第49話
海水が、全てを飲み込んでいた。
北の関門を埋め尽くしたワタツミの「死の檻」の中で、ニニギは折れた盾を杖代わりに、辛うじて膝をつかずにいた。脇腹の傷からは、今も海神の呪いが注ぎ込まれ、彼の意識を闇へと引き摺り込もうとしている。
「……、……。……まだ……だ……。……まだ、俺は……」
「無意味だ、ニニギ。貴様の『盾』が守ろうとしているのは、この無価値な泥の地か? それとも、己の矮小な自尊心か?」
ワタツミが、四つの腕を天に掲げた。
すると、渦巻く海水の中から、一つの「水の球体」が浮上してきた。その中に閉じ込められていたのは、人間軍の補給部隊と共に北へ向かっていたはずの少女――**木花咲耶**だった。
「……な、……さ、……サクヤ……!?」
ニニギの血の気が、一気に引いた。
幼馴染。共にマカツの野を駆け、イワレビコを追いかけ、いつか来る平和を信じていた、彼の「守るべき理由」そのもの。
「ニニギ……! 逃げて……! お願い、私のことはいいから……っ!!」
水の膜越しに、サクヤの悲鳴が響く。だが、彼女が動くたびに球体の水圧が上がり、その華奢な身体を容赦なく締め付けていく。
「……ふむ。この『花』が散るのが先か、貴様の心が折れるのが先か。……試してみよう」
ワタツミの指先が動き、サクヤを包む水球に、鋭利な「氷の針」が向けられた。
「や、やめろッ!! ……ワタツミッ!! 相手は俺だッ!! サクヤに手を出すなあああッ!!」
ニニギが、砕けた足で大地を蹴った。
もはや理屈ではない。右腕が折れ、内臓が潰れていようとも、彼はただの「男」として、愛する者を救うために突進した。
「……愚かだな。感情という重りは、死を早めるだけだ」
ワタツミが冷酷に腕を振り下ろした。
サクヤを貫こうとする、数千の水の針。
ニニギの視界が、絶望で白く染まる。
だが。
――ゴォォォォォォォォォォッ!!
その瞬間、北の関門を埋め尽くしていた海水が、何者かの「意志」によって一瞬で割れた。
十戒のように二つに裂けた海流の中を、一条の「黒い影」が駆け抜ける。
――深淵出力・反転・【干潮】!!
サクヤを包んでいた水球が、内側から爆発するように霧散した。
地面に落ちそうになる彼女の身体を、黒い義手の腕が優しく、しかし鋼のように力強く受け止める。
「……、……。……遅くなったな、ニニギ」
砂塵の中から現れたのは、全身から真っ黒な「海の血」を蒸気として噴き出させる男。
カムヤマトイワレビコ。
彼の右手に握られた【天の沼矛】は、既にワタツミの喉元を、重力のプレッシャーで完全にロックしていた。
「……と、……殿……ッ」
ニニギの目に、初めて涙が溢れた。
「……、……。……サクヤを連れて、後ろへ行け。……あとの『重さ』は、全部俺が引き受ける」
イワレビコの灰色の左目が、黄金色を通り越して、暗い「深淵の黒」へと変色していた。
「ワタツミ。……俺の血の中に、お前の理が流れているなら……」
イワレビコが槍を一回転させ、大地に突き立てた。
「……その支配権、俺がまるごと『奪い取って』やる」
王と海神。血のルーツを巡る、最終決戦の幕が上がった。




