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誘拐された偽物令嬢は、誘拐された本物令嬢を見つける。~養女になりました~  作者: ウナ


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第三話:アイラと王家の食卓と次なる食の追及

アイラを実の娘として公的な籍に入れる手続きは、お父様と王家との非公式な交渉の末、驚くほど迅速に完了した。


これにより、私は名実ともに「アルジェント公爵家の長女」として、貴族社会にその名を刻むことになったのだ。


一方、私を誘拐したあの「黒づくめの女」の正体については、未だに手掛かりが掴めていなかった。


「あの身のこなしと、完璧な隠ぺい魔法……。一朝一夕で鍛えられたものではないな」


執務室で報告書に目を通しながら、お父様が険しい顔で呟く。


「ええ、プロの暗殺者か、それに準ずる裏の組織の人間でしょう。これは長丁場になりますね」


お兄様も同意し、二人は我が家の暗部からのさらなる報告を待つという結論に達した。


だが、裏の脅威が潜んでいようとも、表の貴族社会の時間は止まってはくれない。


「アイラ、リリア。今夜は王族主催の夜会だ。お前たち二人の、公爵令嬢としての正式なお披露目の場となる」


お父様の言葉に、私は少しだけ顔をしかめた。


「そういえば、以前お父様がお留守の時に、屋敷で王太子殿下と鉢合わせしたことがありましたね」


「ああ、あの時は私が不在で申し訳なかった。ジュリアン殿下は好奇心旺盛だからな、アイラの事も気にかけているだろう」


お父様が苦笑いしながら頷き、私たちは身支度を整えて王宮へと向かった。


眩いシャンデリアに照らされた王宮の広間は、以前の夜会とは比べ物にならないほど多くの貴族で埋め尽くされていた。


私とリリアは、お父様とお兄様に連れられて、広間の最奥に設けられた王族の座所へと進み出る。


「アルジェント公爵家、アイラ・アルジェント、並びにリリア・アルジェント。両殿下に御目通りを願います」


私が完璧なカーテシーで頭を下げると、リリアもそれに合わせて優雅に一礼した。


「面を上げよ。……ふむ、君が噂のアイラ嬢か。以前会った時より、随分と令嬢らしくなったな」


王太子のジュリアン殿下が、金糸の髪を揺らして興味深そうに私を見下ろしてくる。


「初めまして、アイラ嬢。私は第二王子のエドワードです。双子とは聞いていましたが、本当に見分けがつかないほど美しいですね」


エドワード殿下も、柔和な笑みを浮かべて私たちを歓迎してくれた。


他の令嬢たちであれば、ここで王族との会話を少しでも引き延ばそうと必死になるところだろう。


だが、今の私の頭の中には、別の非常に重要なミッションが存在していた。


「温かいお言葉、恐悦至極に存じます。それでは、私たちはこれで失礼いたしますわ」


私は挨拶もそこそこに、リリアの手を引いて踵を返した。


「えっ……? あ、ああ、下がってよいぞ」


ジュリアン殿下とエドワード殿下が、予想外の早すぎる退散にぽかんと口を開けている。


そんな彼らを置き去りにして、私たちは真っ直ぐに会場の隅にあるビュッフェコーナーへと向かった。


「お姉様、あの鶏肉のロースト、とっても美味しそうですわ!」


リリアが目を輝かせて指差すが、私は冷静に料理の表面を観察した。


「……ダメね、火が通り過ぎていてパサパサだわ。ソースも香辛料の香りが強すぎて、肉の旨味が完全に死んでいるわよ」


「まあ、本当ですわ。よく見ると、お肉のツヤが我が家のものとは全然違いますのね」


私たちは皿を手に取ったものの、王宮が誇るはずの料理の数々に、ことごとく落胆の溜息を吐いていた。


「このコンソメも、ただ濁っているだけで出汁が引けていないわ。ジャンが作ったあの黄金色のスープに比べたら、ただの塩水ね」


「お姉様のご指導を受けたジャンたちの料理が、いかに特別で素晴らしいか、ここで食べるとしみじみと実感いたしますわ……」


私たちがそんな辛口の料理評論を繰り広げていると、背後から不意に声がかけられた。


「……ほう? 王宮の料理長が腕によりをかけた料理が、ただの塩水だと?」


振り返ると、そこには面白そうな顔をしたジュリアン殿下と、苦笑いを浮かべたエドワード殿下が立っていた。


「殿下……。立ち聞きとは、王族にあるまじき趣味ですわね」


私が怯むことなく言い返すと、ジュリアン殿下は声を上げて笑った。


「はははっ、これは失礼。だが、我が王宮の料理をそこまで酷評するとは、アルジェント家の食卓はどれほど素晴らしいのか、気になってしまってね」


「兄上の言う通りです。アイラ嬢がそこまで仰るのなら、ぜひ一度、その特別な料理を私たちにも味わわせてはくれませんか?」


エドワード殿下までが、身を乗り出してそんな提案をしてきた。


「……それはつまり、我が家に夕食を食べに来るということですか?」


私が胡乱な目を向けると、二人の王子は同時に深く頷いた。


「決定だな! 近日中に、アルジェント公爵家を公式に訪問させてもらおう!」


「お父様やお兄様の胃に穴が空きそうですが……まあ、我が家の料理の真髄、とくとお見せいたしましょう」


こうして、王太子と第二王子という国で最も厄介な客人を、我が家の食卓に迎えることが決定してしまったのだった。


公爵邸の厨房は、かつてないほどの熱気と闘志に満ち溢れていた。


「王宮の料理長が作ったものが、ただの塩水だと? 舐められたものだ」


料理長のジャンが、研ぎ澄まされた包丁を手に、ギラギラとした目を輝かせている。


「俺たちのアイラお嬢様が王宮の料理に落胆されたのだ。アルジェント家の、いや、アイラお嬢様の威信にかけて、あの王子たちに『真の美食』というものを叩き込んでやる!」


「「「応!!」」」


料理人たちの魂の雄叫びが、厨房の壁を震わせた。


彼らは今や、単なる料理人ではなく、アイラという美食の女神に仕える狂信的な戦士となっていた。


そして、運命の晩餐の時間がやってきた。


お父様が万全の態勢で屋敷の警備と給仕の指揮を執る中、私とリリア、お兄様は、食堂で二人の王子を迎え入れた。


「やあ、アイラ嬢、リリア嬢。君たちが豪語した公爵家の料理、楽しみにさせてもらうよ」


王太子のジュリアン殿下が、優雅に微笑みながら席に着く。


「王宮の料理人を越える味がこの世にあるのか、お手並み拝見といきましょう」


第二王子のエドワード殿下も、余裕の笑みを浮かべている。


だが、その余裕は、最初の一皿が運ばれてきた瞬間にあっさりと崩れ去ることになる。


「本日の前菜、ホタテ貝のポワレ、焦がしバターと柑橘のソースでございます」


給仕が銀のドームを開けた瞬間、食堂を満たしたのは、暴力的な香辛料の匂いではなかった。


海の恵みを凝縮したような芳醇な香りと、バターの香ばしさ、そして食欲を強烈に刺激する爽やかな酸味が、完璧なハーモニーを奏でて彼らの鼻腔を打ち据えた。


「……なんだ、この香りは。スパイスの匂いが全くしないのに、これほどまでに食欲をそそられるとは……」


ジュリアン殿下がゴクリと喉を鳴らし、震える手でナイフとフォークを握った。


肉厚なホタテを切り分け、口に運ぶ。


その瞬間、彼の両目が限界まで見開かれた。


「……っ!? な、なんだこれはぁぁっ!!」


ジュリアン殿下が、椅子から立ち上がりそうな勢いで声を上げた。


「口に入れた瞬間、ホタテの繊維がほどけ、濃厚な海の旨味が津波のように押し寄せてくる! それを焦がしバターのコクが包み込み、最後に柑橘の香りが全ての雑味を洗い流して完璧な余韻を残す……! まるで、口の中で壮大なオーケストラが演奏されているようだ!」


