⑬-2 帰路
大きめのカバンを持ったマリアは、退院したティニアと旧市街地を抜けてゆく。
中世へと誘うフレスコ画は、二人を日常へと戻すかのようだ。
足の怪我を負っていたティニアだったが、今は普通に歩行可能だ。リハビリのために、孤児院内を歩き回っていたという。
「ティニアの怪我した足、なんともなくなって良かったわ。気付いた時には傷跡もわからないほどに治っていたとか。そう言うところも、物理法則を超えているのかしら」
「ど、どうだろう。先生の腕じゃないかな」
「それもそうか。……あ、アルベルトだ」
エーニンガー通りに差し掛かった所で、長身の男が現れた。というより、待っていた様子だ。
アルベルトは相変わらず、ロングコートを羽織っていた。数か月前に比べれば、生地は薄い。
「ティニア、すまない。退院は午後だと聞いていたから、早めに伺ったんだが……」
「あーうん。ちょっとあって、すぐ出ることになったんだ。フレスコ画を眺めながらおしゃべりしてたら、遅くなっちゃった」
「そうか。あー、その……」
アルベルトは照れたように頭を掻くと、気まずそうにマリアへ目配せした。
「さすがに病み上がりだから、変なことしないでよね」
「へ、変なこと⁉ 俺は何もしないぞ」
「どうかしら。もう一度言うけど、本当に病み上がりなのよ」
「あ、ああ……」
「なによ。はっきりしないわね」
「と、とりあえず、ここは路上だから……。その話をするためにも、家まで行こう」
マリアとアルベルトが話している間、ティニアは何も語らなかった。少し照れた様子で、落ち着かない。
二人の会話が終わると、ティニアはスタスタと先んだって歩いていった。ティニアの背が、より一層小さく見えたのはマリアだけではなかった。
「荷物持つよ」
アルベルトはマリアの持ったカバンを、軽々と持ち上げた。
「あら、ありがとう」
「これは、絵か。全部捨てたのかと思った」
ファイルされた絵が、カバンの隙間から覗いている。
「うん。無造作にゴミ箱に入れちゃったから、適当に数枚持って帰ってきたわ」
「ありがとう。歩きながら、見させてもらうよ」
アルベルトは、ファイルを丁寧に捲っていく。マリアは先になって歩いていくティニアを見つめながらぼやいた。
「それにしても、何の絵なのかしらね」
「……ボクは、わからないんじゃなくて、忘れてしまったんだ」
マリアの言葉に、それまで他人のようにしていたティニアは、寂しそうな顔した。足元の小石を蹴ると、その小石に視線を送る。小石は転がり、道の端で止まった。
マリアは、アルベルトの持っている絵を指さした。
「特にこの三角形の崖というか、絶壁のやつ、なんだろう……」
この絶壁が気になるのには、理由がある。
マリアにとって、それは謎の風景だ。
何度も夢に出てくる、紫色が混じった空。
見覚えのないはずの空は、もはや見慣れた空へと変わっていた。
夢だけではない。
時々の頭痛と眩暈を伴って、脳裏に現れていた。
その中央にあるのが、天高く聳え立つ、三角形の絶壁。
絵の絶壁は、それによく似ていた。
だからこそ、気になるのだ。
何故、ティニアはこの風景を知っているのだろうか。
そして、何故忘れてしまったのか。
俯き、考え込み始めたマリアを横目で見つつ、アルベルトはその絵を数枚捲っていく。
「ドイツのどこかじゃないのか? ヴェルニゲローデの絵があったじゃないか」
「……ドイツではないと思う。なんとなくだけれど」
ティニアはそう言うと、溜息をついた。
アルベルトはまた数枚捲ると、一つの絵で手が止まった。
「これか? 三角形の絶壁って」
「そうだね」
「なんだ、エーディエグレスじゃないか」
ティニアは歩みを止め、呆然とアルベルトを見つめる。
白い鳥が、翼を広げては空を優雅に円を描くように羽ばたいていった。
しかし、マリアはティニアの反応に気付かないまま、首をかしげた。
「……え、エーデル、ワイス?」
「なんか神聖な、でもただの崖山だよ。空に届くくらい高くて」
アルベルトは先ほど言った言葉が出てこないようで、首をひねった。
「あれ、何だったか……。俺も忘れちまったな」
「ちょっと、しっかりしてよ」
「確か、周囲には深い森があって、人が入るともれなく迷うんだ。ドイツは山が多いから、それのどれかじゃなかったか?」
アルベルトも記憶を呼び起こそうと、首をひねった。肩にかけた鞄が大きく揺れる。
「そうなんだ。崖山っていうと、登山しにくい山なのね」
「……登山なんてしないよ」
随分と緩んだ、今にも泣いてしまいそうなティニアの声がエーニンガー通りを抜けでいった。
「それね、登山用の山じゃない、みたい。聞いた話だけれど」
マリアは、『誰から聞いた話なのか』という言葉を飲み込んだ。
何か知っているのではないのか。彼女の全てを忘れたわけでもないらしい態度に、首をかしげた。
単に言葉の意図が理解できなかった。
ティニアはちらちらと横目で二人を見ながら、歩き出した。
不意に空を見上げると、目を細めた。
マリアは彼女が心因性昏迷状態に陥っていないかを心配した。
ティニアは思いつめた表情を浮かべたまま、首を横に振った。
「……ボクは忘れちゃった」
ティニアが言葉を言い終わらぬうちに、住み慣れたシェアハウスに到着した。器用にカギを開けると、ティニアは二人へ振り返った。
「おかえり、マリア」
「ただいま、ティニア。それから。おかえり、ティニア」
マリアは微笑みながらティニアを抱き締めた。
「寂しかった。無事でよかった」
「うん」
ティニアは目を閉じるとマリアの背に腕を回し、朱色の美しい髪を撫でた。マリアはそのままティニアの胸へ顔を埋めるが、肩が小刻みに震えていた。
アルベルトは空を見つめた。
澄み切った青空は、どこか寂しそうにしていた――。




