第54話
山頂に吹く風は、風ではなかった。それは、大気を焼き尽くすアマテラスの「吐息」そのものだ。
標高が上がるにつれ、アスクレーピオスの緑の煙も薄まり、イワレビコの皮膚は再び赤黒く焼け始めていた。右手の槍【天の沼矛】は、熱を帯びすぎて白銀に発光し、握りしめる右手の掌からは、肉が焼ける嫌な音が絶え間なく響いている。
「……、……。……ここまで……来たぞ……、……アマテラス」
目の前に広がるのは、雲海ではない。
天を覆う巨大な「黄金の鏡面」。太陽神アマテラスが展開した、地上を焼くためのレンズであり、神域への入り口だ。その中心、最も輝く一点に、神軍の軍師オモイカネの影が、巨大な幾何学模様となって浮かび上がっていた。
『――愚かな、イワレビコ王。ここから先は「物理の領域」ではない。……貴公が踏み出す一歩ごとに、太陽の重力が貴公の細胞を、魂を、一兆倍に圧縮して押し潰す』
「……、……。……やってみろ。……俺の義手には、……一万の死に損ないの執念が……詰まってる」
イワレビコが一歩踏み出した。
――ズゥゥゥゥゥンッ!!
山頂の岩盤が、彼の足跡の形に深く沈み込み、砕け散った。
オモイカネの言う通りだ。太陽に近づくにつれ、重力法則が狂い始めている。普通の人間の骨なら、既に粉々になって泥に還っているはずの重圧。
「……、……っ! が、は……ッ!!」
イワレビコの肺から空気が搾り出される。
視界が歪む。太陽の熱と重圧によって、光さえも湾曲しているのだ。
「……視えるか、……オモイカネ。……光が曲がっているんじゃない。……俺の怒りが、……世界を歪ませているんだ」
イワレビコは、黒い義手の左腕を「天」へと突き出した。
義手の隙間から漏れ出すのは、もはや黄金の蒸気ではない。太陽の熱を強引に吸収し、真っ黒な「虚無」へと変換された、超高密度の重力塊だ。
――深淵出力・限界突破・【太陽喰らい(サン・イーター)】!!
イワレビコの義手が、周囲の熱と光を、掃除機のように吸い込み始めた。
吸い込まれたエネルギーは義手の内部で圧縮され、漆黒の「疑似ブラックホール」を形成する。
「……アマテラス。……お前が……光の主なら……」
イワレビコが、槍をその黒い渦の中に突き入れた。
「……俺は、……光さえも逃がさない……『底なしの闇』だ。……その喉元まで、……俺の手を届かせてやる」
重圧と重圧の衝突。
山頂の空間が、ガラスが割れるような音を立てて剥離し始めた。
その時、黄金の鏡面の奥から、これまでとは比較にならないほど巨大な「指先」が、イワレビコを押し潰すために降りてきた。




