㊶-1 とある魔女の住処
土の匂い、獣の蠢く気配、そして天高く広がる青空。
その森には、里とは違う空気が広がっていた。
太陽を見るのは久しぶりな気がした。
今、何日の何時なのか。
今、立っている場所は安全なのか。
曖昧さは、不安を募らせていくようだった——。
東ドイツ、ハルツ山地の北東縁に位置するバレンシュテット。
第二次世界大戦の終結から五年。
前年に成立したドイツ民主共和国に属するこの町の南西、ゼルケ川沿いの深い森に、マリアは立っていた。
この国では十月十五日に、初の人民議会選挙が行われようとしていたが、それはまた別の話。
土地勘どころか、この国の事情にも疎いマリアにとっては、知る由もないことだった。
後ろを振り向くと、そこには背の高い男が二人。アルベルトとラウルだ。
ラウルは既に周囲の警戒に当たっており、眼帯で隠していない左眼はかちかちと動いていた。
一方のアルベルトも、周囲を見渡した。警戒しているというより、本当に別の国へ降り立ったのかという驚きが、その表情から垣間見えた。
「熱源反応なし。一応サーチしたけれど、紛れもなくドイツのバレンシュテット近くのゼルケ川沿いよ。ほら、川の音も聞こえるでしょう?」
マリアが説明したのは、転移したことに驚いていたアルベルトを安心させるためだった。アルベルトは言葉を飲み込んでいるのか、何の返答もなかった。
「警戒を怠るな、ラーレ」
「マリアよ」
「フン。ヴェルローラが名付けた、母を意味する名だぞ」
「そうだとしても、ラーレは気休めのコードネームだわ」
ラーレはチューリップを指す。花に関するコードネームを気に入っていないわけではない。
弱かった自分を捨て、新たに生きようとしたからだ。
理由はよく分からなかったが、マリアは立ち止まったまま歩き出せなかった。
何かが心に引っ掛かっていた。
それは、アルビノの少年レンに「マリア」と呼ばれたことだ。呼ばれたことで、マリアは「マリア」という名であることを思い出した。
そう、思い出したのだ。
思い出したということは、「マリア」という名を知っていたことになる。
何処でその名を聞いていたのだろう。
それに、何故レンは「マリア」と呼んだのだろうか。
今となっては、確認する術はないのかもしれない。
マリアは再び歩き出した。
立ち止まっていたマリアに対し、ぶつぶつと悪態をつきながら、ラウルも足を踏み出した。
ぱきり。
軽い音を立て、枝のようなものが折れた。
その音で正気に戻ったのか、アルベルトはラウルとマリアの後についていった。
知らない森では、ラウルを信用してついていくしかない。
彼が敵であるとするならば、ここでマリアとアルベルトを殺すだろう。
だが、不思議とラウルへの警戒心は湧かなかった。
「マリア」
「何? アルベルト」
「転移する前に、呪文のようなものを唱えていたが」
「ああ、うん。それがどうかした?」
「……いや、後で話すさ」
アルベルトはそう言うと、早歩きでラウルへと追いついた。ラウルの横に並ぶアルベルトを、ラウルは視線だけで追った。
「何か?」
「この森、エーディエグレスの森に似ていないか?」
「……そうですね」
「ねえ、エーディエグレスの森って……? ああ、レスティン・フェレスの?」
「そうなんだ」
「へえ」
会話は長続きしなかった。
予想以上に、ラウルが周囲への警戒に集中していたからだ。
川沿いを、三人は歩き続けていた。
ラウルの『徒歩で行ける距離』は、『五分歩けば到着できる距離』ではなかった。既に三十分は経過しているだろう。
アルベルトは時々マリアを気にするように振り返ったが、時間を気にしているようには見えなかった。ラウルはアルベルトにとって、信頼できるのかもしれない。
折り重なる不安から、マリアは声を上げた。
「ねえ、まだ歩くの?」
「……もうすぐ結界に到着する」
「あそこか」
アルベルトは徐に立ち止まった。歩みを止めたというよりも、足が上がらなかった。
一歩、その先へ行くことが出来なかったのだ。
「あいつの魔力を感じる」
「やはりお分かりになるのですね。ここが結界の境界です」
「どうやって入るの?」
ラウルは何もない空間へ手をかざした。
「……俺には、レンの眼があるから結界内に入れるんだ。少し穴をあけた。ここから入ってくれ」
「分かったわ」
マリアは、何もない空間へ手を伸ばした。
何か、透明な膜があるような感覚。その膜へと、足を踏み入れた。
何かが、そこで途切れたような気がした。
マリアは思い返した。セシュールの里に降り立った感覚と同じなのだと。
目を閉じたまま、その膜を通り抜けた。長い髪が靡き、柔らかな風がマリアを出迎えた。
目を開けたマリアの前には、屋根に苔の生えた小屋が建っていた。
小屋は全て木製で、まるで妖精の住処のようだった。
庭に広がる畑は荒れ果てていた。
この場所だけ、時が止まっているのだろうか。
マリアが振り返ると、そこには先ほど歩いてきた森が佇んでいた。
「成程。外からは見えないようになっているのね」
納得しているマリアの横に、アルベルトが立った。
「それだけじゃない。人間は結界が近くなると、入れなくなる。無意識のうちに、近寄りがたくなるんだ」
「そうなのね」
アルベルトは早口だった。
「こちらです」
ラウルは小屋のドアを開けた。
ぎいい。
蝶番の錆びているような音が、静かな空間へと轟いた。
部屋の中はこじんまりとしており、小さな台所に大きなテーブル、そして小さなベッドが一つだけあった。
そのベッドに、彼女は眠っていた。
「レン……!」
マリアは思わず声を上げ、ベッドへ駆け寄った。
レンは微動だにせず、僅かな呼吸を繰り返しているのみだった。
やつれた頬は、最後に会った時よりもさらに痩せ細っているように感じられた。
「ねえラウル、レンは——」
マリアが振り返ると、ラウルはアルベルトを見つめていた。アルベルトの瞳は赤く光り、瞳と同じ色のオーラが体から発せられているように見えた。
「あ、アルベルト……?」
「……記憶が湧き出すように、蘇ってくるんだ。悪い、驚かせたな」
アルベルトはゆっくり瞬きした。涙が出ていないだけで、彼は泣いているのかもしれない。
アルベルトは、レンに近づこうとはしなかった。
マリアはレンに向き直ると、彼女の手を取った。
本当に眠っているだけのように見えた。
彼女は今、どんな夢を見ているのだろうか。
ティニアとしての夢だろうか。それとも——。
淡い期待を胸に、マリアはその場に跪くと、目を閉じたのだった。




