㉟-3 紫の空の記憶
アルベルトの目の前には、空と草原が広がっていた。
空は紫色のような、靄の掛かったような色をしており、真っ白な雲が心地よさそうに空を泳いでいた。
足元には青々とした草花が咲き乱れていた。
花を踏まないように気を配りながら、アルベルトは空へ視線を戻した。
「ああ、またこれか……」
アルベルトは思わず言葉を漏らした。
左側へ目をやると、それほど遠くない場所に、広い山脈が広がっていた。
この世のものとは思えぬ空。
見たこともない草花が広がる草原。
そして聳え立つ山脈。
「ということは、振り返るとあるのは……」
振り返ったアルベルトの目の前には、崖山が天高く聳え立っていた。
「ああ、これなんだ」
アルベルトはその崖山に見覚えがあった。何度も見ていた光景だからではない。
彼女の書いたらくがきにあった崖山だからだ。
彼女は言っていた。
登山をする山ではない、と——。
当然である。あの山はただの山ではないからだ。
その意味を、アルベルトは知っている。
何故だろうか。
この風景を見る度に、涙が溢れそうになる。
心をぎゅっと掴まれるような気持ちになる。
懐かしさ。尊さ。そして——。
「……アルベルト!」
マリアの声がした。しかし、その名を口にした瞬間に、何もかも分からなくなった。
「マリア……? 誰だったか……」
その人物に、覚えはない。
心と頭にぽっかりと穴が開いたように、何も覚えてはいない。
「お兄ちゃん!」
少女の訴えるような声が聞こえてきた。
少女の声にも、聞き覚えはない。
その時、アルベルトは気付いた。
自分が何であるのか、思い出せない。
名前も、素性も、声も、姿も。
存在しているのは空虚だけだ。
「何か……。思い出せることは何かないか——」
アルベルトは目を閉じた。
彼女は微笑んでいた。
彼女は怒っていた。
笑っていた。
お道化ていた。
抱きしめてはすり抜け、音もなく虚空を撫でた。
「君は——」
アルベルトが呟いた刹那だった。
真っ黒な闇が、空を覆った。
空には大きな月が浮かんでいるだけだった。
——違う。
月が黒いのだ。
黒い月が、アルベルトを見下ろしていた——。
「アルベルト!」
マリアの言葉に、アルベルトは我に返った。
目に入ったのは、空では無かった。
それは、スイスとドイツの国境沿いにあるボーデン湖の水面が映し出されているという。
その天井の下、心配そうにこちらを覗き込んでいるのは、マリアとフリージア。そして、ヴァルクとコルネリアという名の少年だった。
「良かった、お兄ちゃん!」
フリージアはアルベルトを抱きしめた。
呆然としているアルベルトは、フリージアを抱きしめ返せずにいた。
マリアとフリージアの支えで、アルベルトは体を起こした。
「俺は……一体…………」
「苦しむように倒れたのよ。心配したわ……」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
安堵するマリアと、涙を溢れさせたフリージアを前に、アルベルトは先程の光景を思い返していた。
「見えたんだ」
「……え?」
「紫のインクが混ざったような青空と、草原。そして聳え立つ山脈と、崖山が——」
ブツブツと言い始めたアルベルトを前に、マリアは息を飲んだ。
その光景には、覚えがある。
「ど、どうして……。その光景を、あんたが知っているの?」
「? マリアも知っているのか?」
「だって……。それは——」
以前ティナが話していた世界の話だ。
その世界の名は——。
「……アルベルトさんと言いましたね」
静かに見守っていたヴァルクの言葉は、呟くような小さい声だった。コルネリアはその後ろで、身体を震わせていた。
「……レスティン・フェレス」
「……?」
「その世界の名を、レスティン・フェレスというのですよ」
マリアは目を見開いた。
「どうして、ヴァルクがそれを知っているの——?」
マリアは身体を震わせていた。
フリージアは心配そうに、アルベルトにしがみ付いた。
パズルのピースが揃うように、手繰り寄せられていく運命が、そこには在った。




