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暁の芽吹 -レスティン・フェレスⅠ  作者: Ruri Lesewolf
Episode41「遅れたフーガ」
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㊶-1 とある魔女の住処

 土の匂い、獣の蠢く気配、そして天高く広がる青空。


 その森には、里とは違う空気が広がっていた。

 太陽を見るのは久しぶりな気がした。


 今、何日の何時なのか。

 今、立っている場所は安全なのか。

 曖昧さは、不安を募らせていくようだった——。


 東ドイツ、ハルツ山地の北東縁に位置するバレンシュテット。

 第二次世界大戦の終結から五年。

 前年に成立したドイツ民主共和国に属するこの町の南西、ゼルケ川沿いの深い森に、マリアは立っていた。


 この国では十月十五日に、初の人民議会選挙が行われようとしていたが、それはまた別の話。

 土地勘どころか、この国の事情にも疎いマリアにとっては、知る由もないことだった。


 後ろを振り向くと、そこには背の高い男が二人。アルベルトとラウルだ。

 ラウルは既に周囲の警戒に当たっており、眼帯で隠していない左眼はかちかちと動いていた。

 一方のアルベルトも、周囲を見渡した。警戒しているというより、本当に別の国へ降り立ったのかという驚きが、その表情から垣間見えた。


「熱源反応なし。一応サーチしたけれど、紛れもなくドイツのバレンシュテット近くのゼルケ川沿いよ。ほら、川の音も聞こえるでしょう?」


 マリアが説明したのは、転移したことに驚いていたアルベルトを安心させるためだった。アルベルトは言葉を飲み込んでいるのか、何の返答もなかった。


「警戒を怠るな、ラーレ」

「マリアよ」

「フン。ヴェルローラが名付けた、母を意味する名だぞ」

「そうだとしても、ラーレは気休めのコードネームだわ」


 ラーレはチューリップを指す。花に関するコードネームを気に入っていないわけではない。

 弱かった自分を捨て、新たに生きようとしたからだ。

 理由はよく分からなかったが、マリアは立ち止まったまま歩き出せなかった。


 何かが心に引っ掛かっていた。


 それは、アルビノの少年レンに「マリア」と呼ばれたことだ。呼ばれたことで、マリアは「マリア」という名であることを思い出した。

 そう、思い出したのだ。


 思い出したということは、「マリア」という名を知っていたことになる。

 何処でその名を聞いていたのだろう。

 それに、何故レンは「マリア」と呼んだのだろうか。


 今となっては、確認する術はないのかもしれない。

 マリアは再び歩き出した。


 立ち止まっていたマリアに対し、ぶつぶつと悪態をつきながら、ラウルも足を踏み出した。


 ぱきり。


 軽い音を立て、枝のようなものが折れた。

 その音で正気に戻ったのか、アルベルトはラウルとマリアの後についていった。


 知らない森では、ラウルを信用してついていくしかない。

 彼が敵であるとするならば、ここでマリアとアルベルトを殺すだろう。

 だが、不思議とラウルへの警戒心は湧かなかった。


「マリア」

「何? アルベルト」

「転移する前に、呪文のようなものを唱えていたが」

「ああ、うん。それがどうかした?」

「……いや、後で話すさ」


 アルベルトはそう言うと、早歩きでラウルへと追いついた。ラウルの横に並ぶアルベルトを、ラウルは視線だけで追った。


「何か?」

「この森、エーディエグレスの森に似ていないか?」

「……そうですね」

「ねえ、エーディエグレスの森って……? ああ、レスティン・フェレスの?」

「そうなんだ」

「へえ」


 会話は長続きしなかった。

 予想以上に、ラウルが周囲への警戒に集中していたからだ。


 川沿いを、三人は歩き続けていた。

 ラウルの『徒歩で行ける距離』は、『五分歩けば到着できる距離』ではなかった。既に三十分は経過しているだろう。


 アルベルトは時々マリアを気にするように振り返ったが、時間を気にしているようには見えなかった。ラウルはアルベルトにとって、信頼できるのかもしれない。

 折り重なる不安から、マリアは声を上げた。


「ねえ、まだ歩くの?」

「……もうすぐ結界に到着する」

「あそこか」


 アルベルトは徐に立ち止まった。歩みを止めたというよりも、足が上がらなかった。

 一歩、その先へ行くことが出来なかったのだ。


「あいつの魔力を感じる」

「やはりお分かりになるのですね。ここが結界の境界です」

「どうやって入るの?」


 ラウルは何もない空間へ手をかざした。


「……俺には、レンの眼があるから結界内に入れるんだ。少し穴をあけた。ここから入ってくれ」

「分かったわ」


 マリアは、何もない空間へ手を伸ばした。

 何か、透明な膜があるような感覚。その膜へと、足を踏み入れた。


 何かが、そこで途切れたような気がした。

 マリアは思い返した。セシュールの里に降り立った感覚と同じなのだと。


 目を閉じたまま、その膜を通り抜けた。長い髪が靡き、柔らかな風がマリアを出迎えた。

 目を開けたマリアの前には、屋根に苔の生えた小屋が建っていた。


 小屋は全て木製で、まるで妖精の住処のようだった。

 庭に広がる畑は荒れ果てていた。

 この場所だけ、時が止まっているのだろうか。

 

 マリアが振り返ると、そこには先ほど歩いてきた森が佇んでいた。


「成程。外からは見えないようになっているのね」


 納得しているマリアの横に、アルベルトが立った。


「それだけじゃない。人間は結界が近くなると、入れなくなる。無意識のうちに、近寄りがたくなるんだ」

「そうなのね」


 アルベルトは早口だった。


「こちらです」


 ラウルは小屋のドアを開けた。


 ぎいい。


 蝶番の錆びているような音が、静かな空間へと轟いた。


 部屋の中はこじんまりとしており、小さな台所に大きなテーブル、そして小さなベッドが一つだけあった。

 そのベッドに、彼女は眠っていた。


「レン……!」


 マリアは思わず声を上げ、ベッドへ駆け寄った。

 レンは微動だにせず、僅かな呼吸を繰り返しているのみだった。


 やつれた頬は、最後に会った時よりもさらに痩せ細っているように感じられた。


「ねえラウル、レンは——」


 マリアが振り返ると、ラウルはアルベルトを見つめていた。アルベルトの瞳は赤く光り、瞳と同じ色のオーラが体から発せられているように見えた。


「あ、アルベルト……?」

「……記憶が湧き出すように、蘇ってくるんだ。悪い、驚かせたな」


 アルベルトはゆっくり瞬きした。涙が出ていないだけで、彼は泣いているのかもしれない。

 アルベルトは、レンに近づこうとはしなかった。


 マリアはレンに向き直ると、彼女の手を取った。


 本当に眠っているだけのように見えた。

 彼女は今、どんな夢を見ているのだろうか。

 ティニアとしての夢だろうか。それとも——。


 淡い期待を胸に、マリアはその場に跪くと、目を閉じたのだった。

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