「あ、兄上!? いくらなんでも大袈裟な……うおぉぉっ!?」


エドワード殿下も一口食べた途端、雷に打たれたように硬直した。


「噛めば噛むほどに溢れ出す、この甘みはなんだ! 魔法か? これは味覚を直接支配する魔法なのか!?」


二人の王子の、まるで少年向けの料理漫画のような劇的なリアクションに、お兄様は満足そうに頷き、お父様は少しだけ引いていた。


「ふふっ、お気に召したようで何よりですわ、殿下」


私が優雅に紅茶を傾けながら微笑むと、二人は皿に残った一滴のソースすら惜しむようにパンで拭い、口に運んでいる。


食堂の隅にある扉の隙間では、ジャンをはじめとする料理人たちが、無言のまま涙を流して固く拳を握りしめていた。


「……勝った。俺たちの料理が、王宮を越えたんだ……!」


彼らの心の声が、私にははっきりと聞こえた気がした。


アルジェント公爵家の美食革命が、王家の頂点をも陥落させた、記念すべき夜であった。


あの運命の晩餐から数日後、アルジェント公爵邸に予期せぬ客人の一団が押し寄せてきた。


二人の王子が、白い制服に身を包んだ王宮の料理長と、数名の高位料理人を引き連れてやってきたのだ。


「やあ、アイラ嬢、リリア嬢。すまないが、あの日以来、王宮の料理がどうにも喉を通らなくなってしまってね」


ジュリアン殿下が、少しだけやつれたような顔で力なく笑う。


「王宮の料理長も、急に食事を残すようになった我々に納得がいかないようで、直接公爵家の味を確かめに来たというわけです」


エドワード殿下の言葉に合わせ、真っ白な髭を蓄えた王宮料理長が、プライドの高そうな顔で一歩前に出た。


「お初にお目に掛かります、アイラ様。王宮の厨房を預かる者として、公爵家の料理が我々を凌ぐなどという言葉、我が舌で確かめさせていただきたく存じます」


彼の言葉には、長年王家の食卓を支えてきたという強烈な自負が滲んでいた。


「ええ、構いませんわ。ジャン、彼らに『本物』を味わわせてあげなさい」


私が厨房の奥に向かって声をかけると、待ち構えていたジャンが不敵な笑みを浮かべて現れた。


「お任せください、アイラお嬢様。王宮の皆様、アルジェント家の料理をとくとご覧あれ!」


ジャンは瞬く間に厨房を指揮し、先日の王子たちを虜にしたものと同じ、最高級のフルコースを仕立て上げた。


食堂のテーブルに並べられた皿を前に、王宮料理長は訝しげな顔つきのままナイフを手にした。


「香辛料の香りがまるでしない。このような薄っぺらい匂いで、殿下方を満足させられると……っ!?」


一口、肉のローストを口に運んだ瞬間、王宮料理長の言葉がピタリと止まった。


彼の顔から血の気が引き、持っていたナイフがカランと音を立てて床に落ちる。


「……なんだ、これは。肉が、肉の旨味だけでこれほどの感動を生み出すというのか!」


王宮料理長は、かつてジャンが私に見せたのと同じように、両手で顔を覆ってその場に膝をついた。


「私が今まで作っていたものは、ただの香辛料の塊にすぎなかった……。素材の命を、私はこれほどまでに無駄にしていたのか……!」


同行していた他の王宮料理人たちも次々と料理を口にし、一様に驚愕と絶望の声を上げている。


「わかっただろう、あんたたち。俺も最初は全く同じ反応をしたんだ」


ジャンが腕を組み、かつての自分の姿を重ねるように深く頷いた。


「だが、思い上がってはいけない。この究極のレシピも、調理の概念も、全てはここにいらっしゃるアイラお嬢様がもたらしたものなのだ!」


ジャンが私を大袈裟に指差すと、王宮料理人たちの視線が一斉に私に突き刺さった。


「アイラ様が……? このような幼い令嬢が、これほどの神髄を一体どこで……?」


「夢だよ! お嬢様は、夢の中で完璧な料理の知識を授かったと仰った。まさに、食の女神に選ばれたとしか思えない!」


ジャンの熱弁を聞いた王宮料理長は、ハッと息を呑み、そして私に向かって深々と平伏した。


「夢で知識を……。おお、なんということだ! アイラ様は、食の女神が遣わせた聖女様に違いない!」


「「「聖女様!! 万歳!!」」」


王宮の料理人たちと我が家の料理人たちが謎の連帯感を見せ、厨房は謎の宗教団体の集会のような熱狂に包まれた。


「……ちょっと、勝手に聖女にしないでちょうだい」


私がドン引きしながらお兄様の後ろに隠れると、お兄様は「僕の妹が聖女になった!」と感極まって泣き出していた。


「アイラ嬢、いや、聖女様。どうか我々王宮の料理人にも、その知識を分け与えてはいただけないだろうか!」


王宮料理長の必死の懇願に、お父様が咳払いをして割って入った。


「よかろう。我がアルジェント家と王宮の厨房で、定期的な技術交流と人材の出向を行うことを許可しよう」


「うんうん、それがいい。これで王宮でも、毎日本当に美味しいご飯が食べられるね、兄上」


「全くだ。アルジェント公爵、見事な計らいに感謝するぞ」


二人の王子が、自分の胃袋の平穏が守られたことに満足して、うんうんと深く頷き合っている。


(……結局、美味しいものを食べるために、私が教える人が増えただけじゃないの)


私は盛大なため息を吐きながらも、この世界の食文化がさらに良い方向へ向かうこと自体は、悪くないなと内心で思っていた。


王宮の料理人たちとの技術交流は、瞬く間にヴァリエール王国の食卓に革命をもたらした。


長年、香辛料の刺激に舌を麻痺させていた国王陛下と王妃陛下も、素材の味を極限まで引き出した料理に深く感銘を受けたらしい。


その功績を讃えるため、私とお父様、そしてお兄様は王宮の謁見の間に召喚され、直接褒美を賜ることになったのだ。


「アイラよ、そなたがもたらした食の知識は、我が王家の食卓に真の幸福をもたらした。望みの褒美を言うが良い」


玉座から威厳と優しさを交えた声をかける国王陛下に、私は迷うことなく答えた。


「もったいないお言葉、恐悦至極に存じます。私が望むのは、優秀な魔道具技師ですわ」


「魔道具技師、だと? 宝石や領地ではなく、なぜそのような職人を求めるのだ?」


国王陛下が不思議そうに首を傾げ、王妃陛下も目を瞬かせている。


「私が夢で見た『究極の厨房』には、火を使わずに食材を熱する箱や、一瞬で食材を細かく砕く刃のついた壺など、見たこともない道具が溢れていましたの。それらを再現しなければ、私の目指す料理は完成しませんわ」


私の言葉に、同席していたジュリアン殿下とエドワード殿下がガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。


「なっ……! アイラ嬢、今の至高の料理のさらに先があるというのか!?」


「すでに神の領域だというのに、まだ未完成だなんて信じられない……!」


二人の王子が衝撃で顔を引きつらせる中、国王陛下も驚愕のあまり言葉を失っていた。


「……そなたの食への探求心、恐れ入った。しかし、我がヴァリエール王国は魔法技術において、いささか遅れをとっていてな。そなたの望むような高度な道具を作れる優秀な魔道具技師は、国内には数えるほどしかいないのだ」


