⑬-7 記憶
夕食を終えると、ティニアは風呂へ向かった。
日常生活に帰ったティニアは、至って普通だった。
「まさか本ッ当に、ただ拾って住まわせただけとは……。俺は犬か猫かよ」
ソファに座るアルベルトは、聞こえるなら聞こえればいいと言わんばかりに言い放った。誰もいない部屋は静まり返っており、ティニアがいる風呂場から、水の音が響くだけだ。
大きく溜息を吐いたアルベルトは、傍らにファイルされたティニアの落書きを手に取った。
「あの山、どこだったかな。エルベじゃないし、えーっと。ああ、山じゃないんだった。あれは……」
――墓標。
心臓がチクリと痛んだ。
アルベルトの心に、はっきりとした言葉が浮かぶ。
「そうだ、墓標……。でも、どうして……」
幼いころから見ていた夢の光景が、アルベルトの脳裏で呼び覚まされていく。
風の柔らかな大陸だった。
紫がかった青空には、気持ちよさそうな雲が泳いでいる。
草原からたなびく風は心地よく、全てを浄化してくれた。
かけがいのない君は毒を食らい、その亡骸は……。
時が止まったかのような気分だった。
どれくらいの間、惚けていたのだろうか。
アルベルトは不意に言葉を漏らした。
「ケーニヒスベルク。そうだ、青々としたあの霊峰は……」
「なに?」
後ろから声がしたため、慌てて振り返ると、ティニアが立っていた。白いワンピースの様な寝間着に身を包んでいるものの、水玉を髪から零れ落としたままだ。
「お前、髪!」
「え? うん、ちゃんと拭くよ。乾かすし」
「バカ、ちょっと来い。風邪ひくだろう。まずはしっかり拭いてくれよ」
「わわわ……」
アルベルトはティニアをソファーに座らせると、タオルで髪の毛をわしゃわしゃと拭いた。
「お前、子供かよ。お前本当に孤児院で先生やってんのか? そんな滴り落ちるほどずぶ濡れじゃ、乾くわけ無いだろう!」
「あーえっと。風で、あったかい風で、ガーっと」
「何言ってんだよ。ドライヤーなんて、そんな最先端なものがこの家にあるっていうのか!」
「な、ないですけど……」
「じゃあ何か? 魔法でも使うってか?」
「あー、うん。そう。魔法で……わわわ」
アルベルトはタオルを更にわしゃわしゃさせた。
「はあ。しっかり水気を取れって。風邪でも引いたらどうするんだ」
「ううう……」
「よし。こんなもんか。……じゃあ、俺も浴びちまうか」
「あれ、浴槽に浸からない? うちはバスタブがあるから、お湯を新しく張ってきちゃったけど」
ティニアはタオルをかき分け、男を見上げた。
その光景が可愛すぎたため、男は長風呂を決めることにしたのだった。
◇◇◇
アルベルトが風呂へ向かった後、テーブルには赤いリボンの掛けられた箱が置いてあった。
ティニアは乾いた髪を櫛でとかしつつ、その箱のメッセージカードを見つめた。
「Der,ティニア? ぼ、ボク?」
差出人の場所には、アルベルトと書かれている。その下には、「退院おめでとう」の文言が添えられていた。
「なんだろう。開けてろって意味なんだろうけど。開けにくいなあ」
とはいえ、長風呂を決めた男が中々上がって来ることは無かった。
「うーん。開けちゃうか」
リボンを解き、箱を開けたティニアは、表情を固まらせる。
そこには白い花の植木鉢が佇んでいた。
ティニアはこの花を知っている。
――スノードロップだ。
「…………」
ティニアの呟きは、一人の部屋に響いた。その言葉を聞く者は誰一人としていなかった。




