第6話
不帰の森。
そこは、光さえも木々の呪縛に囚われ、地表に届くことを許されない拒絶の地だった。
イワレビコたちは、その深淵を這うように進んでいた。
追ってくる「神犬」の遠吠えは止んだが、代わりに森そのものが自分たちを消化しようとしているような、重苦しい圧迫感が一行を包んでいる。
「殿、その『破片』……やはり、捨てたほうがよろしいのでは」
背後からオオクメが、怯えた声を出した。
イワレビコの手の中には、数日前に泥の中から掘り出した「黒い欠片」があった。それは時折、脈打つように熱を持ち、あるいは氷のように冷たくなり、イワレビコの精神をじりじりと削り続けている。
だが、イワレビコはそれを離さなかった。これが、あの神の眷属を屠った唯一の事実だからだ。
「……黙って歩け。導かれている気がするんだ。この『毒』にな」
森の最深部。そこには、地図に記されていない「空洞」があった。
かつては神殿だったのか、あるいは巨大な墓所だったのか。崩れ落ちた石柱の隙間に、赤黒い苔が這い、中央には一本の、朽ち果てた剣が突き立っていた。
それは、剣と呼ぶにはあまりに無惨な鉄の塊だった。
刃は不規則に欠け、全身が煤けたような漆黒に覆われている。しかし、イワレビコが近づくにつれ、彼の手の中の欠片が、これまでにないほど激しく共鳴を始めた。
「待て。何かがいる」
ニニギが低い声で警告し、大楯を構える。
石柱の影から、ゆっくりと「それ」が現れた。
神兵ではない。かといって、獣でもない。
かつて人間であった名残を留めながら、全身がこの森と同じ黒い樹皮のようなもので覆われた「異形」。それは、かつて神に挑み、敗れ、この地に辿り着いた者たちの亡霊だった。
『……殺したいか』
亡霊が、掠れた声で問うた。
それは耳に届く音ではなく、脳髄に直接響く、腐った泥のような響きだった。
『天を憎み、神を呪い、その身が泥に沈むまで、血を流し続ける覚悟はあるか』
イワレビコは、亡霊を睨み据えた。
右肩の傷が、神兵に刻まれた屈辱の痕が、燃えるように熱い。
「今更だ。俺の魂など、とっくにあの朝に焼き尽くされている」
亡霊が、ゆっくりと道を空けた。
イワレビコは躊躇なく、中央の黒い剣へと歩み寄る。
『その剣の名は【フツノミタマ】。神を断つための牙。だが、知れ。神を殺す剣を振るう者は、もはや神が愛した世界の住人ではいられぬ。貴様の時間は止まり、心は闇に食われ、愛する者たちの温もりさえ、二度と感じられぬ氷の塊となるだろう』
「……上等だ」
イワレビコは、剣の柄を握った。
その瞬間、凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。
「が、あああああああッ!!」
血管に煮え滾る鉛を流し込まれたような激痛。
目、耳、鼻。あらゆる穴から血が吹き出す。
彼の視界から、色が消えた。
ニニギの呼ぶ声も、オオクメの悲鳴も、遠くの波音のように意味を成さない。
漆黒の剣身から、数千年の「怨念」が流れ込んでくる。
神によって奪われた命。神によって消された文明。神によって汚された誇り。
それらすべてが、イワレビコの身体を器として、一つに溶け合っていく。
バキ、という音がした。
イワレビコの左腕が、不自然な黒い色に変色し、その皮膚を硬い鱗のようなものが覆い始める。
「神殺しの代償」――それは、使用者自身が人間ならざるモノへと変質していく呪いだった。
「殿……! その手を離してください!」
オオクメが駆け寄ろうとするが、剣から放たれる圧倒的な負の気圧に弾き飛ばされる。
イワレビコは、血の涙を流しながら、ゆっくりと剣を引き抜いた。
ズ、ズズ……。
石座から抜けたその剣は、抜身の刃であるにも関わらず、周囲の光を吸い込み、完全な「影」としてそこにあった。
剣を抜いた瞬間、森を支配していた神犬たちの気配が一掃された。
圧倒的な殺意。神という理に対する、地上の総意。
「……終わったぞ。オオクメ」
イワレビコが振り返る。
その左目は、かつての王の慈悲を失い、冷酷な獣のような黄金色に輝いていた。
彼が一歩踏み出すたびに、足元の草花が枯れ、黒く変色していく。
「これで、奴らの首が届く場所まで降りてくる」
ニニギは、イワレビコのその変貌を、息を呑んで見つめていた。
救世主ではない。
自分たちが手に入れたのは、世界を滅ぼしかねない、猛毒の「牙」だった。
「……イワレビコ。お前、本当にそれで行くんだな」
「これしかないんだ、ニニギ」
イワレビコは、黒く染まった自分の左手を見つめ、自嘲気味に笑った。
もはや、自分の心臓が打つ鼓動さえ、どこか他人のもののようだった。
温もりはもういらない。
この冷たさだけが、神を殺すための唯一の武器だ。
不帰の森に、かつてないほど不吉な「静寂」が戻った。
王は死んだ。
そこには、一振りの黒い剣と、それを振るうための「怪物」が立っていた。