国王陛下が困ったように顎髭を撫でると、ジュリアン殿下が何かに気づいたように前に進み出た。


「そこで提案なのだが、アイラ嬢。近々、私が特使として隣国のクラエス王国へ赴く行事がある。クラエス王国は魔道具の先進国だ。私に同行し、君の目で直接、理想の技師を探してみてはどうだろうか?」


「隣国へ、ですか……?」


私が驚いてお父様とお兄様を振り返ると、二人は「可愛いアイラが他国へ連れ去られてしまう」とこの世の終わりのような絶望的な顔をして震えていた。


「もちろん、アルジェント公爵とセオドアも護衛として同行して構わない。どうだろう、我が国の食の未来のために、そして君の理想の厨房のために、力を貸してはくれないか?」


「ジュリアン殿下がそう仰るなら、断る理由はありませんわね」


お父様とお兄様が同行できると聞いて一瞬で安堵の表情を浮かべるのを横目に、私はジュリアン殿下の提案に頷いた。


未知の調理器具への誘惑と、まだ見ぬ異国の食材への期待。


私の美食への飽くなき執着は、ついに国境を越えて隣国へと広がっていくことになったのだった。


クラエス王国への道中、私たちは国境を越えてすぐの小さな村で馬車を休ませていた。


「アイラお姉様、あそこで何か騒ぎが起きていますわ」


リリアが指差した先では、村の広場で一人の少女が、恰幅の良い貴族らしき男に怒鳴りつけられていた。


「こんな平民のガラクタが、魔道具だと? 我々貴族が独占する魔法の技術を勝手に模倣するとは、なんたる傲慢か!」


クラエス王国の地方貴族と思われる男は、少女が抱えていた奇妙な金属の箱を奪い取ろうとしていた。


「やめてください! それは村のみんなの井戸の水を汲み上げるために、私が作った大切な道具なんです!」


煤だらけの服を着た少女が必死に抵抗するが、男は容赦なく彼女を突き飛ばした。


私はその光景を見た瞬間、思わず足を踏み出していた。


「ちょっと待ちなさい。その箱、あなたのような節穴には使いこなせないわよ」


私が声をかけると、男は不愉快そうにこちらを振り返った。


「なんだ、この小娘は。平民の子供が、この私に口を出すというのか!」


「私は平民じゃありませんし、あなたがガラクタと呼んだその箱が、いかに洗練された魔力回路で構成されているかも理解していますわ」


私は少女の傍に歩み寄り、転がった金属の箱を拾い上げた。


少し見ただけで、少ない魔力を効率よく循環させ、強力な動力に変換する恐るべき技術が詰まっていることがわかる。


「……あなた、これを作ったの? 名前はなんて言うの?」


「ミ、ミーアです。魔道具技師に、なりたくて……」


ミーアと名乗った少女は、怯えながらも自分の夢を口にした。


「生意気な平民どもめ! ええい、その箱ごと叩き壊してやる!」


顔を真っ赤にした貴族の男が、腰の剣に手をかけて私に歩み寄ってきた。


その瞬間、私の背後から氷点下の殺気が吹き荒れた。


「……おい。誰の娘に向かって剣を抜こうとした?」


地を這うような低い声と共に、お父様が私の前に立ち塞がり、男を睥睨した。


「アイラに暴言を吐いたね。君の舌を切り落として、その剣と一緒に溶鉱炉に放り込んであげようか」


お兄様も、普段の私へのデレデレした顔を微塵も残さない、冷徹な死神のような表情で男に詰め寄る。


「ひっ……!? な、なんだ貴様らは! 私はこの辺りを治める男爵だぞ!」


男が後ずさったところに、とどめとばかりにジュリアン殿下が優雅な足取りで進み出た。


「ほう。クラエス王国の男爵は、我がヴァリエール王国の公爵令嬢に剣を向けるのか。これは国際問題として、そなたの王に直接問いたださねばなるまいな」


ジュリアン殿下が王太子の証である紋章を見せつけると、男爵は泡を吹いてその場に崩れ落ち、這うようにして逃げ去っていった。


「アイラ、怪我はないかい? あんな野蛮な国にアイラを連れてきてしまって、お兄様は……!」


「お兄様、近いです。お父様も、そんなに殺気を振り撒かないでください」


一瞬で過保護な家族に戻った二人を適当にあしらい、私はミーアに向き直った。


「ミーア、私と一緒に来ない? あなたの腕と発想が、私の目指す『料理』には絶対に必要なの」


私が手を差し伸べると、ミーアは信じられないものを見るように目を丸くした。


「でも、私が村を出たら、家族がまたあの貴族に何をされるか……」


「その点なら心配ないよ。我が国の精鋭である私服騎士を六名、君の家族の護衛としてこの村に残そう」


ジュリアン殿下が事も無げに言い放ち、ミーアの不安は一瞬にして物理的な暴力(武力)によって解決された。


こうして、思いがけない場所で最高の天才魔道具技師を保護した私たちは、いよいよクラエス王国の首都へと辿り着いたのだった。


ジュリアン殿下がクラエス王国の王宮で特使としての仕事に追われている間、私たちは滞在先として用意された迎賓館の一室でくつろいでいた。


目の前のテーブルには、ミーアが持参した羊皮紙が何枚も広げられている。


「アイラ様、先ほど仰っていた『火を使わずに食材を熱する箱』というのは、具体的にどのような仕組みなのでしょうか?」


ミーアが羽ペンを握りしめ、食い入るように私を見つめてくる。


「そうね、私が夢で見たものは、見えない波を食材の水分に当てて、内側から熱を発生させるというものだったわ」


私が前世の電子レンジの概念を噛み砕いて説明すると、ミーアの瞳に驚きと知的好奇心の光が宿った。


「外側から焼くのではなく、内側から……! それなら、火の魔石の出力を抑えつつ、水属性の魔力回路を反転させて共鳴させれば……いけるかもしれません!」


ミーアはブツブツと呟きながら、羊皮紙に複雑な幾何学模様のような魔力回路を猛烈な勢いで書き込み始めた。


「あとは、箱の中を常に冬のように冷たく保つ魔道具も欲しいわね。ただ冷やすだけじゃなくて、食材が凍らないギリギリの温度を保ちたいの」


「それでしたら、氷の魔石の冷気を、微弱な風の魔石で箱全体に循環させる回路を組めば可能です。温度感知の魔術式を組み込めば、自動で出力を調整できます!」


現代の冷蔵庫やミキサーの概念を私が語るたびに、ミーアはそれをこの世界の魔道具の術式として見事に落とし込んでいく。


彼女はやはり、私が一目置いた通りの本物の天才だった。


「アイラお姉様、次から次へとそんな素晴らしい発想が出てくるなんて、本当に凄いですわ!」


隣に座っていたリリアが、私たちの高度な技術的会話を半分も理解していないだろうに、目をキラキラさせて私の腕に抱きついてくる。


「ふふっ、これが完成すれば、リリアにもっと美味しいデザートを作ってあげられるわよ」


「本当ですか!? お姉様、大好きですわ!」


私がリリアの銀髪を撫でていると、少し離れたソファから、熱を帯びた視線が突き刺さってくるのを感じた。


「……ああ、アイラはなんて賢くて慈悲深いんだ。あの小さな頭の中に、世界を救うような知識が詰まっているんだな」


お父様が、羊皮紙を覗き込む私の横顔を、まるで女神の彫像でも眺めるかのようなうっとりとした目で見つめている。


「全くです、お父様。しかもその知識を惜しげもなく披露し、妹のために役立てようとするあの優しさ……! ああ、今すぐあの会話の記録を石版に刻んでアルジェント家の宝物殿に飾りたい!」


