⑪-1 静かな病室
「どうして……、こんなところに……」
マリアは辛うじて言葉を発したものの、それは無意識に近い。
ここで何をして、何をしに来たのかを思い出すのに、しばしの時間を要した。
あれ程探し、求め欲したひと――。
レイスが、目の前にいる。
マリアは息を飲む。
ベッドのラベルには、「ティナ(治療の為、便宜上)」とあった。
寝姿はティニアに瓜二つだ。
ベッドのタグには、記憶障害、言語障害の為、意思疎通が困難であると記されている。
華奢な彼女は、最後に会ったときより痩せている。腕には点滴が繋がれているようだ。
胸が呼吸により、上下に揺れ動く。
――違う。
ティニアとは、違う。
その言葉が、マリアの心の中や頭を通り過ぎていく。
我に返りながら、マリアは込み上げた感情をこらえるために目を閉じた。熱を帯びた水滴は頬を伝い、顔を手で覆った。
アウローラの拠点で過ごした日々が、頭に浮かんでは消えていった。
拠点では、同じ時を過ごしていた、憧れのレイス。
油断から、彼女を負傷させてしまった自責の念。それだけではなく、一瞬でも彼女を疑ってしまった後悔。
今は生きてくれたという、それだけで十分だ。
レオン達は、彼女がレイスという名であること、アウローラの構成員であること、マリアと知り合いであることも知らないだろう。
事情を知り、匿っているようにも見受けられない。
ラベルにあるような障害が、事実なのかは不明だ。レイスが身分を偽るために、演技している可能性もある。もしも、本当に記憶がなく、言葉を交わせないのであれば、様々な問題が生じるだろう。
名前については、便宜上つけられたものだとしても、ティニアに似すぎた音なのは偶然だろうか。
それでも、探していたレイスの存在に安堵した。
マリアはティニアの病棟の方に目を向けた。病棟は静かであり、特に大きな騒ぎになっているとは思えなかった。
足の怪我で緊急手術を受けたティニアは、再び記憶の混濁という症状に見舞われていた。あのような状態が続くのであれば、マリアの身の上話を打ち明ける事は出来ないだろう。
当分先送りである。
それに。
入院しているティニア目的の見舞いなら、怪しまれずに診療所へ訪れることが出来る。
なんだかんだ理由をつけ、レイスと関わることも出来るかもしれない。
マリアは意識を外部へと移しながら、病室の窓を閉めた。
レイスは深い眠りについているようで、起きる気配はない。無防備な彼女を見るのは、マリアにとって初めての事だ。
今は彼女を起こし、一人で騒ぎ立てることが、良いことだとは思えなかった。
彼女の寝姿を横目に、マリアは名残惜しそうに病室のドアをゆっくりと閉めた。
◇◇◇
診療所の外玄関では、アドニスが屋根で雨宿りをしていた。穏やかな気候が、余計に不穏な空気を誘い込む。
マリアは動揺を気取られまいと、握る手に力を入れた。
「どうしました。中々出てこられないので」
「看護師さんの代わりに、窓を閉めていたのよ」
「なるほど。そうでしたか」
アドニスは少し視線を上へ向ける。大粒の雨が降り続く空には、鳥が忙しそうに通り過ぎていった。
マリアの変化に気付かなかったのか、アドニスは溜息をついた。
ティニアの事が心配なのだろう。アドニスはティニアを好いているのだから。
スイスへやってきてすぐの頃は、ティニアの保護者はアドニスだろうと、マリアは勝手に考えていた。
そもそも、マリアと知り合う以前からの知り合いである二人の間にどんなストーリーがあるのか、全く知らなかった。
ティニアとアドニスでは歳の差があるため、アドニスの向ける感情は親心のようにも見受けられる。だが、アドニスは本心を隠す必要がないように、ティニアへの想いをよく吐露していた。アルベルトが現れてからは露骨だ。
アドニスがティニアの保護者的存在であることに間違いはないだろうが、本人に話せば嫌がるだろう。
マリアがぼんやりと遠くを見つめていると、アドニスが口を開いた。
「ミランダ達なら、帰りましたよ」
「あ、うん……」
「週初めから、また宜しくと言っていました」
「分かったわ。メアリーさんにはお礼の挨拶をしなきゃね。あっ、でも。日曜日にはお店の片づけがあるだろうから……」
「マリア」
「な、何……?」
(もしかして、レイスの存在を気取られた?)
マリアが警戒すると、アドニスは真面目な表情でマリアを見つめた。息を飲み、アドニスを見つめ返す。
アドニスは細目を見開いた。
思えば、アドニスはティニアの味方だ。
何とか財団に所属し、リーダー的な立ち位置だとも聞いている。
もしここで、アドニスが敵になるようなことがあれば……。
「大切な話があるのでしょう」
「え……?」
背中で手を組んだアドニスはそう言うと、空を見上げた。
降り続いていた雨は、いつの間にか小雨に変っていた。
「今、聞きましょうか?」
「……あ、ああ! 覚えていてくれたのね」
(な、なんだ。そのことか……)
マリアは焦りと気取られぬよう、気を配った。アドニスは特に警戒している様子はなく、目を細めて微笑んだ。
「当然です。覚えていますよ。君が一番話したいのは私ではなく、ティニアやミランダだと言うこともわかっています」
「そんなことないわ。アドニスさんの事は、これでも信頼しているのよ」
「そうですか?」
「うん。だから、今はいいの。アドニスさんは今、ティニアの事で頭いっぱいでしょ? 私のことは大丈夫よ」
「……マリアの事も、心配しているのですよ」
アドニスは胸に下げてある十字架に触れた。本当に心配しているようだ。世話好きなのは、アドニスも同じだ。時に保護者のように、聖職者として諭してくれる。
「私だけではありません。ミランダも、ディートリヒも。そしてティニアも、貴女のことが大切なのです」
「…………」
アドニスの言葉は、素直に嬉しい。
そして、マリアがこれからやろうとしていることは、皆に心配をかけるようなことである。
それだけが、チクリと胸を刺した。
「ありがとう。アドニスさん。でも、大丈夫だから。それじゃあ、私はこれで……」
「……そうですか。わかりました」
アドニスはしばらくその場を動かず、マリアを黙って見送っていた。
アドニスと別れ、傘を差さないまま、マリアは旧市街の町を歩いていく。
小雨だった雨は、やがてまた大粒の雨となって町に降り注いでいる。
歩きなれたこの町の風景は、まるで故郷のようだ。
マリアが視線を上げると、建物に描かれたフレスコ画が目に入ってきた。
この町に来てから、どれほどの年月が経過しただろうか。
マリアの故郷は、アウローラの拠点だ。それ以外の場所を、故郷のように感じるのはおかしいことだろうか。
今レイスと再会したことは、運命なのかもしれない。
マリアの中の決意は揺らぐことがなく、燃え続けている。
まるで涙のように、濡れた髪から雫が頬を伝う。
マリアは、手に持っていた傘を開いた。
音に驚いた鳥たちが数羽、羽ばたいていった。
その音は、旧市街シュタイン・アム・ラインに響いていく。まるで、マリアを鉛のある現実へ誘うかのように――。




