力がアップした状態を維持できたかが細かく記録されていた。


「食後すぐに筋力が約二倍に跳ね上がり、その効果はきっちり三時間持続した後、徐々に平常に戻っていったそうだ。」


「三時間ですか。戦闘や過酷な任務をこなすには十分な時間ですわね。」


「ああ。集中力アップのスープを飲んだ文官たちも、約四時間は脳の疲労を感じずに凄まじい速度で書類を処理できたと報告してきている。」


ジュリアン殿下が満足げに頷いたその時、研究室の扉が乱暴に開かれた。


「殿下! いくら貴方の肝入りのプロジェクトとはいえ、神聖なる魔術を料理などという俗悪なものに混ぜ合わせるなど、断じて認められません!」


飛び込んできたのは、深い蒼色のローブを纏った、ジュリアン殿下と同年代の美しい青年だった。


プラチナブロンドの髪を少し乱し、知性を感じさせる翡翠色の瞳には、明らかな怒りと侮蔑の色が浮かんでいる。


「おや、リュカじゃないか。宮廷魔法師団には後で正式に協力を要請するつもりだったのだが、随分と耳が早いね。」


ジュリアン殿下が余裕の笑みで応じると、リュカと呼ばれた青年はギリッと奥歯を噛み締めた。


「当然です。王宮内で異常な魔力反応が観測されれば、魔法師団長である父に代わって私が調査するのは義務ですから。」


若き天才と名高いリュカ・ヴァレリウスは、ずかずかと私の前まで歩み寄ってきた。


「君が、アルジェント公爵家のアイラ嬢か。スラム育ちの君が特異な魔力を持っていることは認めよう。だが、魔術の深淵を理解していない素人が、遊び半分で魔法を食材に込めるなど危険極まりない行為だ!」


リュカの厳しい非難の言葉に、ジャンたち料理人がムッとして前に出ようとしたが、私はそれを手で制した。


「危険かどうかは、実際にあなたの目で確かめてから判断していただけませんか?」


私はにっこりと微笑み、先ほど魔道具のテストで完成したばかりの『集中力向上スープ』を小皿に取り分けた。


「……こんな得体の知れないものを飲めというのか?」


「宮廷魔法師団を背負って立つ若き天才ともあろうお方が、たかが九歳の子供が作ったスープに毒でも入っていると恐れているのですか?」


私が少しだけ首を傾げて挑発すると、リュカの翡翠の瞳がカッと見開かれた。


「いいだろう! 君のくだらない遊びを、この私が論理的に否定してやる!」


リュカは乱暴にスプーンをひったくり、スープを一口飲んだ。


その瞬間、彼の動きがピタリと止まり、翡翠の瞳が極限まで見開かれた。


「……な、なんだこれは……ッ! 食材の旨味と魔力波長が、一切の反発を起こさずに完璧に融合している……!」


リュカは震える手でもう一口スープを飲み込み、そのまま信じられないものを見るような目で私を見下ろした。


「ただ融合しているだけじゃない。水属性の魔力が脳の疲労物質を分解し、さらに思考を加速させる術式が、味覚という五感を通じて脳髄に直接作用するよう構築されている……!」


(えっ、そんな複雑なことになってたの? 魔女システムで適当にポチッとしただけなんだけど……)