お兄様も、紅茶の入ったカップを持ったまま、感極まったようにプルプルと震えていた。


王太子の外交任務などどこ吹く風で、この部屋だけはアルジェント公爵家の平和で過保護な日常に包まれている。


「アイラ様、この回転刃の魔道具ですが、安全装置として蓋が閉まっていないと魔力が流れない仕組みを追加してもよろしいでしょうか?」


「ええ、とても素晴らしいアイデアだわ、ミーア。あなたにお願いして本当に良かった」


私とミーアの「究極の厨房」を作るための会議は、お父様とお兄様の生温かい視線に見守られながら、日が暮れるまで白熱し続けたのだった。


私とミーアが、新たな魔道具の設計図を次々と完成させていた頃。


迎賓館の部屋の扉が開き、外交任務を終えたジュリアン殿下が満足げな笑みを浮かべて入ってきた。


「アイラ嬢、そしてミーア。君たちに朗報だ」


ジュリアン殿下はソファに腰を下ろすと、先ほどまで行われていたクラエス王国の国王との会談の内容を語り始めた。


「特使としての本題の裏で、私はクラエス国王に『ある平民一家の我が国への移住』を打診していたのだよ」


「それって、もしかして私の家族のことですか……?」


ミーアが羽ペンを持ったまま、信じられないというように目を丸くする。


「その通りだ。あのような地方貴族に君の才能が潰されるのは、我が国にとっても、この世界の未来にとってもあまりに惜しいからね」


ジュリアン殿下は肩をすくめ、呆れたような、しかしどこか冷酷な為政者の顔を覗かせた。


「驚くべきことに、クラエス国王は二つ返事で許可を出したよ。『ただの平民の小娘一家の引き抜きなど、どうぞご自由に』とな」


「平民というだけで、彼女が持つこの天才的な魔力回路の構築技術を評価しようともしないのですね」


私が設計図を指差しながらため息を吐くと、お父様が静かに頷いた。


「血筋や身分に固執するあまり、足元に眠る真の才能を見落とす。それが、歴史と伝統に胡座をかいた貴族社会の最大の弱点なのだ」


お父様の言葉には、クラエス王国の浅はかさを嘲笑う響きが含まれていた。


「その点、我がヴァリエール王国は幸運でしたね。アイラという至宝を見出し、さらにミーアという技術者まで手に入れることができたのですから」


お兄様が、私を誇らしげに見つめながらジュリアン殿下に同意する。


「私も、アイラ様と一緒に魔道具の研究を続けられるなら、これほど嬉しいことはありません!」


ミーアは、自分の才能が国境を越えて王族にまで認められたという事実に、大粒の涙をポロポロとこぼして喜んでいた。


「ええ、これから忙しくなるわよ、ミーア。まずはこの冷蔵庫と電子レンジの試作機を完成させて、リリアに最高のデザートを作るんだから」


「本当ですか!? お姉様の新しいデザート、とっても楽しみですわ!」


リリアが私の腕に抱きついて満面の笑みで歓声を上げる。


「はいっ! 私、死ぬ気で頑張ります!」


ミーアも涙を拭い、決意に満ちた表情で力強く頷いた。


一人の天才少女の流出が、クラエス王国にとってどれほどの損失になるか、あちらの貴族たちは知る由もない。


私は、この異世界に全く新しい調理器具が誕生する未来を想像し、これまでにないほどの期待で胸を躍らせていた。


クラエス王国での特使としての任務を無事に終え、ジュリアン殿下と私たちは帰国の途についていた。


王族と公爵家が連なる豪華な帰国の行列の中には、平民であるミーア一家の姿もあった。


彼らはアルジェント公爵家の専属の魔道具技師、および住み込みの使用人として正式に雇われることになったのだ。


ご家族には一般的な馬車が手配されたが、ミーアだけは私とリリアが乗る特別製の豪華な馬車に同乗していた。


「アイラ様、この魔力回路の冷却システムですが、風の魔石の配置を変えればもっと効率が上がりそうです!」


「いいわね、それで試してみましょう。……あ、でも風が強すぎると食材が乾燥しちゃうから、気をつけてね」


揺れる馬車の中でも、私とミーアは羊皮紙を広げて魔道具開発の議論に花を咲かせていた。


「お姉様とミーアのお話、魔法の呪文みたいでとってもかっこいいですわ!」


リリアは内容が理解できていなくても、私たちが楽しそうにしているのを見てニコニコと笑っている。


やがて、行列が国境近くの宿場町で休憩に入った。


私たちが馬車から降りて伸びをしていると、ジュリアン殿下やお父様、お兄様も集まってきた。


「長旅で疲れていないかい、アイラ嬢、リリア嬢、そしてミーア」


ジュリアン殿下が爽やかな笑顔で労いの言葉をかけてくる。


「ええ、殿下。馬車の中でもずっと新しい魔道具の話をしていましたから、退屈する暇もありませんでしたわ」


私が答えると、ジュリアン殿下は興味深そうに目を輝かせた。


「ほう、それは楽しみだな。冷蔵庫や電子レンジ以外にも、君のその小さな頭にはどんな未知の道具が詰まっているのだ?」


「そうですね……例えば、遠く離れた場所にいる人と、まるで目の前にいるかのように声を出して会話ができる魔道具とか」


私が前世の電話やスマートフォンの概念を口にした瞬間、ジュリアン殿下の笑顔がピシッと固まった。


「……な、なんだと? 通信の魔術は非常に高度で、国と国を繋ぐような巨大な設備が必要なはずだが……」


「それを、手のひらサイズにするのよ。あとは、遠くの景色や劇を、壁に本物のように映し出す魔道具なんかもあると便利ですわね」


私がテレビやプロジェクターの構想をさらりと付け加えると、ミーアが「ひぃっ」と短い悲鳴を上げて手元の羊皮紙を取り落とした。


「て、手のひらサイズで遠隔通話!? 映像の投影!? アイラ様、それはもはや神の御業です!」


「できるわよね、ミーアなら?」


私が微笑みかけると、ミーアは泡を吹きそうな顔になりながらも、職人の意地なのか「や、やってみせます!」と涙声で叫んだ。


「アイラ……君は食の革命だけでなく、通信や娯楽の概念まで根底から覆すつもりなのか……!」


ジュリアン殿下が、まるで恐ろしい魔王でも見るかのような目で私を見つめている。


「お父様、アイラの頭の中には世界をひっくり返す魔法が無限に詰まっています! やはり我が家の宝物殿に隔離して厳重に保護すべきでは!?」


「落ち着け、セオドア。アイラがそれを望むなら、私は世界中から魔石を集めてくるだけだ」


お兄様がパニックを起こし、お父様が極端な過保護ぶりを発揮してさらっと恐ろしいことを言う。


ただ美味しいご飯を食べながら、便利な生活を送りたいだけなのに、どうしてこうも大げさになるのかしら。


私は冷めた紅茶をすすりながら、この異世界がどんどん私の前世の色に染まっていくのを、どこか他人事のように楽しみにしていた。


「通信の魔道具の原理って、そんなに難しいものでもないと思うのよ。」


私は馬車に揺られながら、前世の現代人として持っていた一般教養レベルの知識をミーアに語り始めた。


「音を振動の波として捉えて、それを微弱な魔力の波に変換して遠くに飛ばすの。そして、受け取った側の魔道具でまた音の振動に戻すのよ。」


ミーアは目を丸くしながらも、羽ペンを猛烈な勢いで動かしている。


「音を、魔力の波に変換……! その発想はありませんでした。魔力の波の周波数を細かく設定すれば、他の通信と混線することも防げるかもしれません!」


ミーアの天才的な理解力に、私は満足げに頷いた。


「映像の投影も基本は同じよ。光の三原色……赤、青、緑の光の強弱をデータにして送って、それを壁に映し出すの。」


「三原色……! 属性の魔石を組み合わせれば、理論上はあらゆる色を再現できます!」


私たちが楽しげに技術開発の議論を交わしていると、向かいの席に座っていたジュリアン殿下が、いつになく真剣な表情で口を開いた。


「アイラ嬢、君は今語っている技術が、国家にとってどれほどの意味を持つか本当に分かっているのか?」


「え? 遠くの街の美味しいお店の情報をすぐに知れたり、お家でゆっくり劇を見られたりして楽しいじゃないですか。」


私が呑気に答えると、ジュリアン殿下は信じられないものを見るように深いため息を吐いた。


「情報の伝達速度は、そのまま国の力に直結するのだ。軍の迅速な配置、災害への即時対応、他国との外交の駆け引き……これが実用化されれば、我がヴァリエール王国は大陸で並ぶ者のない覇権国家となるだろう。」


