⑪-7 いざない
レオンは病室の前で一礼すると、そのまま奥へ下がっていった。
アルベルトは個室の前まで行き、深く息を吐き出すと、ドアをノックした。
「はぁい」
気の抜けた返事が返ってくる。
安堵と共に、込み上げてくるのは愛おしさだ。
「俺だ。入っていいか」
「うん」
扉を開けると、そこには病棟とは思えない光景が広がっていた。スケッチブックが破かれ、そこら中に臥せっていたのだ。当の病人は元気にスケッチブックを手に、ベッドで胡坐をかいて絵を描き殴っている。
「な、何やって……」
「見ての通り、お絵描きだよ」
「お絵描きって……ああ、もう」
アルベルトはそのまま屈んで絵を拾い上げていった。部屋は彼女が描いたと思われる絵で溢れている。ティニアの普段通りの姿に、アルベルトは安堵すると同時に抱きしめたくなったが、なんとかそれを堪えた。
目頭が熱くなるのを感じ、それについてもなんとか堪える。
スケッチブックの破かれた紙には、動物や景色が書き殴られている。
「凄いな。全部、鉛筆だけでか」
「たまに描かないと、なまっちゃうんだよね」
「たまにって。こういう時くらい、寝てたらいいのに」
「フフン、ボクがおとなしく寝ているとでも?」
絵を描き殴りながら、目線だけ挙げたティニアはウインクした。アルベルトは拾い上げた絵を全て落としてしまう。
「え、なに」
「いや……」
キョトンとしているティニアに、アルベルトはヤレヤレとため息をつき、再び絵を拾い上げていった。
ティニアは何かに気付いたように首を傾げ、口を小さく開いた。そのままアルベルトへ声を掛けようと、スケッチブックから目を見上げた。しかし、真剣に絵を見ていたアルベルトが呟いたことで、彼女の問いかけは消滅する。
「これ、どっかで」
「え?」
ティニアがアルベルトの方へ身を乗り出したため、ベッドから落ちそうになった。
「危ない! 落ちるから、怪我が治ったからって無理な体勢を取らないでくれ」
「そっちが遠いんじゃん。これはドイツのヴェルニゲローデだよ」
「……ああ、ヴェルニゲローデか。懐かしいな」
「え?」
アルベルトはベッドの脇へ座ると、興味深そうに絵を指でなぞった。
ティニアは口を開けたまま、アルベルトを見つめていた。
「母の故郷なんだ」
「お母さまの?」
「母はドイツでメイドをやってたんだ」
アルベルトはそう言うと、再び絵を指でなぞった。ティニアはそれを見ながら、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「俺を身籠ったことに気付いて、すぐにイタリアへ渡って、俺を産んですぐに死んだ」
「え……」
顔を上げたティニアは、アルベルトを見上げた。
「……ドイツへ渡ったとき、唯一の形見であった絵葉書がここの、ヴェルニゲローデの写真だった」
「そうなんだ……」
アルベルトは懐かしそうに、絵を指した。ティニアは、その指を目で追った。
「ドイツへ渡った後、偶然だけれど、ここを拠点にしてたんだ。ヴェルニゲローデはどうしてか懐かしく感じてさ。母が持っていた絵葉書でしか見てないのに、可笑しいよな。その後はすぐにベルリンへ渡って、それきりだ……」
アルベルトの言葉は続かなかった。
戦場へ行き、全てを捨てて亡命した彼は、母の形見も持てなかったのだろうか。
「……ねえ、ヴェルニゲローデはどうだった?」
ティニアは前かがみになり、微笑んだ。アルベルトはその反応が嬉しかったのか、手に持った写真をティニアへ近づけた。
距離の近さに気付き、ティニアは視線を一瞬だけ部屋へ向けた。
「素晴らしかったよ。建物の作りが木造なんだが……って知ってるよな。そう描いているんだから」
