第38話
陽が沈み始める。
茜色の光が結界の幾何学模様を不気味に反射し、村を包む膜は琥珀色から刺すような赤へと色を変えていた。
村人たちは依然として静止したままだ。だが、膜の表面を走る数式の速度が、日没の刻限に向けて確実に加速している。
「……残り、半刻(一時間)か」
ニニギが拳を握りしめ、自らの膝を叩く。盾を構えることさえ許されない無力感が、戦士の心を削っていた。
「……、……。……スイゼイ、視えたか」
イワレビコは、結界の前に座したまま動かない。彼の黒い義手は、膜から漏れ出す「天の論理」を拒絶し、カチ、カチと時計の秒針のような異音を立てていた。
「……ああ、……耳が、腐りそうだ」
スイゼイが、顔中の穴という穴から血を流しながら、銀の鈴を砂の上に転がした。
「……あの結界は、村人の『心臓の鼓動』をクロック(同期)として利用している。……膜を叩けば、その振動が直接、誰かの鼓動を止める仕組みだ」
「……なら、どうすればいい。あいつの言う通り、俺が死ぬのを待つしかないのか」
「……いや。……計算式には必ず『余り』が出る。……オモイカネは、人間をただの『数』だと思っているが、……人間の命は、……割り切れるほど、綺麗じゃない」
スイゼイが、震える手で自らの胸元を抉り、一掴みの「自身の血」を砂に撒いた。
――禁術・【共鳴の逆位】。
スイゼイが、声にならない叫びを上げた。
彼が放ったのは、結界を壊すための力ではない。結界の数式の中に、「スイゼイという不純物」を無理やり割り込ませるための、自己崩壊の呪文だ。
リン、リン、リンッ!!
砂の上の鈴が、主の意志とは無関係に激しく鳴動する。
次の瞬間、結界の膜に走る幾何学模様が、一箇所だけ激しく「明滅」を始めた。
『――何をした、不浄の巫師よ。……論理に不備はないはずだ。……そのノイズは、計算外だ』
オモイカネの声に、初めて微かな「揺らぎ」が混じる。
「……オモイカネ。……お前は、……この村にいる『赤ん坊の泣き声』の周波数を……計算に入れたか?」
スイゼイが笑った。口から黒い塊を吐き出しながら、勝利を確信した狂者の笑みだ。
「……今だ、イワレビコ! ……あの明滅している場所……あそこだけは、……『生』と『死』が、……まだ確定していない!!」
「……、……。……よくやった、スイゼイ」
イワレビコが立ち上がった。
彼は槍を構えない。代わりに、粉砕されたはずの左の義手を、明滅する膜へとゆっくりと近づけた。
「……オモイカネ。……お前は『定数』を信じているが、……俺は『重さ』を信じている」
イワレビコが義手で膜に触れた。
――深淵出力・【沈降】。
義手から放たれたのは破壊の力ではない。結界の一点に対して、一万の軍勢が抱く「怨念の重み」を、針の先ほどの一点に凝縮して叩き込んだのだ。
――ピキィィィィィィンッ!!
透明な膜に、一本の「ひび割れ」が走った。
それは数式が導き出した結果ではない。計算機の限界を超えた「物理的な重圧」が、論理の壁を強引にへし折った音だ。
『……生命定数の消失を感知。……だが、……該当者が……いない? どこだ、誰が死んだ!?』
「……誰も、死なせてたまるかよ」
イワレビコは義手の指を結界の中にねじ込み、その「亀裂」を力任せに引き裂いた。
黄金色の蒸気が爆発し、オモイカネの幾何学模様が、砂嵐のように霧散していく。
日没の寸前。
村を包んでいた死の膜が、音を立てて崩壊した。
「……あ、……ぁぁ……」
静止していた村人たちが、一斉に崩れ落ち、呼吸を取り戻す。
イワレビコは、引き裂いた結界の残骸の中で、膝をつくスイゼイの肩を抱きとめた。
彼の義手は熱を持ち、指先からは真っ黒な火花が散っている。
「……スイゼイ。……生きているか」
「……、……。……五月蝿い、……耳鳴りが、……止まらん……」
勝利。
だが、その背後の空には、無数の「天の眼」がさらに輝きを増して現れていた。
『――興味深い。……感情というバグが、論理を凌駕したか。……ならば、次からは「感情」を引数に加えた、より残酷な数式を用意しよう』
オモイカネの声は、既に次の殺戮の計算を開始していた。