ジュリアン殿下の言葉の重みに、同乗していたお父様とお兄様もハッと息を呑んで顔を見合わせた。


「ただ美味しいご飯を食べたい、便利な生活を送りたい。君のその無邪気で純粋な欲求から生み出される知識が、世界そのものを変革していくのだな。」


ジュリアン殿下は、熱を帯びた瞳で私を真っ直ぐに見つめてきた。


その視線には、王太子としての冷徹な打算だけでなく、私という規格外の存在に対する純粋な興味と、ひとりの男性としての熱情が混じり始めているように感じられた。


(アイラ・アルジェント……彼女は、絶対に手放してはならない、私にとっての至宝だ)


そんなジュリアン殿下の心の声が聞こえてきそうなほどの熱視線だったが、今の私にはあまり関係のないことだった。


「それより殿下、国力よりも今夜の宿の夕食の方が重要ですわ。この辺りは何が名物なのかしら?」


「……ふっ、君には敵わないな。いいだろう、今夜は私が最高の宿を手配しよう。」


ジュリアン殿下が毒気を抜かれたように笑い声を上げるのを横目に、私はリリアと共に美味しい夕食の想像に胸を膨らませていたのだった。


クラエス王国からの帰国の馬車に揺られてから数日後。


王都のアルジェント公爵邸には、かつてない活気と、少しばかりの火薬の匂い……もとい、魔力回路の焼け焦げる匂いが漂っていた。


「……うーん、やっぱり風の魔石の出力を上げすぎると、遠心力で容器そのものが吹き飛んでしまいますね」


「そうね。刃の回転速度は落とさずに、容器を固定する土属性の安定回路を組み込めないかしら?」


公爵邸の離れに新設された『ミーア専用・特別魔道具工房』。


そこで私とミーアは、顔を煤だらけにしながら羊皮紙と試作機を前に唸っていた。


クラエス王国から引き抜いてきた天才魔道具技師のミーアは、我が家で最高級の待遇と専用の工房を与えられ、水を得た魚のように魔道具開発に没頭していた。


彼女の家族も公爵領の安全な場所で手厚く保護されており、彼女は今や何の憂いもなく、私と共に「究極の厨房」づくりに邁進している。


そして今日、ついに記念すべき第一号の調理用魔道具の試作機が完成しようとしていた。


「よし、今度こそ完璧なはずです! アイラ様、ジャンさんを呼んで実証実験をしましょう!」


「ええ、ついにこの時が来たわね!」


私たちが意気揚々と厨房へ向かおうとすると、工房の扉が控えめにノックされた。


「アイラお姉様、ミーア! お茶をお持ちしましたわ!」


「アイラ、息抜きも必要だよ。お兄様が極上の茶葉を淹れさせたからね」


「危険な実験はしていないだろうな? もしアイラやリリアに怪我でもあったら、この工房ごと……いや、なんでもない」


リリア、お兄様、そしてお父様という、我が家の過保護トリオがぞろぞろと入ってきた。


彼らは私が工房に篭りきりなのが心配でたまらないらしく、一日に何度もこうして様子を見にくるのだ。


「ちょうど良かったですわ。これから厨房で、新しい魔道具のお披露目と試運転を行うところですの」


「おお! 例の『包丁を使わずに食材を刻む魔法の箱』か!」


お兄様が目を輝かせ、私たちは全員で厨房へと移動した。


厨房では、料理長のジャンをはじめとする料理人たちが、期待と緊張の入り混じった顔で私たちを待ち構えていた。


私が調理台の中央にドンッと置いたのは、金属の土台にガラスの分厚い容器が乗り、底に鋭い四枚の刃がついた魔道具――前世の『フードプロセッサー』兼『ミキサー』だ。


「皆様、お待たせしました。これが、調理の常識を覆す第一の魔道具『旋風の刻みトルネード・チョッパー』です!」


私が仰々しく名前を発表すると、ジャンがゴクリと喉を鳴らした。


「アイラお嬢様……それは、一体どうやって使うのですか?」


「百聞は一見に如かずよ。ジャン、一番硬い根菜と、スープにする予定の茹でた野菜を持ってきてちょうだい」


ジャンが慌てて用意した硬いニンジンやタマネギを、私は適当な大きさに切ってガラス容器の中に放り込んだ。


そして、上からしっかりと魔力伝導性の蓋を被せる。


「ミーア、安全装置の説明を」


「はい! この魔道具は、蓋が完全にロックされないと魔力が通らない『安全回路』を組み込んでいます。刃が回転している間に手を入れてしまう事故を、絶対に防ぐためです!」


ミーアが誇らしげに胸を張る。


「では、スイッチを入れるわよ」


私が土台の魔力回路の起動ボタン(魔石のスイッチ)を押し込んだ瞬間。


キィィィィン!!


