第4話「6年ぶりの帰宅」
第3話まで読んでいただき、ありがとうございます。
次の土曜日。
ハヤテは一人、岐阜駅から名古屋へ向かいます。
そこは「俺」にとって、ほんの数日前まで暮らしていた街。
しかし世界にとっては――もう6年が経った街。
事故に遭った場所。
妻と歩いた道。
そして、二人で暮らしていた家。
死んだはずの男が、知らない少年の姿で故郷へ帰ります。
果たして、そこに妻はいるのでしょうか。
第4話「六年ぶりの帰宅」
よろしくお願いします。
土曜日。
午前8時過ぎ。
俺は一人、JR岐阜駅のホームに立っていた。
休日ということもあって、ホームには学生や家族連れの姿が目立つ。
イヤホンをした高校生。
大きなバッグを持った親子。
スマートフォンを眺める会社員。
どこにでもある朝の光景だ。
俺はポケットからスマートフォンを取り出した。
乗換案内には、
『名古屋』
の文字。
「…………」
たった三文字。
それだけなのに、妙に胸がざわついた。
名古屋。
俺が暮らしていた街。
働いていた街。
妻と暮らしていた街。
そして――
俺が死んだ街。
『まもなく――』
ホームにアナウンスが流れる。
やがて電車が滑り込んできた。
扉が開く。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟き、俺は電車へ乗り込んだ。
◇
窓側の席に座った。
電車が岐阜駅を離れていく。
流れていく景色を、俺はぼんやり眺めていた。
不思議な気分だった。
距離だけなら、大した旅じゃない。
電車に乗ってしまえば、名古屋なんてすぐそこだ。
それなのに。
俺には――
6年という時間を遡っているように感じられた。
「…………」
胸に手を当てる。
ドクン。
ドクン。
心臓は規則正しく動いている。
数日前。
いや、正確には6年前。
俺は確かに死んだ。
車に撥ねられた。
身体が宙に浮いて。
道路へ叩きつけられて。
息ができなくなって。
周囲の声が遠くなって。
最後に思い浮かべたのは、
妻だった。
そして次に目を開けたら...
俺は天野ハヤテになっていた。
「……意味わかんねえよな」
小さく笑った。
窓に映っているのは、知らない少年の顔。
何度見ても慣れない。
17歳。
俺が32歳だった頃より、
15年も若い。
妻がこの顔を見ても、俺だとは分からない。
当たり前だ。
もし今日、妻を見つけられたとして。
俺は何と言えばいい?
「俺だよ」
なんて言ったところで、ただの頭のおかしい高校生だ。
それでも。
会いたかった。
話せなくてもいい。
遠くからでもいい。
元気に生きていることが分かれば。
それだけで――
本当に満足できるのだろうか。
「…………」
答えは出なかった。
◇
電車が名古屋駅へ近づいていく。
見覚えのある建物が増えてくる。
その瞬間から、心臓の鼓動が少しずつ速くなった。
『まもなく、名古屋――』
アナウンス。
俺は立ち上がった。
扉の前に立つ。
電車が減速する。
そして、扉が開いた。
人の波が一斉に動き出す。
俺もその中へ混ざった。
改札を抜ける。
そして――
足を止めた。
「……名古屋だ」
6年ぶりの名古屋。
でも俺にとっては、ほんの数日前まで歩いていた街。
人が多い。
相変わらずだ。
急ぎ足の会社員。
待ち合わせをする若者。
観光客。
キャリーケース。
何も変わっていないように見える。
なのに。
少し歩くたび、知らない店がある。
「あれ……?」
俺は立ち止まった。
「ここ、前なんだったっけ」
記憶にある景色と、少し違う。
新しい店。
変わった看板。
見覚えのない建物。
小さな違い。
だけどその一つ一つが、俺に6年という時間を突きつけてくる。
俺だけが...
