第36話
タヂカラオの巨躯を貫いた槍が、黄金の血を撒き散らしながら引き抜かれた。
衝撃波が止み、静寂が戻った砦の広場。巨神は胸に穿たれた大穴を抑え、膝をついていた。その三つの瞳には、初めて「死」という概念への戸惑いが浮かんでいる。
「……信じられぬ。……我が肉体が……虫ケラの牙に……」
「仕留めたか……!?」
ニニギが盾を構え直すが、その腕は疲労で激しく震えていた。
だが、トドメの一撃を放とうとしたイワレビコの耳に、どこからともなく「声」が響いた。
それは風のように実体がなく、しかし脳の髄まで凍りつかせるような、透き通った理性の響き。
『――そこまでだ。二人とも、撤退するのだ』
「……ッ!? 誰だ!!」
イワレビコが鋭い視線を空へ向ける。
『私の名はオモイカネ。……タヂカラオ、その傷は深い。これ以上の戦闘は個体の損失に繋がる。ニギハヤヒ、円盤を回収し、重力誤差を修正せよ。……帰還命令だ』
その声が響いた瞬間、ニギハヤヒの瞳から一切の感情が消えた。彼は弾き飛ばされていた十種神宝を指先一つで呼び戻し、静かに宙へと浮き上がる。
「……了解した、軍師。……命拾いしたな、不浄なる者たちよ」
「待てッ! 逃がすかッ!!」
ニニギが叫び、一歩踏み出そうとした。
だが、スイゼイが血まみれの手でニニギの裾を掴んだ。
「……止まれ……ニニギ……。追うな……。視えないのか……あの空を……」
スイゼイが指し示した上空。
神殿の周囲に展開されていた光の円陣が、複雑な幾何学模様を描きながら、巨大な「計算式」へと変貌していた。
次の瞬間、タヂカラオの巨体が光の粒子となって分解され、空へと吸い上げられていく。
「……、……」
イワレビコは槍を構えたまま、動けなかった。
逃がしたのではない。まるで、より大きな「盤面」の上で、駒を戻されたような感覚。
『イワレビコ王よ。……貴公の「海の血」の出力、および義手の特性は、すべて計測した。……次の戦場で、貴公たちの勝率は零となる』
声は、嘲笑ですらなかった。ただの、淡々とした事実の宣告。
『勝利の余韻を味わうがいい。……それが、貴公たちが抱ける最後の希望だ』
光が収まり、神軍は忽然と姿を消した。
残されたのは、半壊した砦と、生き残った数百人の兵たちの荒い呼吸。
勝ったはずだった。
だが、イワレビコの義手の左腕は、かつてないほどの冷気に包まれていた。
一万の人間軍を率いる王は、自分の足元に広がる影が、以前よりもずっと深く、暗くなっていることに気づいていた。