鋭い風切り音と共に、容器の底にある刃が目にも留まらぬ速さで回転を始めた。


風の魔石による圧倒的な推進力が刃を回し、容器内の野菜が竜巻のように舞い上がる。


「なっ……なんだこの回転は!?」


「野菜が……野菜が一瞬にして粉砕されていくぞ!?」


料理人たちが悲鳴のような歓声を上げる中、わずか十秒足らずで魔道具のスイッチを切った。


蓋を開け、容器の中身をボウルに空ける。


そこにあったのは、何時間もかけて包丁で刻んだかのような、完璧で均一なみじん切りの山だった。


「……信じられない。これほど細かく、均一に刻むには、熟練の料理人でも数十分はかかるというのに……」


ジャンがボウルの中のみじん切りを手に取り、震える声で呟いた。


「これだけじゃないわ。次は茹でた野菜とスープを入れてみて」


私は容器を軽く水魔法で洗い、今度は茹でたカボチャとブイヨンを投入した。


再びスイッチを入れると、今度は鈍い音と共に、食材が滑らかな液体へと変わっていく。


二十秒後、ボウルに注ぎ出されたのは、裏ごしの必要が全くないほどに滑らかで、空気をたっぷりと含んでふんわりとした黄金色のポタージュだった。


「味見をしてみて」


私がスプーンを渡すと、ジャンは震える手でそれを口に運んだ。


「……ああ……っ! なんという滑らかさ……! 舌の上で溶けるような口当たりに、空気を抱き込んだことで香りが何倍にも膨らんでいる……!」


ジャンはその場に両膝をつき、天を仰いで滂沱の涙を流した。


「今までの裏ごし作業はなんだったのだ……! これがあれば、我々は下ごしらえの時間を大幅に削り、より創造的な味の探求に時間を費やすことができる!」


「アイラお嬢様! ミーア殿! あなた方は神だ! 厨房に舞い降りた女神様だぁぁぁっ!」


料理人たちが次々とポタージュを味見し、厨房はまたしても新興宗教の集会のような熱狂に包まれた。


「お姉様! 私も飲みたいですわ!」


リリアが私の袖を引くので、小さなカップに注いで渡してあげる。


「おいし〜い! お口の中でカボチャのお化けが踊っていますわ!」


リリアの天使のような笑顔に、私は満足げに頷いた。


「アイラ……君という子は……!」


振り返ると、お兄様が両手で顔を覆って号泣していた。


「ただ美味しいご飯を食べたいという君の純粋な願いが、また一つ、料理人たちの過酷な労働環境を救ってしまった! ああ、なんて慈悲深いんだ!」


「うむ。この『トルネード・チョッパー』の特許は、アルジェント家で厳重に管理せねばならんな。他国に漏れれば、食料加工の産業バランスが崩壊しかねん」


お父様も、一人だけ為政者の顔になって難しいことを言っている。


「大袈裟ですよ。これはまだ、究極の厨房の『下準備』に過ぎないんですから」


私はふふっと笑い、隣で誇らしげにしているミーアとハイタッチを交わした。


切る、混ぜるという重労働から解放された料理人たち。


彼らの余力は、さらなる美食の高みへと向けられることになる。


だが、私の欲望はまだまだこんなものでは満たされない。


「ミーア、次はリリアとの約束を果たすわよ。温度を自在に操る、甘美なるお菓子の魔道具よ!」


「はいっ、アイラ様! 私の回路構築技術の全てを注ぎ込みます!」


厨房の熱気と家族の愛に包まれながら、私たちの魔道具開発は次なるステップへと進んでいくのだった。


「切る」「混ぜる」を極めた魔道具『トルネード・チョッパー』の導入により、アルジェント公爵邸の厨房は劇的な進化を遂げた。


料理人たちは下ごしらえの時間を大幅に短縮し、ソースの研究や新たな味の開拓に全力を注げるようになったのだ。


しかし、私の美食への執念は休むことを知らない。


次なるターゲットは、リリアと約束した「最高のデザート」を作るための魔道具である。


「アイラ様、ご要望の『温度感知と自動調節回路』、なんとか組み込めそうです!」


工房で、ミーアが目の下に少しクマを作りながらも、輝く笑顔で羊皮紙を突き出してきた。


「素晴らしいわ、ミーア! これで、あの気難しい食材たちを完全に支配できるわね」


私が設計図を見て絶賛すると、ミーアはえへへと照れ臭そうに笑った。


お菓子作り、特に「チョコレート」と「アイスクリーム」は、温度管理が全てを握っていると言っても過言ではない。


チョコレートのテンパリング(温度調整)は、ほんの数度のズレでツヤや口溶けが台無しになる。


アイスクリームは、冷やしながら絶えず空気を混ぜ込み続けなければ、滑らかな食感は生まれない。


これらを人力で完璧に行うには、熟練の技と途方もない労力が必要だった。


「完成したのがこちらの二つです!」


数日後、厨房に運び込まれたのは、二つの美しい銀色の魔道具だった。


一つ目は『恒温の融解釜テンパリング・ポット』。


火と水の魔石を複雑な回路で制御し、中に入れた食材を『設定した温度』で寸分の狂いもなく保ちながら、ゆっくりと攪拌する魔道具だ。


二つ目は『極寒の攪拌器アイス・メイカー』。


氷の魔石の冷気を容器の周囲に循環させつつ、内側の羽が絶えずゆっくりと回り続け、冷やしながら空気を含ませる仕組みになっている。


「ジャン、カカオの塊と、最高の牛乳、卵黄、砂糖を用意してちょうだい」


「は、はいっ! 全て一級品を揃えております!」


ジャンはもはや私の言葉を神の啓示のように受け取っており、指示を出す前にすでに完璧な食材を並べていた。


まずはチョコレートだ。


前世の知識を頼りに、カカオを砕き、砂糖やミルクを独自の配合で混ぜ合わせたものを『テンパリング・ポット』に投入する。


「温度を一度五十度まで上げて溶かし、その後二十七度まで急冷、最後に三十二度に保ちながら混ぜ続けて」


「了解です! 水の魔石、冷却回路起動! 火の魔石、保温回路に移行します!」


ミーアが魔道具のダイヤルを操作すると、魔力回路が淡い光を放ち、釜の中のチョコレートが魔法のように滑らかに、そして鏡のように美しいツヤを帯びていく。


「……信じられない。あの扱いの難しいカカオが、まるで絹のように輝いている……」


パティシエを担当している料理人が、食い入るように釜を覗き込んで震えていた。


次にアイスクリームだ。


卵黄と砂糖をすり混ぜ、温めた牛乳を加えてアングレーズソース(ベースとなるクリーム)を作る。


それを『アイス・メイカー』に流し込み、スイッチを入れた。


「氷回路、最大出力! 攪拌羽、低速回転で維持します!」


キュイィィンという微かな魔力音と共に、冷気が容器を包み込み、中のクリームがゆっくりと空気を含みながら凍り始めていく。


数十分後。


厨房のテーブルには、宝石のように輝く一口サイズのチョコレートと、銀の器に高く盛られた真っ白なバニラアイスクリームが並べられた。


「リリア、お待たせ。約束の新しいデザートよ」


私が声をかけると、ずっと後ろでソワソワと見守っていたリリアが、満面の笑みで飛び出してきた。


その後ろには、当然のように「毒見(という名のつまみ食い)」を名乗り出たお父様とお兄様の姿もある。


「わぁっ……! お姉様、この黒いお菓子、お顔が映るくらいピカピカですわ!」


リリアは小さな手でチョコレートをつまみ、パクリと口に入れた。


その瞬間、リリアの瞳がこれ以上ないほどに大きく見開かれた。


「……っ!?」


「リ、リリア!? 大丈夫か!?」


お父様が慌てて駆け寄ろうとするが、リリアは恍惚とした表情で両頬に手を当て、ふるふると首を横に振った。


「お、おいひい……っ! お口に入れた瞬間に、トロォ〜って溶けちゃいました! 甘くて、少しだけほろ苦くて、とってもいい匂いがしますわ〜!」


リリアの天使のような食レポに、お父様とお兄様も我慢しきれずにチョコレートを口に放り込む。


「なっ……なんだこの滑らかさは! カカオのザラつきが一切ない! 舌の熱だけで溶け出し、濃厚な香りが鼻腔を突き抜ける!」


「噛む必要すらない……。まるで極上の蜜を舐めているようだ。アイラ、君はカカオという泥から黄金を錬成したのか!?」


三人が悶絶している隙に、私はアイスクリームの器をリリアの前に押し出した。


「こっちも溶けないうちに食べてみて。冷たいわよ」


リリアはスプーンでアイスクリームをすくい、口へ。


「……冷たぁい! でも……あまぁい!!」


リリアはもう言葉にならないらしく、ただただ幸せそうに「んふふ〜」と笑いながら、アイスを頬張っている。


「この氷菓……ただ凍らせた果汁とは全く違う。ふんわりと空気を含んでいて、冷たいのに口の中で優しく溶けて、濃厚なミルクのコクが後を引く……!」


お父様もスプーンを持つ手が止まらない。


ジャンたち料理人も試食を始め、あちこちで「生きてて良かった」「アイラお嬢様、万歳」という鳴き声が上がっている。


「ふふっ、大成功ね、ミーア」


「はいっ! アイラ様の知識と、私の魔道具が一つになった結果です!」


私とミーアは、極上のチョコレートアイスをこっそりと堪能しながら、勝利の笑みを交わした。


「アイラ嬢。その素晴らしい甘味、私の分もあるだろうな?」


ふと、厨房の入り口から上品で、しかしどこか圧のある声が響いた。


振り返ると、ジュリアン殿下が護衛も連れずに、なぜかフォークとスプーンを両手に持って立っていた。


「殿下!? なぜ我が家の厨房に……」


お父様が驚愕する。


「いや、王宮で執務をしていたら、風の精霊が『アルジェント家でとんでもなく甘い香りがする』と囁いたものでね。急いで馬を飛ばしてきたというわけだ」


(絶対に嘘だ。ただ我が家の新作料理の匂いを嗅ぎつけただけでしょうに)


