第8話
灰に沈んだマカツの城跡。生き残った数十人の民と傷ついた兵たちは、そこを仮の野営地として身を寄せ合っていた。
彼らの目に、荒野の向こうから歩いてくる二つの影が映った。
一人は、身の丈ほどの巨大な鉄楯を背負ったニニギ。
もう一人は――かつての彼らの王、イワレビコだった。
「殿……! イワレビコ様!」
オオクメが涙ながらに駆け寄ろうとした。だが、十歩の距離まで近づいたところで、老臣の足は凍りついたように止まった。
イワレビコの姿が、あまりにも異様だったからだ。
彼の左腕は、肘のあたりまで黒い鱗のようなもので覆われ、人間の皮膚の質感は完全に失われていた。そして背中に負った漆黒の剣。鞘を持たないその刃からは、陽光を食い破るような黒い陽炎が立ち上っている。
近づくだけで肌を刺すような冷気と、胃の腑を握りつぶされるような生理的な嫌悪感。
民たちは、生還した王に対して歓声を上げるどころか、怯えて後退りした。
「殿……そのお姿は、一体……」
「神の牙を折るために、少しばかり泥を被っただけだ」
イワレビコの声は、ひどく低く、かつて民を慈しんだ感情の波は綺麗に消え失せていた。
沈黙する民衆の前に、ニニギが進み出た。
彼は背負っていた大きな麻袋を無造作に地面へ放り投げた。
ゴトリ、と鈍い音がして、袋の口から「それ」が転がり出た。
白い兜。そして、その中で完全に灰化し、崩れかけている神兵の頭部だった。
「ひっ……!」
誰かが短い悲鳴を上げた。
それは、千年の間、人間がただひれ伏し、理不尽に命を奪われることしかできなかった「絶対者」の残骸だった。
「俺たちは、神を殺した」
ニニギの声が、野営地に響き渡った。
「もう、一方的に焼かれるだけの時間は終わった。イワレビコが、理不尽な天の首を落とす刃を手に入れたんだ」
どよめきが起こる。
だが、それは歓喜ではなかった。圧倒的な「恐怖」だ。
神を殺す。それは世界のルールを根底から破壊する行為だ。天の報復を想像し、民の顔からみるみる血の気が引いていく。
「狂っている……」
オオクメが震える唇で呟き、その場に崩れ落ちた。
「神を殺すなど……天が我々を、マカツという国そのものを許すはずがない……! 殿、あなたはマカツにトドメを刺したのですぞ!」
イワレビコは、オオクメを冷徹な黄金色の左目で見下ろした。
「許しなど乞うてはいない。俺が、天を許さないと決めたのだ」
彼は一歩踏み出した。その足元の灰が、黒剣の毒気に当てられ、不吉な黒色に変色して散る。
「戦えない者は去れ。俺はもう、お前たちを守る優しい王ではない。神を殺すための、ただの刃だ。ついてくるなら、地獄の底まで付き合ってもらう」
突き放すような言葉。
だが、その声の奥底に、自分たちを戦いに巻き込むまいとする彼なりの不器用な「決別」があることを、ニニギだけは気づいていた。
その時だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
大気が、物理的な悲鳴を上げた。
全員が空を見上げる。
抜けるような青空に、一本の巨大な亀裂が走った。
いや、一本ではない。二本、三本。まるで空という巨大なガラス玉が、内側からの圧力に耐えかねて砕け散ろうとしているかのように。
「なんだ、あれは……」
ニニギが大楯を握り直す。
これまでの「供物」を求める際の亀裂とは、規模が全く違った。
空全体がひび割れ、そこから漏れ出す光は、白を通り越して「痛覚」を伴うほどの苛烈な輝きを放っている。
一騎の神兵が死んだ。
その事実が天に伝わり、神々の「怒り」が物理的な質量となって、このマカツの空を押し潰そうとしていた。
「来るぞ」
イワレビコが背のフツノミタマを引き抜いた。
剣が歓喜するように黒い明滅を繰り返す。それに呼応するように、彼の左腕の黒い鱗が、さらに数ミリ、肩に向かって浸食を進めた。
「十二騎の斥候ではない。……本隊だ。人間という不浄を、この大地ごと削り取りに来る」
空の亀裂が、限界まで押し広げられる。
そこから現れたのは、もはや騎馬の群れではなかった。
空を覆い尽くすほどの、白金に輝く巨大な「戦船」の船首。そして、その甲板に整列する、無数の白い影。
「全員、伏せろォォォッ!!」
ニニギの咆哮と同時に、神軍本隊からの最初の一撃――無数の光の矢が、豪雨となってマカツの地に降り注いだ。
逃げ惑う民たち。
しかし、イワレビコはただ一人、逃げなかった。
黒剣を上段に構え、その黄金の左目で、圧倒的な天の暴力を見据える。
「来い、神共。ここからが……俺たちの戦争だ」