内心で冷や汗をかいている私をよそに、リュカは突然私の両手をガシッと強く握りしめた。


「アイラ嬢! 君は一体、どんな魔術理論を用いてこの奇跡の術式を編み出したのだ!? これまでの魔術の常識を覆す、完璧な魔力回路だ!」


先ほどまでの怒りはどこへやら、リュカは興奮で顔を紅潮させ、私に顔を近づけて熱っぽく語りかけてきた。


「え、ええと……それは、その……」


私が答えに窮していると、不意にジュリアン殿下が私とリュカの間に割って入り、リュカの手を優しく、しかし強引に引き剥がした。


「そこまでにしておけ、リュカ。アイラ嬢が困っているだろう。」


ジュリアン殿下の声は穏やかだったが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。


「殿下! これは国家の魔術研究において、歴史的な大発見です! 彼女の頭脳は、今すぐ魔法師団で保護し、私と共に研究に専念させるべきです!」


リュカが一歩も引かずに主張すると、ジュリアン殿下は私の肩を抱き寄せるようにして、リュカを見据えた。


「それは困るな。彼女は私の『魔法料理開発プロジェクト』の大切な責任者だ。君たち魔法師団には、あくまで彼女のサポートとして参加してもらうだけだよ。」


「魔法と料理を同列に扱うなど愚の骨頂! 彼女の才能は私が一番引き出せます!」


「彼女の価値を最初に見出したのは私だ。君に横取りされるつもりはないよ。」


ジュリアン殿下とリュカの間に、バチバチと青白い火花が散っているのが見える。


「あのー、お二人とも? 私はただ、美味しいご飯を皆で安全に食べられるようにしたいだけなのですが……」


私の言葉など全く耳に入っていない様子で、二人の青年は私を挟んで熱い視線をぶつけ合っている。


「アイラお姉様、なんだか殿下とリュカ様、お姉様を取り合っているみたいですわね!」


リリアが呑気に手を叩いて喜んでいる横で、私は「恋愛小説のヒロインみたいな展開は求めていないのよ」と、ひたすら現実逃避の深呼吸を繰り返すのだった。


魔法料理開発プロジェクトの研究室は、連日リュカの熱気でサウナのような有様になっていた。


「アイラ嬢! 私に君のあの完璧な魔力回路の構築理論を、どうしても教えてほしいのだ!」


リュカは今日も今日とて、分厚い魔術書を何冊も抱えながら私に迫ってくる。


どうしよう、理論なんて言われてもシステム画面のスキルツリーで適当に選んだだけなんだけど……と、私は内心で困り果てていた。


私は引きつる笑顔を隠しながら、ふと前世の記憶と共に発現した『魔女システム』のインターフェースを脳内で呼び出した。


空中に浮かぶ半透明のウィンドウを操作し、取得済みの『治癒・超回復』のスキルの詳細情報を開いてみる。


すると、そこには私にもちんぷんかんぷんな、びっしりとした魔術理論と数式が書き込まれていた。


「ええと……『対象の魔力波長に同調させた治癒魔力を浸透させ、破壊された筋繊維の超回復プロセスを魔力的に加速、ならびに強靭化させるための術式は……』」


私がウィンドウに表示された文字をそのまま棒読みで読み上げ始めると、リュカは持っていた魔術書を床に落とした。


「……なんだと? 筋繊維の回復プロセスに直接干渉し、さらに破壊前よりも強靭化させるというのか!?」


「『……第一術式にて細胞の再生速度を三倍に引き上げ、第二術式で対象の生命力と魔力を結合させ、疑似的な筋力増強バフを定着させる……』と、なっていますわ。」


