⑪-2 転送
診療所でアドニスと別れたマリアは、帰路についた。
傘を片手に、足早に歩きなれた街並みを通り過ぎ、住み慣れた平屋のシェアハウスへとたどり着く。
不思議と、誰ともすれ違わなかった。
同居人の居ない平屋は薄暗く、広いように感じられた。
無造作に椅子に掛けてあったタオルで、濡れた髪を拭う。
数日、ティニアの居ない日々を過ごしたマリアは、彼女の有難みを実感していた。その時、トタン屋根に当たる雨音に、ポンッという音が入った。
「トタン屋根の、雨音の舌打ちだわ」
そのユーモラスな擬人化は、同居人ティニアの冗談の一つだ。
怪我を負い、手術をしたティニアには、再び止まってしまうという謎の現象が起きていた。
そして、出会った義姉レイスの存在。
それが、偶然であるとは思えなかった。
「シチリア島に行こう。イタリアまでなら、飛んでいけるわ」
イタリアにあるシチリア島。
個人的な理由で訪れたのは、気まぐれだったのかもしれない。
その過程で発見した、海底の研究施設。
あの施設には何かがある。
レイスのためにも、下調べは一人でやれるだけやっておきたかった。
その行為が、どんなに危険であるとしても。
「大丈夫。大丈夫よ、マリア。出来る。私は出来る……」
不思議なアルビノの少年の言葉が、脳裏によぎる。
ずっと心に残っていた言葉だ。
「為せば成る。言葉にしたり、口にすれば、成る。そういうもの」
――そして。
「奴らの狙いは、わたし……」
マリアはゆっくり、大きくと息を吐き出すと、再び大きく息を吸った。そして、息をゆっくりと吐き出した。
マリアの金色の瞳が、朱色く呼応する。
加えて青白い光が眩き、マリアを包み込んだ。
「セーフティ、解除。大丈夫よ、マリア。私に効いているおまじないは、今も絶大だわ」
意識を研ぎ澄まし、深く呼吸を繰り返した。
今回は、いつも日課でやっている偵察とは違う。
「――プロテクト解除」
マリアはその言葉を唱えた。足元に、淡く朱色の文様が浮かび上がり、それは朱色の光となって全身を包んだ。
「――サーチ。……イタリア上空に、ゲートを確認。ゲート、開放を指示」
淡かった光は、まるで炎のように輝く。
「直ちに我の命に従え。我、汝の地に降り立つ。許可を受諾せよ――」
この力があると知っていたら、レイスと共にアウローラから脱出出来たのだろうか。
もう少し早く、自らの力に気付いていれば。そう何度も思った。
戸惑う心を振り払い、マリアは言葉を唱え続けた。
「実体を基に、汝の地に降りたつ……。我が名はマリア」
髪の毛先、足元からゆっくりと朱色に染め上げ、半透明になった瞬間。マリアは亜空間へと足を踏み入れた。
「実体転送……!」
次の瞬間、マリアは永世中立国を離れた。体は宙を浮いており、足元にはイタリアのシチリア島と思しき島が見える。
浮遊出来る時間は僅かだ。
「ヴェール!」
光に包まれ、マリアの体は一瞬で周囲の風景に溶けた。
『ヴェール』は人の目を欺くことが出来るため、マリアの姿は周囲からは見えない。
マリアは島の上空から、ふわりと降り立った。
誰も、マリアの存在には気付いていない。
そのまま海面の上をまっすぐ移動すると、岩の島は直ぐに現れた。この間のサーチで見ていた場所は、ここに違いない。
雨が大きく降りだし、風が大きく靡く。
体力は消耗しており、マリアは膝をついた。
「ハァハァ……。さすがに、息切れしてきた……。慣れない事をやるもんじゃないわね」
不安から独り言が多くなり、自らの僅かな呼吸の音ですら、安堵に変わる。
試しに、足元に落ちていた石に触れてみた。冷たい石は安易に持ち上げられた。潮の香が鼻についてくる。
マリアは口元を緩ませた。
「ふ……。イタリアへの不法侵入、完了ってところかしら」
大きな雨粒は、容赦なくマリアを叩き付け、視界悪化していく。あまりゆっくりしている時間はない。帰りのエネルギーのことも考えなければならない。
「えーっと、海底へはどうやって行こうかな。あの時のコードを入力すれば……」
マリアはあの時と同じように、微弱な電波を受信すると、目を閉じた。瞼の中で、そのコードを打ち込む。すると、マリアは光に包まれた。そして、目を開けた瞬間、マリアは海底にある研究施設へと侵入した。
◇◇◇
青白い光に包まれた空間が、目の前には広がっていた。目が慣れるまで、マリアは周囲を警戒していた。
まるでアウローラの拠点のようなその空間は、コンクリート尽くめだった。
窓ガラスのない通路は薄暗く、足元にあるライトが不気味に光っている。
不可視化して入った時よりも、目の前の光景は洗練されている。やはり実体出来たのは正解だった。
施設は廃棄されてさほど時間が経過していないような空間だった。
サーチの結果、人の気配はない。
天井を中心に、黒く煤けた様な影があるだけだ。
「ッ…………!」
眩暈が視界を歪ませる。
力を使いすぎたようだ。
意識が朦朧とし、いつも頭痛と眩暈と共に浮かび上がる、紫がかった空が目の前に広がった。
それは、瞬きした一瞬の出来事で、吐き気と共に現実に押し戻された。
マリアは『ヴェール』を解き、実体の姿を露わした。
「う……。ふう……」
どっと疲れが込み上げ、重たい吐き気が胃の奥から込み上げてくる。
周囲を警戒するのであれば、『ヴェール』を身にまとっていた方が安全だろう。
しかし、息切れを感じた以上、そのまま力を使い続けるわけにはいかない。
マリアには、帰る力も残さなければならないからだ。
マリアは天井から床下までを眺めた。
青白い空間はどこまでも続いているかのようだった。
数歩進むと、少し広い部屋に出た。
部屋には、水道設備のある黒く広いテーブルがあるだけだった。
何かの実験部屋のようだ。
天井のライトは壊れており、床には蛍光灯と思しき破片が散らばっていた。
まるで戦いでもあったかのような惨状に、マリアは息を飲んだ。
不意に、背後に長身の人影を感知し、慌てて振り返った。熱源は探知できておらず、目の前の光景を疑いたくなるほどだ。
そんな筈はない。
マリアは目の前の光景を否定した。
「あんた、なんでここに……」
かつてマリアたちを襲撃し、アルビノの少年を守ろうと身を挺していた、眼帯の男。
隠れることも無く、男はそこに居た――。