ジュリアン殿下は優雅に歩み寄り、チョコレートとアイスクリームを一口ずつ味わった。


そして、いつもの余裕のある笑顔を完全に崩し、目を見開いて私を凝視した。


「……アイラ。君は、王宮のパティシエを全員失業させる気か?」


「あら、技術交流の約束は生きていますわよ? 殿下がこの魔道具を王宮にも導入したいと仰るなら、ミーアの工房に発注してくだされば、お安くしておきますわ」


私が商人のような笑みを浮かべると、ジュリアン殿下はハハッと声を上げて笑った。


「君には本当に敵わないな。いいだろう、王宮の予算を割いてでも、この『魔法の釜』と『氷の箱』を導入させてもらおう」


こうして、私たちの作った甘美な魔道具は、公爵家だけでなく王宮のデザート事情までも一変させることになった。


だが、私たちの真の目標はまだ先にある。


食材の命を永遠に留め、あらゆる熱を支配する、最大にして最強の魔道具の開発が、いよいよ始まろうとしていた。


「切る・混ぜる」の『トルネード・チョッパー』。


「温度と攪拌」の『テンパリング・ポット』と『アイス・メイカー』。


これらの中型魔道具の成功は、ミーアの技術力と私の知識が、この世界に革命を起こせることを完全に証明した。


そして季節が少し肌寒くなり始めた頃、私たちはついに「究極の厨房」プロジェクトの集大成にして、最大の難関に取り掛かっていた。


それは、『冷凍・冷蔵庫』と『多機能オーブン』の開発である。


「アイラ様……回路の出力バランスが、どうしても安定しません。冷蔵庫の冷気を保とうとすると、隣の冷凍庫の氷の魔石が暴走してしまって……」


工房の床に散らばった無数の設計図に埋もれながら、ミーアが充血した目で泣き言を漏らした。


彼女はここ数日、まともに睡眠もとらずに魔力回路の構築に没頭している。


「焦らなくていいわ、ミーア。一旦休憩しましょう。ジャンに夜食を作らせたから」


私が温かいスープとサンドイッチを差し出すと、ミーアは「アイラ様〜!」と泣きつきながらサンドイッチにかじりついた。


大型の魔道具は、小型のものとは比べ物にならないほど複雑な魔力制御を必要とする。


特に『冷蔵・冷凍庫』は、庫内の場所によって微妙に温度を変え(野菜室、チルド室など)、しかもそれを24時間365日維持し続けなければならない。


そして『多機能オーブン』はさらに厄介だった。


ただ熱するだけでなく、熱風を循環させて全体を均一に焼き上げる『コンベクション機能』と、私が夢で見た、見えない波で食材の内側から熱を発生させる『電子レンジ機能マイクロウェーブ』。


この全く異なる二つの加熱方式を、一つの箱に収めようというのだ。


「水属性の魔力を反転させて共鳴させる『マイクロウェーブ回路』自体は完成しているんです。でも、それを火属性のオーブン回路と干渉させずに切り替えるための、絶縁術式が……」


スープを飲みながらも、ミーアの頭の中は設計図でいっぱいのようだ。


「……ねえ、ミーア。一つの魔石で全てを賄おうとするから、回路が複雑に絡み合うんじゃないかしら?」


私は前世のパソコンの配線や、分電盤の概念を思い出しながら提案した。


「メインの動力源となる巨大な魔石を一つ置いて、そこから各機能の専用の小さな魔石に魔力を『分配』するのよ。切り替えスイッチは、その魔力の『道』を物理的に遮断したり繋いだりする仕組みにすれば……」


私の言葉を聞いた瞬間、ミーアの手からサンドイッチがポロリとこぼれ落ちた。


「……魔力の、分配と物理的遮断……!」


ミーアの瞳に、爆発的なひらめきの光が宿る。


「それです! 属性の違う魔石を直列で繋ぐから干渉するんです! 並列に配置して、リレー回路のように魔力の流れを制御すれば……アイラ様、天才です! 今すぐ書き直します!」


ミーアは猛烈な勢いで新しい羊皮紙に向かい、羽ペンを走らせ始めた。


私は落ちたサンドイッチを拾いながら、彼女の背中を頼もしく見つめた。


(私の曖昧な前世の知識を、この世界の物理法則と魔法術式で完璧に形にしてくれる。本当に、最高の相棒ね)