私が最後まで読み終えると、リュカはわなわなと震えながら羽ペンを握りしめ、猛烈な勢いで羊皮紙に書き込みを始めた。


「素晴らしい……! 生命力と魔力の結合、そんなアプローチがあったとは……アイラ嬢、君はやはり真の天才だ!」


「アイラ嬢の頭脳は国宝だ! 私が一生かけて君の理論を証明してみせよう!」


リュカが感動のあまり涙ぐみながら私の手を取って熱烈に語りかけてくるのを、いつの間にか来ていたジュリアン殿下が笑顔のまま物理的に引き剥がした。


「リュカ、彼女はまだ九歳の子供だぞ。少しは自重したまえ。」


ジュリアン殿下が溜め息をつきながら、話題を変えるように数枚の報告書をテーブルに広げた。


「アイラ嬢のその理論を組み込んだ『超回復の魔法料理』だが、早速実証データが上がってきているよ。」


私が作ったのは、限界まで訓練して筋肉がボロボロになった近衛兵たちに向けた、軽微な回復効果を持つ特製のスパイスカレーだ。


「訓練直後の彼らにカレーを食べさせたところ、数分で筋肉の痛みが完全に消え去り、なんと翌日には筋力が一・五倍に増強されていたそうだ。」


「一・五倍ですか。それは凄まじい効果ですわね。」


「ああ。この超回復の概念を利用すれば、我が国の兵力は飛躍的に増強され、他国の追随を許さない無敵の騎士団が完成する。」


ジュリアン殿下の目が、次期国王としての鋭く冷徹な光を帯びていた。


「お姉様のご飯を食べるだけで強くなれるなんて、魔法みたいですわ!」


リリアが無邪気に笑う横で、私は本当に魔法が入っているのだけれどと言いそうになるのをぐっと堪えた。


そして数日後、私は魔法料理の研究とは全く別の用件で、王宮の地下深くにある冷暗な牢獄へと案内されていた。


「すまないね、アイラ嬢。こんな薄暗い場所に九歳の淑女を呼ぶなど、本来なら許されないことなのだが。」


私を出迎えたのは、ジュリアン殿下と、この国の頂点に立つジェラール国王陛下だった。


「構いませんわ。他国のスパイが捕縛されたと伺いました。」


鉄格子の向こうでは、頑丈な手錠と足枷を嵌められた屈強な男が、血だらけになりながらも不敵な笑みを浮かべていた。


「ああ。我が国の軍事機密を盗み出そうとした小動物だが、どんな苛烈な尋問にも口を割らなくてね。」


国王陛下が冷ややかな目でスパイを見下ろす。


「そこで、アイラが以前言っていた『血を媒介にして精神にダイブする魔法』の出番というわけだ。」


ジュリアン殿下の言葉に、私は静かに頷き、鉄格子の中へと足を踏み入れた。


「ふんっ、こんな小娘を出してくるとは、ヴァリエール王国も人材不足だな!」


スパイが嘲笑する中、私は彼の傷口から流れ落ちていた血を指先に少しだけ拭い取った。


「『血の契約・精神干渉』……開け。」


私が魔女システムで取得した闇魔法のスキルを発動させた瞬間、私の意識はスパイの脳内へと直接ダイブした。


彼の精神を覆っていた強固な防壁など、紙切れのように容易く引き裂き、私は彼が隠し持っていた機密情報や組織のネットワークを根こそぎ読み取っていく。


「……ひ、ひぃぃぃっ!! 俺の、俺の頭の中に何が……やめろ、やめてくれぇぇぇッ!!」


先ほどまで不敵に笑っていたスパイが、白目を剥いて泡を吹き、床をのたうち回り始めた。


「なるほど……本拠地は隣国の国境付近にある偽装商館で、内通者は財務省の……。」


私が無機質な声で次々と情報を口にしていくと、国王陛下とジュリアン殿下は息を呑んで硬直した。


「……アイラ嬢、もう十分だ。それ以上は彼の精神が完全に崩壊してしまう。」


