第31話
神は、もはや「掃除」を辞めた。
かつてのマカツ陥落から数ヶ月。地上の景色は、絶望という名の絵具で塗り替えられていた。
空の亀裂からは、一柱の神ではなく、万を超える白銀の装甲兵――神軍本隊が、光の滝のように降り注いでいた。彼らは語らず、笑わず、ただ機械的な精密さで人間の村々を包囲し、一軒残らず結晶化させていく。
「……南の村が、また一つ消えたか」
マカツの廃墟から数里離れた、険しい岩山の砦。
イワレビコは、黒い義手の指を強く握り込み、眼下に広がる炎上する大地を見つめていた。
彼の左腕に繋がれた義手は、今や鈍い黒光りを放ち、彼の「海の血」と完全に同化している。右手に握られた【天の沼矛】の穂先には、神を殺すごとに増していく、逃れようのない重圧が宿っていた。
「殿、報告です。……南西の三つの里が、同時に沈黙。……生き残った民がこちらへ向かっていますが、神軍の猟犬に追いつかれるのは時間の問題かと」
ニニギが、新しい大楯を背負い直しながら言った。
彼の顔には、数え切れないほどの傷が増えていた。一万の軍勢を率いる将としての重圧が、その肩を以前よりも逞しく、そして険しく変えている。
「……、……」
イワレビコは答えなかった。
彼の耳には、遠くから響く無数の悲鳴が届いている。
以前の彼なら、迷わず一騎で飛び出していただろう。だが、今の彼は「王」だ。一人の命を救うために動けば、後ろに控える数万の軍勢が道連れになる。
「……スイゼイ。……神軍の動きが、これまでと違う。……統制が取れすぎている」
「……気づいたか。……視えるぞ。空の向こうに、神の言葉を数式に変える『脳』がいる」
スイゼイが、包帯にまみれた指で天を指差した。
雲の切れ間、巨大な光の円陣がゆっくりと回転している。それは神軍の軍師、オモイカネが張り巡らせた、地上のすべてを監視する「天の眼」だった。
「……これまでの神は、俺たちを『ゴミ』として扱った。……だが、今は違う。……奴らは俺たちを、『敵』として認識し、根絶やしにするために策を練っている」
イワレビコは槍を地面に突き立てた。
その時。
砦の正門を、一人の伝令が血まみれで駆け込んできた。
「イ、イワレビコ王……! 逃げてください! ……北の関門が、一撃で……一撃で粉砕されました!」
「何だと? あそこには三千の兵と、ニニギの部下がいたはずだ!」
ニニギが声を荒げる。
「……違います。……武器でも、術でもない。……ただ、巨大な『手』が、山ごと握りつぶしたのです……!」
ドォォォォォォンッ!!
伝令の言葉を裏付けるように、砦の背後の山が、音を立てて崩壊した。
砂塵の中から現れたのは、黄金の鎧さえ纏わぬ、剥き出しの筋肉の塊。
身の丈三十メートルを超える、巨神。
「……、……」
巨神が、その巨大な三つの目で砦を見下ろした。
ただ立ち上がっただけで、周囲の雲が霧散する。
「不浄なる……小利口な虫ども。……我が名は、タヂカラオ。……天の戸を開き、地の闇を握り潰す者なり」
巨神の拳が、ゆっくりと振り上げられた。
それは武術でも法術でもない。ただの、圧倒的な「質量の暴力」。
「……ニニギッ!!」
「分かってる! ……野郎ども、盾を合わせろ! 死ぬ気で踏ん張れェ!!」
第2章、神軍戦争。
「神殺しの王」の前に現れたのは、知略の軍師と、天を動かす怪力の主。
人間軍にとっての、真に過酷な戦争が、今、幕を開けた。