アルベルトは視線をティニアへ向けた。ティニアは微笑みながら、話の続きを待っている。
視線を逸らした先に合った絵を拾い上げ、アルベルトは記憶に心を寄せた。
「他にも、こっちに噴水があっただろ、そうこの絵だ。銅像もあったな。銅は皆溶かされて、全部消え去ってるんだろうな」
「……うん」
「どうした?」
しょんぼりとしたティニアはスケッチブックを手放すと、アルベルトの持った絵を指でなぞった。
「僕ね、もうほとんど思い出せないんだ。ずっと昔、ここにいた気がするんだけどね」
「え、ヴェルニゲローデにか?」
「うん。思い出そうとして、書いてるんだ」
悲しそうに微笑む彼女は、いつものティニアとは違っていた。それでも、微笑むところの無邪気さは変わらない。
「今度、落ち着いたら行ったらいい。時間はこれから、いくらでもあるだろ? マリアや、アドニスなんかと旅行にでも行ってきたらどうだ」
「……孤児院の話、聞いたんだね」
ティニアは膝を抱えると顔を伏せた。屋根を叩く雨音が激しさを増している。
「……全員の里親が決まりそうなんだってな。良い事じゃないか」
「僕がこんなだから、孤児院も閉めちゃうって」
「皆わかってるよ。みんな知ってるから、お前が努力してたことも、全部」
「…………」
「どうしたんだよ、お前らしくない」
「君さ、僕を抱えて、走ってくれたんだってね」
「ああ。なんだそんなこと」
アルベルトは頬を指でかいた。
「ありがとう。優しいんだね」
ティニアは恥ずかしそうに微笑みながら、アルベルトを見上げた。自然を視線が合わさったが、アルベルトは目線を逸らした。
「い、いや。誰だってそうしたさ。お前は慕われている。俺がしなくても、親分がしたさ」
「それでも、君が抱きかかえてきてくれたって聞いてるよ」
アルベルトはティニアを見ずに、遠くを見つめた。
「お、親分は良い人だ。職人としての技術も高く、何だって豪快に笑って退けちまう。お前がいなきゃ、出会えなかったよ。ありがとうな」
改めてアルベルトはティニアを見つめたが、ティニアは更に微笑みながら顔を近づけた。一瞬ドキリとしたものの――ティニアの事だから――滅多なことはないだろう。アルベルトはなんとか冷静さを保たせた。
知ってか知らずか、ティニアはそのままの体勢で首をかしげた。
金髪の髪が、素肌に揺れる。
「親分のところで、大工の見習いをしているんだってね」
「あ、ああ。親分には良くしてもらっている。飯なんか、奥さんがいつも大盛りで寄こしてな。若いんだから頑張った分を食べてくれって」
「そうか。もう働いていたんだね」
「もう、軍とも関わりはない。……監視はしばらくあるかもしれないが」
雨音がぽつぽつに代わり、徐々に収まってくるものの、風が轟きを増した。窓はカタカタと音をたて、静まり返った病室に響いた。
ティニアは顔をあげることは無く、膝を胸へ抱き寄せながら言葉を吐き出した。
「ごめん」
「何で謝るんだ」
「……なんとなく」
ティニアは思いついたように、顔を思い切って上げると、アルベルトを見据えた。その目線に気付き、アルベルトはティニアを見つめ返した。
「住むところ、決まった? もうホテルじゃないんでしょう。マリアから聞いてるよ」
「いや、まだだ。今は親分さん家に邪魔してるよ」
「……あのさ」
「うん、どうした。改まって」
「えっと……。その……」
「……ああ、物件はミュラーさんに聞いてるよ」
「……笑わない?」
「どうしたんだ。笑わないさ」
雨宿りから耐えかね、飛び立つ鳥達の羽ばたきが音を増した。
遠くで教会の鐘が鳴り、人々が慌ただしく外へ出てくる。
いつの間にか、雨は上がっていた。