ジュリアン殿下が青ざめた顔で私の肩を掴み、私は魔法を解除した。


「ふふっ、美味しいご飯の作り方から、スパイの精神破壊まで……アルジェント公爵家の令嬢は、本当に規格外だな。」


ジェラール国王陛下が、顔に冷や汗を浮かべながらも、どこか楽しげに笑い声を上げた。


「私はただ、平和に美味しいものを食べたいだけなのですけれどね。」


私が淑女の微笑みを浮かべて答えると、牢獄にはスパイのうわ言だけが虚しく響き渡るのだった。


王宮の最奥、重厚な扉に閉ざされたジェラール国王の執務室。


「……あのアルジェント家の長女、アイラ嬢だったか。」


国王陛下が葉巻の煙をくゆらせながら、窓の外を見つめて呟いた。


「見事なまでに規格外、そして恐ろしいまでの才能だ。」


「ええ。彼女の魔法理論は我が国の軍事力と内政を根本から覆す可能性を秘めています。」


ジュリアン殿下が、薄く笑みを浮かべながら同意する。


「他国に情報が漏れれば、間違いなく彼女を巡って戦争が起きるだろう。」


国王陛下は振り返り、ジュリアン殿下を真っ直ぐに見据えた。


「ジュリアンよ、お前が彼女と婚約せよ。」


「……ほう?」


「国の未来を考えれば、あの才能は確実に王家で囲い込まねばならん。」


国王陛下が玉座に深く腰掛け、重々しく告げる。


「それに、お前が特定の令嬢にこれほど執着し、楽しそうにしているのを見るのは初めてだからな。」


ジュリアン殿下は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、喉の奥でくくっと笑った。


「……流石は父上、よく見ておいでだ。」


「彼女となら、退屈な王宮生活も少しは面白くなるかもしれませんしね。」


ジュリアン殿下は、まるで極上の獲物を見つけた狩人のような目をしていた。


「アルジェント公爵には、私から直接打診してみましょう。」


そして数日後、アルジェント公爵邸の執務室は、まるで嵐が吹き荒れたかのような大混乱に陥っていた。


「ば、馬鹿な……!! 王太子殿下と、アイラの婚約だと!?」


お父様が、ジュリアン殿下からの親書を握り潰さんばかりの勢いで立ち上がった。


「断固反対です!! 私の可愛い妹を、あの腹黒いと噂の王太子になんて絶対に渡しません!!」


お兄様のセオドアも、普段の冷静さを完全に失い、机をバンバンと叩いている。


「しかし、王家からの打診に近い提案……無下に断れば、アルジェント家にどのような圧力がかかるか。」


お父様が頭を抱え、苦渋に満ちた表情で呻いた。


当の本人である私は、そんな白熱した議論の横で、ジャンが焼いてくれた新作のクッキーを呑気に齧っていた。


「王太子殿下との婚約、ですか。」


「アイラ! お前は嫌だろう!? あんな得体の知れない男の妻になるなんて!」


お兄様が涙目で私にすがりついてくる。


「うーん……でも、王宮の厨房を使いたい放題になるなら、悪くないかもしれませんわ。」


私がクッキーの甘さに頬を緩めながら正直な感想を漏らすと、お父様とお兄様は「食欲に負けている!」と絶望的な顔をして崩れ落ちた。


「お姉様が王宮に行っちゃうなんて嫌ですわ! ずっと一緒に美味しいものを食べる約束です!」


リリアが私の腰に抱きつき、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「泣かないで、リリア。まだ決まったわけじゃないし、もし王宮に行くことになっても、リリアのご飯は毎日作ってあげるわ。」


