第64話
因幡の白兎が案内する道は、道ではなかった。植物が互いに絡み合い、地面は黒く粘り気のある泥濘と化して、一歩進むたびに兵士たちの体力を吸い取っていく。
「……、……。……嫌な空気だ。……湿気が、……肌にまとわりついて離れねえ」
ニニギが、サクヤを守りながら眉をひそめる。彼の大楯も、出雲の湿った空気に触れて僅かに錆び始めていた。
「……殿。……霧が、……出てきました。……ただの霧ではありません。……何かが、……混じっている」
先鋒のツチグモが、影の中から声を潜めて警告した。
突如として、周囲を濃紺の霧が包み込んだ。その霧には、甘く、しかし臓物を腐らせるような不気味な香りが混じっていた。
「……、……。……はははッ! なんだぁ、この霧は! ……面白れえじゃねえかッ!!」
クマソタケルが棍棒を振り回すが、霧は晴れるどころか、さらに濃くなっていく。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
「うわああああッ!! て、敵だッ!! 横から、……神兵が襲ってきたぞッ!!」
「馬鹿野郎ッ!! そっちは磐井の部隊だッ!! 貴様、……何を視ているッ!!」
マカツ軍の中で、同士討ちが始まった。
霧を吸い込んだ兵士たちの瞳が、どす黒く濁っている。彼らの視界には、隣にいる戦友が、かつて自分たちを蹂躙した高天原の神兵や、飢えた妖怪に見えているのだ。
「……、……ッ! スイゼイ、……幻術を解けッ!!」
「……無駄だ、イワレビコ。……これは術ではない。……この土地そのものが放つ、……『瘴気』だ。……俺の鈴では、……払い切れん……ッ!!」
スイゼイが血の混じった唾を吐き捨てる。彼女の心眼も、この濃密な悪意の前では曇り始めていた。
「……、……。……あーあ、……せっかくの綺麗な空気が、……泥の匂いで台無しだね」
霧の中から、鈴を転がすような、しかし背筋が凍るほど冷徹な声が響いた。
――ガサッ。
イワレビコの目の前、一本の巨大なしめ縄の上に、その男は座っていた。
身の丈は、人間の子供ほどもない。だが、その背中には、毒々しい極彩色の羽が生え、その瞳は全ての生命を嘲笑うかのように歪んでいた。
出雲の国津神、スクナビコナ。
「……君が、高天原の神を殺したっていう『神殺しの王』? ……ふーん、……もっと、……骨のある奴かと思ってたけど」
スクナビコナが、小さな掌から一振りの粉末を撒き散らした。
――神権・【掌中の迷宮】。
イワレビコの視界が、一瞬で歪んだ。
周囲の木々が巨大な壁となり、地面が天井となり、重力の方向がバラバラに引き裂かれる。彼自身が、巨大な掌の上に置かれた「蟻」になったような、圧倒的な無力感。
「……、……ッ! が、は……ッ!!」
重力が、イワレビコの肉体を内側から押し潰す。
黄金の瞳が光を失い、彼は幻覚の中で、自らの肉体が泥へと還っていく恐怖に襲われた。
「殿ッ!! しっかりしろッ!! ……ちくしょう、……俺の盾じゃ、……この霧は防げねえッ!!」
「……、……。……白兎、……スクナビコナの本体は……どこだ……」
ニニギの後方で、スイゼイが白兎に問いかけた。
「……、……。……上だ。……あのしめ縄の上、……一番小さな、……影の中だ……!」
白兎が、震える声で指し示した。
視力を失ったスイゼイが、鈴を鳴らし、スクナビコナの「生命の拍動」を捉えた。
「……ツチグモッ!! 中央、しめ縄の影ッ!! ……殺せッ!!」
「……、……。……承知」
ツチグモが、影から影へと転移し、スクナビコナの死角へと迫った。黒曜石の斧が、小さな神の喉笛を、音もなく切り裂こうとした――。




