第5話
朝が来るのが、これほど恐ろしかったことはない。
イワレビコは瓦礫の山に腰を下ろしていた。夜明け前の、藍色と灰色が混ざり合う薄暗い空の下。かつて村の象徴だった広場には、今や「形」を留めるものは何もない。
折れた柱。焦げた布の端切れ。粉々に砕けた水甕。
それだけがある。人の声はない。家畜の鳴き声もない。ただ、燻り続ける死の煙が、風が変わるたびにイワレビコの頬をなで、肺の奥を焦げた臭いで満たした。
マカツ西村。人口三百四十二人。
昨夜、神軍の討伐隊がこの地を「清め」に現れた。
始まりは、昨日の夕刻だった。
斥候が血相を変えて城に飛び込んできた時、イワレビコはただ黙々と武具の手入れをしていた。神軍の動向を読み、策を練り、四日間一睡もしていなかったが、手だけは動かしていた。止まれば、考えてしまうからだ。考えると、二十日前に死んだ者たちの、あの光の中に消えていった顔が浮かぶからだ。
「……西村に、神軍が」
斥候の声は裏返り、膝は激しく震えていた。
「数は」
「五十……いや、それ以上。百は超えているかと」
イワレビコは、砥石に当てていた刀を置いた。
百。先月の戦いで倒したのは、わずか十二騎だ。その十二を仕留めるために、こちらは七十人近い精鋭を失った。百を相手に、今の残存兵力で正面からぶつかれば、待っているのは全滅の二文字だ。計算するまでもなかった。
「西村に伝令を。即刻、森へ逃げろと……」
「既に送りましたが……」
斥候が絶望に顔を歪め、口を濁した。
「言え」
「神軍の方が……先に着いておりました」
イワレビコは、音もなく立ち上がった。
駆けつけた時、西村は既に「終わって」いた。
丘の上から見た時、最初、空が異様に赤いのは夕焼けのせいだと思った。だが違った。村全体が、巨大な松明のように燃え上がっていたのだ。神軍の騎馬隊が村の外周を鉄の環のように囲み、逃げ出そうとする者を容赦なく中央へ追い返していた。
追い返すだけではない。踏んでいた。六本足の馬の蹄が、逃げ惑う赤子を、親を、何の躊躇もなく肉の塊へと変えていた。
「突入する」
イワレビコが剣の柄に手をかけた瞬間、隣にいたニニギがその腕を万力のような力で掴んだ。
「離せ」
「待てと言っている」
ニニギの声は低く、地這うような響きだった。怒っているのではない。溢れ出しそうな叫びを、喉元で必死に抑え込んでいる声だ。
「今突っ込んで、何人救える。言ってみろ」
イワレビコは、言葉を失った。
「あれだけの数に夜戦で突撃し、俺たちが全滅してみろ。残された村は誰が守る。城にいる民はどうなる。……お前が今ここで死んだら、この戦いはその瞬間に『詰み』なんだよ」
わかっていた。血の出るほどわかっていた。
だからこそ、内臓が煮えくり返るほど自分を呪った。
「正しい判断」というものが、これほどまでに醜く、憎たらしいものだとは知らなかった。
イワレビコは動けなかった。
丘の上、暗闇に紛れ、村が灰になるのをただ見守っていた。悲鳴が炎の爆ぜる音にかき消され、空に昇っていくのを、拳を血が滲むほど握りしめて眺めていた。
朝になり、神軍は去った。
彼らにとって、それは戦いではなく「作業」に過ぎなかった。用が済めば、ただ消える。
村に入ると、生存者はわずか十七人だった。
三百四十二人のうち、十七人。子供が六人、女が八人、老人が三人。
男は一人もいなかった。男は全員、盾になろうとして殺されたか、あるいは「供物」として亀裂の向こうへ消えた。
十七人は、広場の隅に寄り添い、石のように固まっていた。誰も泣いていなかった。泣くための水分さえ失ったのか、あるいはあまりの衝撃に心が壊れたのか。
一人の子供が、ふらりとイワレビコの前に歩み寄った。
七歳か、八歳か。顔中が煤で汚れ、服の袖が焼けて肌に張り付いている。その子が、イワレビコを――国の王を――射抜くような眼差しで見つめて言った。
「おとうさんは、どこへ行ったの?」
イワレビコは、その場に膝をついた。
「…………」
答えられなかった。