私がリリアの銀髪を撫でて宥めていると、ふと窓の外の庭園に、見慣れない金髪の少年の姿が見えた。


それは、ジュリアン殿下の弟である、第二王子のエドワード殿下だった。


彼は王宮での試食会以来、時折こうして公爵邸を訪れては、遠くからリリアの姿をじっと見つめているのだ。


「リリア、あそこにエドワード殿下がいらっしゃるわ。ご挨拶にいってきなさい。」


私が促すと、リリアは小首を傾げながら庭園へと駆け出していった。


「エドワード殿下! ごきげんよう!」


リリアが無邪気に笑いかけると、エドワード殿下は耳まで真っ赤にして直立不動になった。


「り、リリア嬢! こ、今日のご機嫌はいかがかな!?」


「はい! お姉様の新作クッキーをいただいて、とっても幸せですわ!」


エドワード殿下は、背手に隠し持っていた美しい一輪の薔薇を、震える手でリリアに差し出した。


「そ、その……これは、王宮の温室で咲いた珍しい花だ。君に似合うと思って……。」


「わあ、綺麗です! ありがとうございます、殿下!」


リリアが満面の笑みで花を受け取ると、エドワード殿下は嬉しさのあまり気絶しそうな顔になった。


「……このお花、お姉様のお部屋に飾りますね! きっとお姉様も喜びますわ!」


「えっ……あ、ああ。アイラ嬢が喜ぶなら、それが一番だね……。」


エドワード殿下が、少しだけ哀愁を漂わせて肩を落とすのを見て、私は遠くから「頑張れ、少年」と心の中でエールを送った。


国王陛下の思惑と、ジュリアン殿下の底知れぬ興味、そしてお父様たちの猛烈なシスコンと親バカ。


それに加えて、第二王子の初々しい恋心まで絡んできて、私の平穏な美食ライフは、ますます遠ざかっていくのを感じていた。


王家からの事実上の婚約打診により、アルジェント公爵家は連日お葬式のような重苦しい空気に包まれていた。


お父様とお兄様は「どうにかして打診を躱せないか」と徹夜で対策を練り、リリアは私が遠くへ行ってしまうのではないかと不安げに私の袖を掴んで離さない。


そんな家族の喧騒をよそに、私はミーアと共に公爵邸の地下にある魔道具工房に引きこもっていた。


「アイラ様、先ほど見せていただいた『時間停止・鮮度固定』の魔法ですが、やはり術式の構造が常識を逸脱しています!」


ミーアが、ゴーグルを額に押し上げながら興奮した声で叫んだ。


「リュカ様なら数式を解読するだけで三日はかかるほどの超高密度な魔力回路です……ですが、この魔石の波長を逆位相でぶつければ、一時的に魔道具として固定化できるはずです!」


そう言うが早いか、ミーアは無数の工具と魔石を操り、まるで芸術作品でも仕上げるような流れる動作で作業を進めていく。


私が魔女システムでポチッと取得しただけの『完全鮮度保持』のスキルを、ミーアは自身の持つ『魔力視』の能力と規格外の直感力だけで、瞬時に理解し魔道具の図面に落とし込んでしまったのだ。


「……できました! これが、食材を入れた瞬間の鮮度を永久に保つ『エターナル・ボックス』の試作品です!」


わずか数時間後、ミーアが誇らしげに掲げたのは、一見するとただの銀色の金属箱だった。


試しに、ジャンから貰ってきた朝採れのシャキシャキのレタスを入れ、一度蓋を閉めてから、あえて工房の熱い炉の前に数時間放置してみる。


「さて、どうなっているかしら。」


私が蓋を開けると、そこには数時間前と全く変わらない、瑞々しい水滴を纏ったままのレタスが入っていた。


「本当にすごいわね、ミーア……こんなものを一瞬で作ってしまうなんて。」


私が感嘆の声を漏らすと、ミーアは照れくさそうに頭を掻いた。


「アイラ様の魔法波長のおかげです。私一人では、これほどの高位魔法を魔道具に付与することなど不可能ですから。」


ミーアの謙遜に、私は苦笑いを浮かべながらも、脳内である推測を巡らせていた。


(……国王陛下もジュリアン殿下も、きっとミーアのこの異常な才能に気づいているはずだわ)


私の特異な魔法と、それを実用的な魔道具へと昇華させるミーアの技術。


この二つが合わされば、それこそ国を傾けるほどの力にも、世界を豊かにする力にもなる。


(だからこそ、ジュリアン殿下は私との婚約を急いだのね)


私が王家に嫁げば、専属の魔道具技師であるミーアも当然のように王宮へとついてくることになる。


私という「魔法の供給源」と、ミーアという「魔道具開発の天才」。


この二人が宮廷に入れば、退屈を持て余している王族たちにとって、これ以上ない極上の娯楽と利益をもたらすに違いない。


(ジュリアン殿下が、獲物を見るような目で私を見ていた理由がよく分かったわ)


