第67話
イワレビコの「黒銀の左腕」が、スクナビコナの大ハンマーを軋ませ、空間ごと握り潰そうとしたその時だった。
――ヒュルリュリュリュリュリュ……ッ!!!
湿った出雲の霧を切り裂き、高音の「鳴き」が戦場に響き渡った。それは悲鳴でも咆哮でもない。風を切り、天を震わせる意思の音――**鏑矢**だ。
「……、……ッ! この音は……」
イワレビコが顔を上げた瞬間、空を覆っていた濃紺の霧を突き破り、数千の矢が豪雨のように降り注いだ。それは人間軍を殺すための雨ではない。スクナビコナとイワレビコの間に正確な「境界線」を引くための、白銀の障壁だった。
「……、……。ちっ、……余計な真似を。あと少しで、この『神殺し』の首を……」
巨大化したスクナビコナが、不快そうに舌を打ちながら、振り下ろしていたハンマーを止めた。彼の視線の先――遥か彼方の尾根に、一人の男が立っていた。
巨躯を真っ黒な甲冑で包み、身の丈ほどもある大弓を静かに下ろした男。
出雲の「武」の極致、オオクニヌシが愛した闘神――タケミナカタ。
「……スクナビコナよ。……深追いするな。……その王の左腕、……今の貴公では受け止めきれん」
地響きのような低い声が、山々に反響する。
タケミナカタは、イワレビコを一度だけ射貫くような眼差しで見つめると、再び一筋の鏑矢を天へと放った。
「……、……。全軍、引け。……出雲の闇は、……ここからが本番だ」
その合図と共に、周囲を囲んでいた「八十神」の気配と、うごめく「妖軍」の影が、潮が引くように霧の中へと消えていく。巨大化していたスクナビコナも、【打出の小槌】の光を収束させ、再び小さな姿へと戻り、影の中に溶け込んだ。
「……、……。待て、……逃げるのか……ッ!」
イワレビコが踏み出そうとするが、左腕の小手から走る強烈な「拒絶」の激痛が、彼の足を引き止めた。アメノヌボコの欠片は、イワレビコの肉体から膨大な精神力を喰らい続けている。
「……殿、追うな! ……罠だ、……あの男の気配……尋常じゃねえ……」
ニニギが駆け寄り、肩で荒い息を吐きながらイワレビコを制した。
霧が晴れた後には、結晶化した大地と、静寂だけが残されていた。
「……、……。タケミナカタ……か。……高天原の武神たちとは、……血の匂いが違うな」
イワレビコは、疼く左腕を右腕で抑え込み、遠ざかる黒い影を睨み据えた。
神殺しの軍勢は、出雲という巨大な「胃袋」の中に、ようやく最初の一歩を踏み入れたに過ぎなかった。




