⑮-1 大切なヒト
シュタイン・アム・ラインの上空には、雲がまばらに広がっていた。生暖かな風が町に吹き荒れる日だった。
アルベルトが教会を去って数分後、今度はティニアが教会を訪れた。珍しく、ぶっきらぼうに教会の扉を閉める音が響く。
アドニスは細目を更に細めると、笑っているような表情で、彼女を出迎えた。
「聞きましたよ」
ふう、とティニアから溜息が漏れた。窓の向こうを見つめながら、ティニアは髪をかき上げる。
「やっぱりここに来てたんだ。そうだと思ったから、ちょっと隠れていたよ。僕の行く場所に先回りするなんて、何なんだよ」
「……もうヤっちゃっていいのでは」
「君ね、仮にも聖職者でしょ。そんなこと言っちゃダメだよ」
「仮、ですからね。しかし、真の姿は――」
「これ、開けちゃった」
ティニアは懐中時計をアドニスに見せると、唇を噛み締めた。すぐに胸ポケットへ押し込むと、天を仰いだ。
「……あ、開けたんですか!? 中身は!」
アドニスは慌てて目を見開いた。ティニアは胸ポケットの上から手を当てると、薄ら笑みを浮かべた。
「もう、返しても良かったんだよね」
「え? いえ、でもそれは。……いや。いいのか?」
「だって、ボクのじゃないし……」
教会の表から、人だかりが出来ているような音が聞こえてきた。窓からは表の様子はうかがえず、二人は首をかしげた。賑やかさは徐々に大きな喧騒として響いてくる。
「ん?」
「うん? なんでしょうね。急に外が騒がしく」
「どうしたんだろうね」
ティニアは喧騒など気にならない様子で、すぐに物思いにふけった。アドニスはゆっくりと教会の扉へ近づいた。鍵として当てていた板を取り外した時、待っていたとばかりにゆっくりと扉が開いた。
アルベルトだった。
ティニアは警戒して半歩ずり下がったものの、すぐにアルベルトが後ろから何かを取り出した。
白い小さな花で埋め尽くされた、花の塊だった。
◇◇◇
時は更に遡り――。
アルベルトが花束を持って現れる少し前、再開したペラルゴ――コウノトリという名の花屋では、朱色の髪を靡かせた女性が仁王立ちをしていた。
怒りの形相で相手の男を見下ろし、わかりやすい溜息をついた。
目の前では長身の男、アルベルトが店内で座り込み、頭を垂れている。
「喧嘩したって、どういうことよ!? 昨日の今日じゃない!」
「いや、うん……その。悪かったとは思って」
「悪いわよ! あんた、サイテー!」
ここぞと言わんばかりに咎めると、マリアは舌を出しながら男を牽制した。
「だから詫びに花束を、と思って」
「は、はあ?」
「もう、マリア。他のお客さんが、びっくりするから止めなさい! ありがとうございました。すみません騒がしくて」
ミランダは花束を予約していた客――マダムを入口まで見送ると、呆れた顔をした。マリアは表情を変えることなく、アルベルトを横目で睨みつけた。
「だって! ミランダさん。あの銀の懐中時計が、あの子にとってどれだけ大切か、私よりも知ってるでしょ?」
「……うん。それもそうね。今回はアルベルトさんが全面的に悪いかな」
「若造、嫉妬なんぞ見苦しい。こんな男だったとは思わなかったよ」
ミランダだけでなく、共に働きだしてすぐのメアリーまでもが天を仰いだ。メアリーはアルベルトとは初対面だが、そんなことはお構いなしだった。
アルベルトは先程まで教会で愚痴を零していたなど、口が裂けても話せない。ゆっくりと項垂れながら立ち上がると、マリアを恐る恐る見下ろした。
アルベルトより背の低いマリアは、見下ろされたことが気に食わなかったのか、頬を膨らませた。
「知らなかったんだ。あいつに、そんな奴が居たなんて……」
「…………」
「マリアには見せたのか? なんで俺にだけ見せないんだ」
「なんで、アンタなんかに見せなきゃならないのよ」
マリアは人差し指で男を指さした。
「とにかく、ちゃんと謝ってきて頂戴。いくらティニアでも、関係が修復できなくなるかもしれないわ。それくらい、大切なものなのよ」
「……誰なんだよ、ソイツ」
「誰って……」
マリアはミランダを見つめた。ミランダは首を横に振る。メアリーも目を閉じたまま何度も頷いた。
本当のところを言えば、マリアも懐中時計の事はよく知らなかった。恐らくミランダは良く知っているだろう。
ティニアが懐中時計のことについて軽く語らないことは知っている。
大切な人からもらったもの、彼女はそう語っていた。
「わ、私たちの口からは話せないわ」
マリアの言葉に、他の二人も頷く。視線をそらしたアルベルトを見つめ、ミランダは自分の胸に手を当てた。
「アルベルトさんにも、大切な人の一人や二人いるんじゃない?」
「…………」
「ティニアにはね、恩人がいるのよ。その恩人から、あの懐中時計は手渡されているの。時計は……」
マリアは、ティニアからその懐中時計にまつわる話を何度か聞いている。
詳しく知らないとはいえ――ミランダの話から察するに――ティニアが以前話していた大切な人と恩人は同一人物だろう。であれば、その懐中時計の価値は唯一無二のはずだ。マリアがそう思ったとき、アルベルトがミランダの話に割って入った。
「恩人? 恩人って誰だ?」
「ドイツの方の――」
そこまで話すと、ミランダはハッとして口を押えた。周囲を見渡したが、店内の客は(客かは不明だが)アルベルトだけであり、玄関のドアは閉まっている。
「ティニアさん、やっぱりドイツから来たのかい」
メアリーはペンダントの十字架に触れた。マリアは慌てて訂正した。
「メアリーさん、ティニアはスパイとかじゃ」
「知っているよ。避難民を連れてきたり、誤爆攻撃の際には先人を切って、瓦礫を撤去していったんだ。スパイだなんて思わないさ」
「メアリーさん……」
「ティニアは爆撃に遭う前から、ずっとこの町にいたんだ。あの子はもう、シュタイン・アム・ラインの住民さ」
メアリーは十字架を握る指に、力を込めた。
マリアは頷くと、アルベルトを見上げた。何とも言えない表情でいたアルベルトは、我慢できずにマリアに尋ねた。