彼らは、国の未来と引き換えに、私たちという手駒を盤上に並べようとしているのだ。


「でもまあ、王宮の厨房を使えるのは魅力的なのよね。」


私がポツリと呟くと、ミーアが不思議そうに首を傾げた。


「アイラ様? 今、何かおっしゃいましたか?」


「ううん。ただ、王宮の料理長たちの腕は確かだし、毎日あのレベルのご飯が食べられるなら、王宮に嫁ぐのも悪くないかなって思っただけよ。」


私が前向きに検討していると、ふと、ある重大な事実に気がついた。


(……待って。私、まだ九歳じゃない)


スラムでの記憶や前世の記憶が混ざっているせいで精神年齢はそれなりに高いが、肉体は紛れもなく九歳の幼女である。


(ジュリアン殿下はたしか、十五歳くらいだったはず……)


そこまで考えて、私は背筋にぞくりと冷たいものを感じた。


(国の未来のためとはいえ、九歳の幼女に婚約を申し込んでくるなんて……もしかしてジュリアン殿下って、筋金入りのロリコンなの!?)


私の脳内に、笑顔で私を抱き寄せてきたジュリアン殿下の顔が、途端に危険な変質者のように変換されて浮かび上がる。


「……アイラ様? どうして急に青ざめているのですか?」


ミーアが心配そうに覗き込んでくるが、私はそれどころではなかった。


「ミ、ミーア……私、もしかしたら貞操の危機に瀕しているかもしれないわ。」


「貞操!? い、一体誰にですか!? まさか王宮に怪しい輩が!?」


「ええ、とても高貴で、笑顔が爽やかで、腹黒い輩がね。」


私が両手で自分を抱きしめながら震えていると、工房の扉がバンッと乱暴に開かれた。


「アイラ! 王宮から使者が来たぞ! またあの王太子から、お前宛てのプレゼントだそうだ!」


お兄様が、血走った目で巨大な箱を抱えて飛び込んできた。


「……ほら、さっそく来たわ。」


私がため息をつきながら箱を開けると、そこには王宮の料理人が総出で作ったであろう、宝石のように美しい色とりどりのマカロンがぎっしりと詰まっていた。


「……っ! な、なんて美味しそうな……!」


私は先ほどまでの危機感も忘れ、即座にマカロンに手を伸ばしていた。


「アイラ! 騙されてはいけない! それは腹黒王太子の罠だ!」


お兄様が必死に止めようとするが、私の口には既に極上の甘さが広がっていた。


(……ロリコンでもなんでもいいわ。このマカロンを作れるなら、王宮も捨てたもんじゃないわね)