王だった。神を殺すと豪語した、反逆者だった。だが、目の前の小さな問い一ひとつに、彼は沈黙を突き通すことしかできなかった。
子供はしばらくイワレビコを見つめていたが、やがて興味を失ったように視線を外し、炭になった自宅の跡へと戻っていった。
村の外れでは、兵たちが死体を並べていた。
指示など誰も出していない。だが皆、黙々と灰の中から骸を掘り出し、土の上に並べていた。一人ひとりの顔の向きを揃え、崩れた体躯に布をかけ、手を胸の上で重ねる。
イワレビコも、その列に加わった。
重かった。魂の抜けた人間の体は、これほどまでに重いのかと驚くほどに。
百二十三体目を運び終えた時、彼の動きが止まった。
ゴトシロヌシ。この村を治めていた、誠実な村長だ。去年の収穫祭、酒に酔って「殿、うちの娘を嫁にどうです」と冗談を言っていた男。
今は腹を大きく裂かれ、閉じぬ目で白すぎる空を見上げていた。
イワレビコは震える指先で、その瞼を閉じた。鉄の味が口の中に広がった。
昼過ぎ、ニニギが隣に立った。
二人は並んで、土の上に整然と並べられた「敗北の証」を見ていた。
「次は、どうする」
ニニギが訊いた。責める響きはない。ただ、現実を直視するための問いだ。
「わからん。……正直に言う。今は、何も見えん」
イワレビコは吐き捨てた。
「幾多の時間を費やして、このざまだ。村を一つ失い、百二十三人を死なせた。我らが傷つけた神兵は、たった一柱もいない。奴らは飽きれば去り、俺たちのことなど歯牙にもかけていない。……これが、戦争か」
「そうだな。戦ですらない。ただの害虫駆除だ」
「なぜお前は、そんなに平然としていられる」
イワレビコがニニギを睨むと、ニニギは少しの間を置いて答えた。
「平然としているわけじゃない。……ただ、お前ほど正直になれるほど、俺は強くないだけだ」
イワレビコは、初めてニニギの目を真正面から見た。
赤かった。泣き腫らしたのか、不眠のせいか。だがその奥には、消えない熾火のような光があった。
「勝てないかもしれない、というのは事実だろう。だがな、ここで俺たちが膝をつけば、この百二十三人はただの『無駄死に』になる。お前が神を殺すと言ったから、俺はここにいる。繋がってるんだよ、死んだ奴らの意志も、生き残った俺たちの明日も」
ニニギはイワレビコの肩を一度、強く叩いた。
「俺は、お前が立ち上がるまで待つ。それだけだ」
夕方。イワレビコは一人で村の境界まで歩いた。
野原の始まりに、一本の巨木があった。雷に打たれたのか、幹は半分黒焦げになり、無残に裂けている。だが、その死んだような木から、鮮やかな緑の葉が芽吹いていた。
イワレビコは、その木の前に立った。
負けた。また負けた。丘の上で、正しい判断をして、民が焼かれるのを眺めていただけだった。
正しかったことが、死ぬほど屈辱だった。
「……うあああああッ!」
拳を、焦げた幹に叩きつけた。
一度、二度、三度。皮が裂け、拳が血に染まっても止めなかった。
痛みなど、胸の奥で荒れ狂う怒りに比べれば微風に等しい。悔しさでも、悲しみでもない。それらが混ざり合い、発酵し、神という理への純粋な「殺意」へと昇華した何かが、彼の中で脈動していた。
やがて、拳が止まった。
荒い息を吐きながら、彼は額を木にあてた。焦げた樹皮の匂い。
目を閉じれば、あの子供の顔が浮かぶ。
『おとうさんは、どこへ行ったの』
答えはない。だが、いつか答えなければならない。
言葉ではなく、神の首という「結果」をもって。
イワレビコは、目を開けた。
夕日が、地平線を真っ赤に染めていた。今度は火災の赤ではない。明日を連れてくるための、本物の夕日だ。
彼は深く、長く息を吐き出した。
折れてはいなかった。これほどの地獄を見せられ、無力さを突きつけられても、腹の底の芯だけは、鋼のように冷たく、熱く残っていた。
神を、殺す。
声には出さない。だが、その誓いは既に彼の血肉となり、骨の髄まで染み渡っていた。
まだ、一歩も引いてはいない。




