第42話
その日の朝、マカツの海岸線から「音」が消えた。
寄せては返す波の音が止まり、海面は鏡のように滑らかに、そして深淵のような漆黒に染まっていた。
「……、……。……来る。……重い……、……空気が、海水に変わっていく」
イワレビコは、黒い義手で自らの胸元を押さえた。
義手の中の「海の血」が、かつてないほど激しく沸騰し、彼の鼓動を無理やり「外側のリズム」に同調させようとしている。
「殿! 水平線を見ろ! ……ありゃあ、霧じゃねえッ!!」
ニニギが指差した先。
漆黒の海を割って、天を衝くほどの巨大な「三叉槍」が三本、立ち並んで現れた。
一人は、四つの腕を持ち、全身を濡れた黒鱗に包んだ東方の海神、ワタツミ。
もう一人は、白銀の髭を蓄え、怒れる嵐をその身に纏った西方の海皇、ポセイドン。
二柱の海皇が並び立つだけで、地上の酸素は失われ、肺の中に塩水が溜まっていくような錯覚に襲われる。
「……掃討の先陣を務める。……理に背く小魚どもに、静かなる死を」
海面を滑るように進み出たのは、先鋒ニギハヤヒ。
彼の背後に浮かぶ十種神宝の円盤は、潮風を吸い込んで青白く発光していた。
そしてその隣には、半人半魚の異形にして、巨大な法螺貝を構えた神の落とし子、トリトーンが控えている。
――ブォォォォォォォォンッ!!
トリトーンが奏でる貝の音は、物理的な破壊音だった。
衝撃波が海面を割り、沿岸の砦の石垣を一瞬で粉砕する。
「……、……ッ! 総員、盾を構えるな! 衝撃を逃がせ! 押しつぶされるぞ!!」
イワレビコが叫ぶが、その声さえも立ち込める霧に吸い込まれていく。
霧の中から現れたのは、三人の美しい、しかし瞳に慈悲を一切持たぬ女神たち――宗像三女神。
彼女たちが舞うたびに、海水の糸が空中に紡がれ、人間軍の退路を音もなく断ち切っていく。
「逃げ場はないわ、不浄の王。……この海は、今日から貴方たちの墓標になるの」
「……、……。……ポセイドンにワタツミ……、……。……天は、本気で俺たちを『溺死』させるつもりか」
イワレビコは、新しく打ち直した黒い槍を握り直した。
一万の軍勢。対するは、世界を呑み込む二つの海。
絶望的な戦力差。
だが、イワレビコの黄金の瞳は、押し寄せる津波のその「底」にある一点を見据えていた。