美味しいお菓子を頬張りながら、シリアスな国家の思惑とロリコン疑惑の間で揺れ動く私の心は、あっさりと食欲の前に敗北を喫するのであった。


貴族社会における情報伝達の速度は、時として風よりも速く、そして尾鰭がついて伝わるものだ。


アルジェント公爵家の長女であるアイラに、次期国王たるジュリアン殿下がただならぬ執心を見せている。


そんな噂が王都の社交界を駆け巡ったのは、婚約打診の親書が公爵邸に届けられてからわずか数日後のことだった。


そして本日、王家主催による春の園遊お茶会が王宮の広大な庭園で開かれていた。


王族、とりわけ未婚の王子であるジュリアン殿下とエドワード殿下が揃って出席するお茶会となれば、それは実質的な「婚約者探し」の場と同義である。


有力貴族たちはこぞって我が娘を美しく着飾り、王族の目に留まらせようと躍起になるのが常であった。


「……兄上。これは一体、どういう状況でしょうか。」


庭園のガゼボに座るエドワード殿下が、引きつった笑顔で隣の兄に問いかけた。


「私にも分からない。だが、一つだけ確かなことは、我が国の貴族たちの正気を疑わざるを得ないということだ。」


ジュリアン殿下もまた、手にしたティーカップを震わせながら、目の前の異様な光景を見渡していた。


彼らの視線の先、色とりどりのドレスで着飾って庭園をキャッキャと走り回っている令嬢たちは、どう見ても全員が十歳未満の幼女ばかりだったのである。


「殿下ぁ! お花がいっぱいですわぁ!」


「ジュリアン様! 私とおにごっこして遊んでくださいませ!」


舌足らずな声で群がってくる幼女たちの集団に、ジュリアン殿下とエドワード殿下は完全に包囲されていた。


バルコニーからその惨状を見下ろしていたジェラール国王陛下も、「我が国の未来は大丈夫なのか」と深く頭を抱えている。


事の真相はこうだ。


『王太子殿下は、九歳のアルジェント公爵令嬢に熱を上げている』という情報が、貴族たちの間で『王太子殿下は、九歳前後の幼い令嬢が好みのストライクゾーンである』という致命的な誤解へと変換されてしまったのだ。


そして、王太子に取り入ろうとする野心家たちや、同じ性癖を持つ隠れた変態貴族たちが、「殿下を同志として迎え入れよう」と手ぐすねを引いて、こぞって幼い娘を送り込んできたのである。


そんな地獄のようなお茶会会場に、私とリリアは到着した。


「わあ、アイラお姉様! 今日のお茶菓子は、フルーツがたくさん乗ったタルトですわ!」


リリアが目を輝かせてビュッフェテーブルを指差すが、私はタルトよりも周囲の異様な年齢層に目を奪われていた。


「……リリア。なんだか今日の参加者、随分と平均年齢が低くないかしら。」


「本当ですわ。私やお姉様と同じくらいの方ばかりですね。」


私とリリアが顔を見合わせていると、幼女の波をかき分けて、疲労困憊のジュリアン殿下とエドワード殿下が近づいてきた。


「アイラ嬢、リリア嬢……よく来てくれた。決して誤解しないでほしいのだが、これは私の望んだ光景ではない。」


ジュリアン殿下が、いつもの余裕ある微笑みを完全に崩して必死に弁明してくる。


しかし、私の頭の中では、地下工房で抱いたあの疑惑が、確信へと変わる音がしていた。


(……やっぱり、筋金入りのロリコンだったんだわ。)


私が生温かい、哀れみすら含んだ視線を向けると、ジュリアン殿下は「違う! その目はやめろ!」と悲痛な叫びを上げた。


「え、エドワード殿下も、ジュリアン殿下と同じご趣味だったのですね……。」


リリアが、少しだけ怯えたように半歩後ろへ下がりながら呟く。


「り、リリア嬢! 違うんだ! 僕はただ、君とお話しがしたかっただけで……!」


エドワード殿下が慌てて手を伸ばすが、リリアは「お兄様が、変態には近づいてはいけないと言っていましたわ」と、さらに距離を取ってしまった。


エドワード殿下はショックのあまり白化し、その場に崩れ落ちてしまった。


「アイラ嬢、頼むから信じてくれ。これは貴族たちの暴走だ。私はただ、君の才能と、君の作る料理に興味があるだけで……。」


「お気になさらず、殿下。貴族には人には言えない様々な嗜好があると、本で読んだことがありますから。」


私がタルトを一口かじりながら、全てを悟った聖女のような微笑みで宥めると、ジュリアン殿下はついに膝から崩れ落ちた。


「……終わった。私の、王太子としての威厳が……。」


バルコニーで見ていた国王陛下も、あまりの不憫さにそっと目を逸らしているのが見えた。


美味しいタルトの甘酸っぱい味とは裏腹に、ジェラール国王陛下、ジュリアン殿下、エドワード殿下の心に根差す王家の威信が、音を立ててガラガラと崩れ去った歴史的な瞬間であった。