俺だけが6年前の名古屋を覚えている。
この街はもう、俺がいなくても普通に動いている。
当たり前なのに。
少しだけ、寂しかった。
◇
俺は名古屋駅から少し離れたバス停に向かった。
バス停に到着してしばらくして。
バスが到着し、乗り込む。
そしてかつて暮らしていた街へ向かう。
15分ほど走ったところで、目的地付近のバス停に着いた。
ここだ。
バスを降りる。
見覚えがある。
この道。
この交差点。
あのコンビニ。
「……まだあるじゃん」
少し嬉しくなった。
妻と夜中にアイスを買いに来たことがある。
俺が新作を買って、妻はいつも同じものを選んでいた。
『またそれ?』
『好きなんだからいいでしょ』
『たまには違うの食べてみれば?』
『じゃあ一口ちょうだい』
『結局俺の食うんじゃん』
くだらない会話。
あの頃は、そんな時間がずっと続くと思っていた。
「…………」
俺は歩いた。
少し先に、夫婦で何度か行った飲食店があったはずだ。
だが。
「あれ?」
足が止まる。
違う店になっていた。
看板も。
外観も。
全部変わっている。
「……なくなったのか」
たったそれだけ。
なのに。
胸に穴が空いたような気がした。
6年。
そうだ。
6年なんだ。
俺にとっては、ついこの間なのに。
この街にとっては十分すぎるほど長い時間だった。
◇
そして、俺の足が止まった。
ただの普通の交差点。
「…………」
身体が動かない。
信号。
歩道。
ガードレール。
記憶とは少し違っている。
でも、間違えるはずがない。
俺が――
死んだ場所。
「……ここだ」
2020年9月16日。
残業を終えた夜。
俺はここを歩いていた。
信号は青だった。
そして。
ブレーキ音。
ヘッドライト。
誰かの悲鳴。
「っ……」
頭が痛い。
突然、記憶が鮮明になる。
車。
避けられない。
身体が浮く。
空。
地面。
そして。
冷たい。
アスファルトが、冷たい。
『大丈夫ですか!?』
『救急車!』
『誰か救急車呼んで!』
たくさんの声が聞こえる。
「……やめろ」
頭を押さえる。
でも記憶が止まらない。
息ができない。
身体が動かない。
誰かが俺の名前を聞いている。
そして。
最後に浮かんだ――
妻の後ろ姿。
朝。
キッチン。
俺は妻の横を通り過ぎた。
何も言わなかった。
妻も、何も言わなかった。
あれが...
最後だった。
「…………」
気づけば。
頬を何かが流れていた。
俺は慌てて拭った。
「何泣いてんだよ……」
通行人が、高校生の俺を横目に通り過ぎていく。
誰も知らない。
6年前、ここで死んだ男が。
今、自分が死んだ場所に立っているなんて。
「…………」
俺は交差点に向かって、小さく頭を下げた。
理由は...自分でも分からなかった。
そして。
再び歩き始めた。
目的地は、もう近い。
◇
住宅街。
曲がり角。
公園。
「懐かしい……」
妻と歩いた道。
仕事帰り、何度も通った道。
そして。
角を曲がった瞬間。
見えた。
俺の家。
「…………」
足が止まった。
あった。
建物は、ほとんど変わっていない。
「……帰ってきた」
自然と、言葉が出た。
早足になる。
そして、すぐに走り出した。
もしかしたら。
まだいるかもしれない。
妻が。
あの家に。
6年前と同じように。
玄関を開けたら、妻がいるかもしれない。
「…………!」
家の前まで来る。
息を整える。
表札を見る。
その瞬間。
俺の身体が固まった。
知らない名字。
「……え?」
もう一度見る。
間違いない。
俺の名字じゃない。
妻の名前でもない。
「…………」
そんな。
でも。
引っ越しただけかもしれない。
当たり前だ。
6年も経っている。
俺は恐る恐る、インターホンへ手を伸ばした。
指が震える。
押す。
――ピンポーン。
心臓が、うるさい。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
数秒。
長い。
そして。
『はい』
女性の声。
知らない声だった。
「…………」
『どちら様ですか?』
「あ……」
声が出ない。
『はい?』
「あの……すみません」
何言ってんだ俺。
「ちょっと、聞きたいことがあって」
『……?』
しばらくして、玄関が開いた。
出てきたのは、40代くらいの女性だった。
当然、妻じゃない。
「どうしたの?」
「あの……」
俺は表札を見る。
そして家を見る。
俺の家。
...だった場所。
「ここって……いつから住んでますか?」
女性が怪訝そうな顔をした。
当然だ。
突然高校生が来て、こんな質問をしている。
「えっと……5年くらい前かな」
5年...俺が死んだ翌年。
「その前に住んでた人って……知ってます?」
「前の人?」
「夫婦だったと思うんです」
女性は少し考えた。
「ああ……」
心臓が跳ねる。
「不動産屋さんから少し聞いたことあるかな」
「本当ですか?」
思わず前へ出る。
女性が少し驚いた。
「す、すみません」
「ううん」
「その……奥さん、どうなったか知りませんか?」
「奥さん?」
「はい」
「君、知り合い?」
「…………」
答えられない。
知り合い。
そんな言葉じゃない。
俺の妻だ。
でも。
今の俺には、それを言う資格すらない。
