⑭-2 たとえ忘れてしまっても
ティニアの瞳はステンドグラスの光を反射して色を変えると、再び青い瞳へと戻った。
彼女が理由もなく感傷に浸るとは思えず、アドニスは理由を考えた。
彼女は尚も思案しながら、ぽつりと呟いた。
「一つの約束も、果たせなかった」
『そんなことはない』そう続けようとして、アドニスは思い留まった。選んだ言葉を辞め、ありのままを口にする。
「……それでも、私たちが覚えていれば、いつでも貴女へ話すことが出来ます」
「ボクは忘れてしまったんだ!」
声を荒げ、懐中時計を胸に当てる。目を閉じたまま、耐えるように。
「どうしてここに来たのかも、もう聞いた話でしか知らないんだよ……⁉」
ティニアは強く噛み締め、一人肩を抱き寄せた。差し伸ばす手を止め、アドニスは祈る仕草をした。
「忘れても、私がお教えします。……ええ、何度でも教えますよ」
「……そんなことを言っても、懐中時計を開けることはないよ。あいつは、死んじゃったんだ」
アドニスは何も言わず、ピアノの鍵盤にステンドグラスの光を静かに差し入れた。ティニアは懐かしそうに微笑みながら、ふうとため息を吐いた。
「そうだなぁ。せめて、僕がボクであったのなら……」
「…………」
その言葉だけを残し、彼女は教会を去り、帰路についた。日課である早朝散歩は、そうして終わりを迎えた。
◇◇◇
ティニアは旧市街へ出ると、その美しいフレスコ画を眺めながら呟いた。
言葉は風に流され、直ぐに消滅して消え去る。
ふいに朱色、否赤毛の女性が目に留まり、振り向いた。が、そこには帽子をかぶった新聞配達人が駆けていくだけであった。
「こんな早くにいるわけないか。……ボクは、一体何をしているんだ。こんな所までやってきて」
鳥のさえずりや羽ばたきが響き渡り、彼女の涙を引かせ、決して彼女の頬を濡らせない。
「もう、ボクは泣かないと決めたのに。泣かないと、トモダチと約束したんだ。忘れるなよ」
彼女は美しい瞳を天へ向け、決して流させないようにと決意を決める。そして、深く深呼吸をすると、再び天を仰ぐように空を見つめた。
「ボクの祖国は、一体どこにあると云うのか……」
美しい碧い眼は再び潤いを見せると、空に掲げられた月を見つめた。早朝の月は朧気であり、空のように青々としている。
「君たちが守ろうとした世界は、本当に美しいのだろうか」
その声は風に流された。
「命を懸けて、信念を貫いた世界は……。駄目だな、弱ってる」
ティニアは立ち止まった。
「教えてよ、オットー様。ハルツの地で、手を差し伸べてくれたんでしょ? もう、ボクは覚えていないんだよ……」
表情が曇り、雨降りの予兆が見え隠れし始める。ティニアはそのまま住み慣れた旧市街を歩き、思い出に浸り続ける。
「アルブレヒト様……。ボクは、ひとりぼっちだ……」
「ティニア!」
ふいに声がしたため、振り返ると旧市街のはずれに長身の男が薄手のコートを手に持ったまま、息を切らせていた。
「ここにいたのか!」
「君、こんな朝早くにどうしたの」
「いや、お前が部屋に居なかったから、その。探しに」
「何、部屋を覗いたの? 別にいいでしょ。朝の散歩だよ。それから、日課の礼拝みたいなもの。毎朝やってるんだよ」
ティニアは遠くの教会を見つめると、何食わぬ顔で帰路へ繋がるエーニンガー通りを目指した。アルベルトは慌ててその後を後を追った。
「今日はどうするんだ」
「今日は一日休み」
「午後は?」
「……僕は忙しいんだよ」
ティニアは面倒そうに男へ振り返らず、適当にあしらってしまった。