王家主催の地獄のようなお茶会から一夜明けた翌日の朝。


アルジェント公爵邸に、王宮から一頭の早馬が土煙を上げて駆け込んできた。


「父上! 王家より、至急の親書が届きました!」


お兄様が、普段の冷静な面影を完全に消し去った切羽詰まった顔で執務室に飛び込んでくる。


「……ついに、強制的な婚約の勅命が下ったか。」


お父様が、まるで死刑宣告でも受けるかのように重々しく頷き、震える手で王家の封蝋を切った。


しかし、親書に目を通したお父様の顔に浮かんだのは、絶望ではなく、純粋な驚きと困惑だった。


「父上、なんと書かれているのですか?」


「『……先般打診したジュリアン王太子とアイラ・アルジェント嬢の婚約については、一旦白紙とする』だと?」


お父様の言葉に、執務室の空気が一瞬だけピタリと凍りついた。


次の瞬間、お父様とお兄様は互いの手を取り合い、涙を流しながら狂喜乱舞し始めた。


「やった……! やったぞセオドア! 私たちの可愛いアイラは、あの腹黒王太子から守られたのだ!」


「ああ、父上! これでアイラはずっと私たちのそばにいてくれますね!」


大の大人が二人、子供のように飛び跳ねて喜ぶ姿は公爵家の威厳など欠片もなかったが、私は手元の温かいココアを飲みながらその様子を冷静に眺めていた。


「お姉様、王宮に行かなくてよくなったのですね!」


リリアが私の膝に抱きつき、嬉しそうに顔をすり寄せてくる。


「ええ、そうみたいね。」


私がリリアの頭を撫でていると、お父様がコホンと咳払いをして姿勢を正し、親書の続きを読み上げ始めた。


「『なお、王家は正常な倫理観を持って婚約者を選定する所存であり、決して一部の貴族が流布しているような特異な嗜好を持つものではない。婚約の時期は未定だが、心身ともに成熟を迎える八年、ないし九年以内には選定を行うだろう』……だそうだ。」


「八年、九年後といえば、お姉様が十七、八歳になられる頃ですわね。」


リリアが指を折って数える横で、私は「必死すぎるわね」と内心でため息を吐いた。


どうやらジェラール国王陛下とジュリアン殿下は、昨日のロリコン疑惑による王家の威信失墜を重く受け止め、全力で火消しに走ったらしい。


わざわざ『正常な倫理観』と明記してくるあたりに、彼らの血を吐くような悲痛な叫びが透けて見えるようだった。


そして、この王家からの公式な弁明は、瞬く間に王都の貴族社会へと伝達された。


「なんだ、王太子殿下は我々と同じ孤高の道の探求者ではなかったのか。」


「同志だと思ったのに、残念ですな。」


王太子に幼い娘を送り込もうと手ぐすねを引いていた隠れた変態貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように興味を失って離れていったらしい。


一部の野心家たちも、八年以上も先の話ならばと一旦矛を収め、王宮を取り巻いていた異様な熱気は嘘のように引いていったのだった。


「これでようやく、静かに美味しいご飯が食べられるわ。」


私はココアを飲み干し、ジャンが焼いてくれた焼きたてのパンの香りに鼻をひくつかせた。


王族の思惑も、国家の陰謀も、変態たちの熱視線も、今はすべてが遠い。


「アイラ様! 昨日お話ししていた『自動温度調節機能付き熟成庫』の設計図ができました!」


ミーアが、大量の羊皮紙を抱えて意気揚々と工房から駆け上がってくる。


「本当!? ミーアはやっぱり天才ね! さっそく試作品を作って、熟成肉のステーキを焼きましょう!」


「はいっ!」


お父様とお兄様が安堵の涙を流し続ける執務室の隅で、私とミーアは次なる魔法料理の開発に向けて熱い議論を交わし始めていた。


嵐のような婚約騒動はひとまず去ったが、私の規格外の魔法と飽くなき食への探求心が、今後も王宮を巻き込んだ騒動を引き起こすことになるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。


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