第37話
勝利の美酒など、一滴も残っていなかった。
タヂカラオを退けた翌朝。イワレビコ一行が目にしたのは、砦からほど近い「ハハキの村」を包み込む、異様な光景だった。
「……何だ、あれは。霧か?」
ニニギが眉をひそめる。
村は、巨大な正多面体の「光の枠組み」に閉じ込められていた。結晶のように鋭い透明な膜が、空を、大地を、そしてそこに住む数百の民を丸ごと切り取っている。
村人たちは膜の向こうで、まるで見えない糸に吊られた人形のように、緩慢な動きで立ち尽くしていた。叫んでいるようだが、音は一切漏れてこない。
「……近寄るな、ニニギ」
スイゼイが、震える指で空間をなぞる。
「……あれは結界ではない。……世界の『定義』を書き換えられた空間だ。……あの中では、呼吸の一回、鼓動の一打ちさえも、天の計算機に管理されている」
その時、透明な膜の表面に、無数の数式と幾何学模様が浮かび上がった。
『――おはよう、イワレビコ王。計算によれば、貴公がここへ到着する確率は九十八パーセントだった』
空気を震わせるオモイカネの声。
姿は見えない。だが、空全体が「巨大な脳」となって見下ろしているような圧迫感があった。
「オモイカネ……。村人を解放しろ。これはお前たち神の言う『清め』ではないはずだ」
『その通り。これは「最適化」だ。貴公という不確定要素を排除するために、最も効率的な人質(変数)を選択したに過ぎない』
イワレビコは義手の左腕を突き出し、結界の膜に触れようとした。
だが、オモイカネの言葉がそれを止めた。
『触れるがいい。……ただし、その義手が結界に干渉した瞬間、内部の「生命定数」を一人分、抹消する。……誰が死ぬかはランダムだ。赤子か、老人か、あるいは貴公の知人か』
「……っ……!」
イワレビコの手が、膜の数センチ前で止まった。
義手の隙間から漏れる黄金色の蒸気が、怒りに震えて激しく噴き出す。
『貴公は「神殺しの王」だ。……ならば、民を救うために自分を殺すか、神を討つために民を切り捨てるか。……その選択の「重さ」が、貴公の出力をどれだけ減衰させるか……興味深いデータが取れそうだ』
「ふざけるなッ! 卑怯だなんて言葉じゃ足りねえぞ、この野郎!!」
ニニギが盾を叩きつけるが、結界は微動だにしない。
結界の向こう側。
一人の幼い少女が、膜に手を触れようとしていた。その瞳は虚ろで、自分が死のスイッチに触れようとしていることさえ理解していない。
「……、……」
イワレビコは、右手の槍を強く握りしめた。
槍で突けば、この幾何学の檻は壊せるだろう。だが、その瞬間に何人の命が「数式の藻屑」として消えるのか。
神軍は、もはや武力でねじ伏せに来てはいない。
イワレビコの中にある「人間としての心」を、計算式の一部として利用し、彼を内側から腐らせようとしていた。
「……オモイカネ。……お前は、計算を間違えている」
イワレビコが、低く、地を這うような声で言った。
「……俺の怒りは……、……数式になんて、収まりきらねえぞ」
『……ほう。……期待しているよ、王。……ただし、猶予は日没までだ。……それまでに選択せねば、定数は「零」に収束する』
光の幾何学が、冷たく輝きを増す。
日没まで、あと数刻。
イワレビコは、動かない村人たちと、自らの黒い義手を見つめ、静かに目を閉じた。