「……昔、お世話になった人なんです」
嘘をついた。
女性は少し考える。
「詳しくは知らないけど……」
「はい」
「旦那さんが亡くなったんでしょ?」
時間が...止まった。
「…………」
俺のことだ。
第三者の口から、自分の死を聞く。
こんなに奇妙な感覚があるのか。
「事故だったって」
「……はい」
「それで奥さん、一人になっちゃったみたいで」
胸が痛い。
俺は、何も言えなかった。
「そのあと、しばらくはここに住んでたらしいんだけど」
「…………」
「1年もしないうちに家を手放したって聞いたかな」
「1年……」
俺が死んでから、1年も経たず。
妻はこの家を出た。
「どこに行ったかは……」
「ごめんね。そこまでは分からない」
「そう……ですか」
期待していた何かが、静かに崩れた。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
「役に立てなくてごめんね」
「いえ」
女性が家へ戻る。
玄関が閉まる。
俺は一人、その場に残った。
「…………」
目の前には、俺たちが夫婦が暮らしていた家。
でも。
もう俺の家じゃない。
窓の向こうには、知らない家族の生活がある。
妻はいない。
俺の物もない。
俺たちが暮らした痕跡も、もうほとんど残っていないのだろう。
「……そっか」
やっと、分かった。
俺は帰ってきたんじゃない。
帰ってくる場所なんて、もうなかった。
「…………」
門の前に立ったまま、俺は家を見上げた。
妻と喧嘩した。
笑った。
飯を食った。
テレビを見た。
くだらない話をした。
そして最後には、まともに会話もしなくなった。
もし。
あの朝に戻れるなら。
何でもいい。
本当に、たった一言でいい。
「行ってきます」
そう言いたかった。
それだけだった。
◇
帰ろうとしたとき。
「……あの」
後ろから声がした。
振り返る。
さっきの女性が、玄関から顔を出していた。
「はい?」
「そういえば」
俺は足を止める。
「前の奥さんのことで、一つだけ思い出したんだけど」
「……!」
「何ですか?」
「引っ越すとき、不動産屋さんが話してたことだけどね」
女性は記憶を辿るように言った。
「確か――」
俺は息を止める。
「この辺から、そんなに遠くへは行ってないって」
「……え?」
「名古屋市内だったと思う」
胸が、大きく鳴った。
「名古屋……市内?」
「うん。どこかまでは知らないけど」
妻は。
まだ――
この街にいるかもしれない。
「ありがとうございます!」
俺は深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます!」
女性は驚きながらも、
「見つかるといいね」
と言ってくれた。
俺は家を離れた。
さっきまで重かった足が、少しだけ軽い。
手掛かりと呼ぶには、あまりにも小さい。
名古屋市内。
それだけ。
人口200万人を超える街で、たった一人の女性を探す。
雲を掴むような話だ。
それでも、ゼロじゃない。
妻は、この街のどこかにいるかもしれない。
「……待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく、俺は呟いた。
「絶対、見つけるから」
そのとき。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
「ん?」
画面を見る。
メッセージ。
送り主は――
藤田ミナミ。
『ハヤテ、今日どこにいるの?』
「…………」
俺はしばらく、その文字を見つめた。
6年前に残してきた妻。
今、俺を心配して連絡してくる幼馴染。
過去と現在。
二つの人生が、少しずつ俺の中で重なり始めていた。
そして俺は、まだ知らなかった。
妻を探すということが、
ただ「会いたい人を探す」だけでは終わらないことを。
6年前。
俺が死んだあの日。
同じ時間に、天野ハヤテの人生にも――
取り返しのつかない出来事が起きていたことを。
第4話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
6年ぶりに戻った名古屋。
俺にとっては、ほんの数日前まで存在していたはずの日常。
しかし、よく行った店はなくなり、街並みは変わり、かつての自宅には知らない家族が暮らしていました。
そして初めて第三者から聞かされた、
「旦那さんが亡くなった」
という、自分自身の死。
妻は夫を亡くしたあと1年もしないうちに家を離れた。
それでも、一つだけ手掛かりが残りました。
――妻は今も、名古屋市内にいるかもしれない。
ようやく始まった妻探し。
しかしその帰り道、ハヤテのスマートフォンに届いた一通のメッセージ。
『ハヤテ、今日どこにいるの?』
送り主は、藤田ミナミ。
6年前に残してきた妻と、今のハヤテを想う幼馴染。
「俺」の過去と「ハヤテ」の現在が、少しずつ交わり始めます。
そしてもう一つ。
6年前、「俺」が交通事故で死亡したその日。
天野ハヤテにも一体何が起きていたのでしょうか。
次回、第5話。
名古屋から岐阜へ戻ったハヤテを待っていたのは――。
次話も読んでいただけたら嬉しいです。




