⑬-4 進む一歩と
マリアは珈琲の淹れ方を完璧に決めると、自分のカップを持ち上げた。湯気が立ち込め、ゆっくりと焙煎されていた豆の香ばしさが、そのまま珈琲として抽出された。
マリアは一杯目をアルベルトのカップに、二杯目をティニアのカップへと注いだ。そして、残った三杯目を全て自分のカップへ入れた。
ティニアは席を立つと、カップを二つ持ちあげた。少し頬を赤らめながら珈琲を一つ、アルベルトへ差し出した。
「はい、珈琲。熱いから、気を付けてね」
「ああ、ありがとう。マリアも」
「うん。二人とも、それでいつ話してくれるの?」
「え?」
「話?」
二人は何のことかわかっていないようだった。マリアは苛立ちを感じ、本題へ入ることにした。
照れているティニアはともかく、アルベルトは分かっていることだろう。
テーブルに肘をつくと、マリアは窓の向こうを見つめた。窓の向こうは、珍しく青空が広がっているように見えた。
「一緒に住みたいんでしょ?」
マリアの予想通り、ティニアは頬を赤らめると俯いてしまった。しかし、アルベルトは首を横に振った。
「いや、お前が嫌だろう? だから俺は無理に……」
「私は構わないわ」
「……いいのか?」
「私、ディートリヒさんに頼んで、別のアパートをもう見つけているの。荷物はもう移動させたわ」
「な……」
眼を見開いたアルベルトは、部屋を見渡した。溢れかえっていた荷物は、明らかに減っている。アルベルトは勢いよく椅子から立ち上がった。
「何もそんなこと。出ていく必要なんてないじゃないか」
「別に追い出されるわけじゃないのは分かっているわ。安心して」
ティニアは心配そうにマリアを見つめる。そんなティニアへ、マリアは優しく微笑み返した。
「私もそろそろ独り立ちしたかったのよ。ティニアの事は大好きだけど、いつまでも甘えていられないもの」
「マリア……」
「別にいいのよ。ただ、付き合っているなら、言ってほしかったわ」
「それはないよ」
目を細めると、ティニアはキリリと微笑んだ。まるでアドニスのようだ。
付き合っていないことは、事実らしい。
先ほどの赤面した可愛らしい彼女はどこへいったのか。
アルベルトは苦い顔をすると、珈琲の香りを楽しもうと口元へカップを運んだ。
その様子を見たティニアは、慌てて砂糖のポットを手に取った。
「あ、あれ。君、砂糖入れないの?」
「え? ああ、マリアが淹れたのは格別だから、そのままで味わいたいんだ」
「あら、わかってるじゃない。そういうわけだから、私は独り立ちするので、ここはもうティニアだけよ。だからアルベルトが住んだっていいのよ」
「そうか……。そうだ、アパートの場所は?」
「シュタイン親分の工房の近くかな。橋を渡ってすぐよ」
マリアは珈琲を飲み上げると、ほうっと一息ついた。
その様子に、ティニアは柔らかな笑みに戻った。納得したようには見えないが、ティニアはマリアの事を受け入れてくれたようだ。
ティニアはふうふうと息を吹きかけると、恐る恐る珈琲を口にした。
「ふふふ。相変わらず、猫舌ね」
「マリアは熱くないの?」
「熱いけど、熱いままが美味しいんじゃない」
「そうだけど」
「……というわけで。私はもう行くわね」
カップを片手に、マリアは席から立ち上がったため、ティニアはカップをテーブルへ慌てて置いた。アルベルトは飲みかけの珈琲から離すと、同じくテーブルに置いた。
「え、まって。ちょっと待って、どこへ?」
「どこって、アパートよ」
マリアは窓越しに町の方を見た。先ほどまで青かった空には雲がかかり、今にも雨が降り出しそうな天気に変っていた。
「え、なんで……」
「実はもう住んでいるの。荷物の移動は、ミランダさんとディートリヒさんに頼んだわ」
「そんな、急がなくてもいいじゃん」
「……私も、色々したいことがあるのよ」
そういうと、マリアはカップを手に席を立つと、玄関へ歩いていった。ティニアも慌てて席を立つと、マリアを追いかけた。
「そんな遠くでもないし、ティニアにはすぐに会いに行ける距離だわ。ライン川を渡ってすぐだって言ったでしょう?」
「でも……」
「ああーそうね。明日の夕飯も、来てもいい?」
マリアは玄関のドアノブに手を掛けるとティニアへ振り返った。
ティニアはマリアを引き留めたいようだった。それが堪らなく嬉しく、またマリアの涙腺が緩んだ。
「もちろんだよ。毎日来てよ」
ティニアは無理に微笑もうとしたのが分かるほど、ぎこちない笑みを浮かべた。
「ああ、診療所にも花を届けることになったから、診療所でも会えるわ。孤児院でも!」
「うん……」
マリアはドアノブを回し、外へ出た。五月最後の夕暮れ時は、思っていたよりも澄んでいる。
「それじゃあ。また明日ね、ティニア。アルベルトも」
「……うん。また明日ね」
「あ、ああ……。気をつけてな」
振り返ることなく、マリアは親しんだシェアハウスを後にしたのだった――。




