第40話
空の扇が動きを止め、魔力の糸がピタリと静止した。
日没の赤い光の中で、イワレビコが自らの喉元に糸を押し当て、血が滴り落ちる。その静かな自害の構えは、完璧な軍師オモイカネの計算を、一時的に凍りつかせていた。
「……ほう。……己の命をチップに、天と交渉するか。……虫ケラの分際で、小賢しい真似を」
静寂を破ったのは、オモイカネの声ではなかった。
地響きと共に、瓦礫の山を掻き分けて、巨神タヂカラオが姿を現した。胸元には、かつてイワレビコが穿った黒い穴が痛々しく残っている。だが、その三つの瞳には、敗北の屈辱と、それを雪ごうとする狂気的な殺意が宿っていた。
「タヂカラオ……。お前は……まだ……」
「オモイカネの計算など知るかッ!! 俺は天の武神! ……貴様を供物にする前に、我が拳でその傲慢な魂を粉砕せねば、気が済まぬわッ!!」
タヂカラオが腰を落とし、右拳を深く引いた。
ただの構えではない。周囲の空気が、その巨大な拳の引力に吸い込まれ、一瞬で村全体の気圧が急上昇する。
「……、……ッ! スイゼイ、ニニギ、下がれェ!!」
イワレビコが叫ぶ。
タヂカラオが、渾身の正拳突きを放った。
――ドォォォォォォォォンッ!!!
衝撃波が爆発した。
音速を超えた拳が、空気を物理的な障壁へと変え、イワレビコの全身へと叩きつけられる。
義手の左腕が、右半身が、糸に切り刻まれた傷口から悲鳴を上げる。骨が軋み、臓物が潰れる感覚。イワレビコの肉体は、まるで見えない巨人に殴り飛ばされたかのように、空中を数十メートル吹き飛んだ。
「がはっ……、あ……」
民家の壁をいくつも突き破り、イワレビコは砂塵の中に叩きつけられた。
視界が真っ赤に染まる。全身の感覚がない。
タヂカラオは、その破壊の余波で村の半分を更地にしながら、一歩、また一歩と迫ってくる。
「……終わりだ、不浄の王。……その細い槍と共に、泥の中に沈め」
タヂカラオが、トドメの巨足を振り上げる。
「…………、……」
砂塵の中で、イワレビコは、ゆっくりと上半身を起こした。
左腕はもはや動かない。右足も折れている。
だが、彼の右手には、まだ一本の槍が握られていた。
主の血を啜り、周囲の怨念を吸い込んだ**【天の沼矛】**。穂先は失われているが、その残骸には、これまでにないほど深く、黒い、深淵の重圧が宿っていた。
「……オモイカネ。……お前は、……この瞬間を、計算に入れていたか?」
イワレビコが、灰色の瞳で天を見上げた。
彼は、折れた右足を軸に、残った全身の力を、右腕一本へと集中させる。
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「……俺の『海の血』が……天の光を……喰らい尽くす、この瞬間を……ッ!!」
――深淵出力・極大・【万有引力・天衝】!!
イワレビコが、槍を投げつけた。
それは槍投げではない。自らの命、一万の呪い、そしてこの地の重力そのものを、一本の「楔」として放った、因果の逆転劇。
タヂカラオの振り上げた巨足が、槍から放たれる圧倒的な引力によって、空中でピタリと停止する。
タヂカラオは驚愕に目を見開いた。その視線の先。
折れた鉄の棒が、光の速度を超えて、自らの胸元――あの「真っ黒な穴」へと迫っていた。
「……馬鹿な、この……重さは……ッ!」
――ズゥゥゥゥゥンッ!!
槍は、タヂカラオの黄金の鎧を、強靭な筋肉を、そしてその奥にある神の核心――心臓を、音もなく貫通した。
静寂。
タヂカラオの三つの目から、光が失われていく。
彼は何かを言おうと口を開いたが、言葉の代わりに、黄金色の血が津波のように溢れ出した。
巨大な質量が、大地へと崩れ落ちる。
――ドォォォォォォォォンッ!!
神の死を告げる、地響き。
空に浮かぶ扇が、粉々に砕け散り、魔力の糸が、夕闇の中に霧散していく。
砂塵の中で、イワレビコは、槍を失った右手を天に向けて掲げたまま、仰向けに倒れ込んだ。
視界が白濁していく。
だが、彼の耳には、確かに聞こえていた。
神の蹂躙が止まり、生き残った民たちが、奇跡のような「生の音」を取り戻す、その瞬間が。
神殺しの誕生。
第一の山場は、片腕の王の、命を賭けた一突きによって、歴史に刻まれた。