それからさらに数日後。


アルジェント公爵邸の厨房は、かつてない緊張感に包まれていた。


壁際に鎮座するのは、大人の背丈ほどもある白銀の巨大な箱『絶対零度の貯蔵庫コールド・キーパー』。


そして調理台の中央には、黒光りする重厚な窯『灼熱の万能窯インフェルノ・オーブン』。


「つ、ついに完成したのですね……」


料理長のジャンが、まるで神の祭壇でも見上げるかのように震える声で呟いた。


厨房には、お父様、お兄様、リリアはもちろん、噂を聞きつけて入り浸っているジュリアン殿下までが、固唾を飲んで見守っている。


「では、第一の実験。コールド・キーパーの性能テストよ」


私が頷くと、ミーアが扉を開けた。


中から、ふわりと白く冷たい冷気が溢れ出す。


「一週間前に入れた、葉物野菜と、新鮮な魚よ」


ミーアが取り出した野菜は、まるで今朝摘み取ったかのように瑞々しくパリッとしており、魚の瞳は澄み切って一切の臭みを発していなかった。


「……あり得ない。氷室でも数日でしなびてしまう野菜が、これほど完璧な状態を保っているなど……」


ジャンが野菜に触れ、信じられないというように首を振る。


「これがあれば、遠方の希少な海産物も、新鮮なまま公爵邸で調理できる……! 食材の寿命という概念が、根底から覆された!」


「次は、インフェルノ・オーブンよ。ジャン、下味をつけた分厚いドラゴンスムの塊肉を入れてちょうだい」


「は、はいっ!」


ジャンが数キロはある巨大な肉の塊をオーブンの中央にセットする。


「まずは『マイクロウェーブ回路』起動。内側から肉の温度を急激に上げます!」


ミーアがスイッチを入れると、炎は一切見えないのに、肉の内部からジュワァァという肉汁の煮え立つ音が聞こえ始めた。


「中に火が通ったわ。次は『コンベクション回路』に切り替えて、表面を一気に焼き上げて!」


「切り替え! 火と風の魔石、最大出力!」


轟音と共に、オーブン内に渦巻くような熱風が発生し、肉の表面が芸術的な飴色に焼き上がっていく。


これまでなら数時間は付きっきりで火加減を見なければならなかった巨大なローストビーフが、わずか数十分で完璧な焼き上がりを見せた。


「完成よ。ジャン、切り分けて」


私が指示すると、ジャンはオーブンから肉を取り出し、ナイフを入れた。


サクッ、という表面の香ばしい音と共に、中からは……どこを切っても均一な、見事なまでのバラ色の断面が現れた。


肉汁が一滴も逃げることなく、内部に完璧に閉じ込められている。


「……奇跡だ。どれほど熟練した焼き手でも、ここまで中心部まで均一に、かつ表面を完璧に焼き上げることは不可能だ……」


ジャンはもはや涙を流すことすら忘れ、ただただ圧倒されていた。


切り分けられたローストビーフが、見学者たちの口に運ばれる。


「……っ!! なんだこれは! 噛まなくても肉がほどける! なのに、外側はパリッとしていて香ばしい!」


お父様が目を見開き、上品さも忘れて二切れ目を口に放り込む。


「美味しいですわ! お肉から甘いお汁がいっぱい出てきます!」


リリアも満面の笑みで頬張っている。


「アイラ……君たちの作ったこの箱は、もはや国宝だ。いや、これを独占すれば、我が国は他国の胃袋を物理的に支配できるぞ……!」


ジュリアン殿下が、ローストビーフを噛み締めながら、本気とも冗談ともつかない恐ろしいことを呟いている。


「本当に、やり遂げたのですね、アイラ様……!」


ミーアが、感極まって私の胸に飛び込んできた。


「ええ。あなたが寝る間も惜しんで頑張ってくれたおかげよ、ミーア」


私は泣きじゃくる天才技師の背中を、優しく撫でた。


切る、混ぜる。


温度を保ち、冷やす。


そして、保存し、あらゆる熱を支配する。


私とミーアが作り上げた魔道具たちは、アルジェント公爵邸の厨房を、文字通りの『究極の厨房』へと進化させた。


ここから生み出される美食は、間違いなくこの異世界全土に波及し、歴史を変えていくことになるだろう。


でも、そんな大層なことはどうでもいい。


「ジャン、そのお肉、私の分は一番分厚く切ってね。付け合わせは、冷蔵庫で冷やしておいたシャキシャキのサラダがいいわ」


「御意のままに、食の女神様!」


私は、世界一の料理人が世界一の設備で作った最高の料理を前に、ただ一人の腹ペコな少女として、至福の食卓につくのだった。


『究極の厨房』がアルジェント公爵邸に完成して、数週間が経過した。


『コールド・キーパー』による鮮度保持と、『インフェルノ・オーブン』による完璧な加熱。そして中型魔道具たちによる下ごしらえの自動化は、厨房の景色を劇的に変えた。


料理人たちの顔からは過労の隈が消え、厨房内には常に新しい料理の試作に向けた活気ある声が飛び交うようになっていた。


しかし、私はある日の午後、厨房を視察していて微かな違和感を覚えた。


「おい、その野菜は全部『トルネード・チョッパー』に放り込んでおけ! すぐにみじん切りになるからな!」


「ソースの温度管理は『テンパリング・ポット』に任せておけ! 俺たちは次の仕込みだ!」


若手の料理人たちが、まるで魔道具を「何でも美味しくしてくれる魔法の箱」であるかのように扱い、作業を流れ作業のようにこなしていたのだ。


その様子を見ていた料理長のジャンが、眉間に深い皺を寄せて若手たちを叱責しようと息を吸い込んだ瞬間。


「そこまでよ。全員、手を止めなさい」


ジャンの怒声よりも先に、私の静かで、しかしよく通る声が厨房に響き渡った。


公爵令嬢としての少し冷たい威圧感を込めた声に、若手料理人たちはビクッと肩を震わせて直立不動になる。


「アイラお嬢様……」


ジャンが私を見て、小さく頷いた。彼はすでに問題に気づいていたのだ。


私はゆっくりと歩み寄り、先ほど若手がチョッパーで砕いたばかりの肉のミンチをスプーンですくい上げた。


「……ねえ、これ。何の料理に使うつもりだったの?」


「は、はい! 今夜の夕食でお出しする、香草焼きの詰め物です!」


「そう。なら、なぜ肉の『繊維』(筋繊維)を無視して、ただ機械で粉砕したの? これでは肉の旨味を閉じ込めるどころか、細胞が潰れて焼く前に肉汁が逃げてしまうわ」


若手の料理人が、ハッとして顔を青ざめさせた。


「魔道具は確かに便利よ。硬い根菜を数秒で均一に刻み、何時間もかかる攪拌を文句一つ言わずにこなしてくれる」


私は厨房にいる全員の顔を見回しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「けれど、勘違いしないでちょうだい。魔道具は決して『料理を美味しくする魔法の杖』ではないわ。包丁や鍋と同じ、ただの『道具』よ」


厨房に、水を打ったような静寂が落ちる。


ミーアが工房から顔を出し、私の言葉を真剣な表情で聞いているのが見えた。


「包丁は、肉や野菜の繊維を見極めてはくれない。オーブンは、今日の肉の微妙な水分量や脂の乗り具合までは計算してくれない。魔道具の温度管理が一度単位で正確でも、その日の気温や湿度に合わせてコンマ単位で調整するのは……あなたたちの仕事よ」


私はスプーンの上のミンチを皿に戻し、彼らを真っ直ぐに見据えた。


「私がミーアにお願いしてこれらの魔道具を作ったのは、あなたたちに『手抜き』をしてほしかったからじゃないわ。過酷な単純作業からあなたたちを解放し、その浮いた時間と体力を、『大切な主人や客人を極上の料理でもてなす』ための研鑽に充ててほしかったからよ」


私の言葉に、若手料理人たちは恥じ入るように深く頭を下げた。


「ジャン。あなたはどう思って?」


私が話を振ると、料理長は厳粛な面持ちで一歩前に出た。


「アイラお嬢様のおっしゃる通りです。私は、この数日、魔道具の便利さに溺れ、己の腕を信じることを怠りかけている者がいることに危惧を抱いておりました。……職人の技と魂がこもっていなければ、どれほど優れた魔道具を使っても、それは『餌』に過ぎません」


ジャンの重みのある言葉が、厨房の空気をさらに引き締めた。


「ええ、その通りよ」


私は微笑みを浮かべ、少しだけ声のトーンを優しくした。


「アルジェント公爵家の厨房を任されているあなたたちは、間違いなくこの国で最高の職人集団よ。魔道具は、あなたたちの翼を休めるための枝にはなっても、代わりに飛んでくれるわけじゃないわ。……だから、見せてちょうだい。最高の道具と、最高の職人の技が合わさった時に生まれる、真の美食を」


「「「……はいっ!!」」」


若手も、ベテランも、全員の目に、先ほどまでの気の緩みとは全く違う、職人としての強烈な誇りと炎が宿っていた。


彼らは再びそれぞれの持ち場に戻っていく。


だがその動きは、先ほどまでの「魔道具に使われている」姿ではなく、「魔道具を完全に支配し、利用する」一流の料理人のそれに変わっていた。


「アイラお嬢様。……素晴らしいお言葉でした」


ジャンが私の傍らに来て、そっとハンカチで目頭を押さえた。


「あなた様は、食の知識だけでなく、料理人としての『心』すらもご存知でいらっしゃる。我々は一生、あなた様についていきます!」


「大げさね。私はただ、毎食最高に美味しいご飯が食べたいだけよ」


私がくすっと笑うと、ジャンも嬉しそうに破顔した。


「ミーアも、聞いていたわね?」


「はい! アイラ様の言葉、胸に響きました! 私の魔道具は、皆さんの『心』があって初めて完成するんですね!」


工房から駆け寄ってきたミーアも、目をキラキラと輝かせている。


かくして、アルジェント公爵家の厨房は、単なる「便利な設備の整った部屋」から、名実ともに「真の美食を追求する職人たちの聖域」へと昇華した。


魔法の技術と、前世の知識。そして何よりも、誇り高き料理人たちの技。


全てが噛み合ったこの時から、私たちの料理が王都の、いや世界の食文化の常識を次々と破壊していくことになるのだが……。


それはまた、少し先のお話である。


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