第30話
マカツの地は、この世の終わりの縮図だった。
ニニギ率いる一万の人間軍が、神殿から溢れ出す白金の神兵と泥を啜り合い、血の海を泳いでいた。スイゼイが血を吐きながら鈴を振り、神の法を狂わせる。ニニギの巨大な盾が磐井の鉄騎兵を率いて神兵の陣形を食い破る。
だが、その混沌の中心は、不気味なほどに「静寂」だった。
「……面白い。……面白いぞ、泥の王よ」
タケミカヅチが、不敵な笑みを浮かべた。
彼が掲げた大槍から、純白の雷が地を這い、周囲の空間を結晶化させていく。
「一万の呪い、海の血、そしてその鋼の腕。……全てを以て、天の武を試そうというのだな。……いいだろう。……清めではない。……我らが『荒ぶる魂』、その全身を以て、貴様を粉砕してくれよう」
タケミカヅチが槍を地面に突き立てた。
――ドォォォォォンッ!
雷光が爆発した。
だがそれは、タケミカヅチから放たれたものではない。彼自身の身体が、白金の雷に飲み込まれ、収縮し、そして膨張したのだ。
毛皮が、骨が、肉が、神話的な速さで再編されていく。
白金の雷光の中から、姿を現したのは、身の丈十メートルを超える巨大な**「三つ首の犬」だった。
第十九話で見せた獣の姿とは違う。あれは不完全な顕現に過ぎなかった。今、目の前にいるのは、タケミカヅチという武神の獣性が、戦場の血を啜って完全に肉体を得た、真なる「天の猟犬」――【タケミカヅチ・ケルベロス】**。
全身を白金の鎧のような剛毛に覆われ、六本の脚が地を蹴るたびに、周囲の重力が狂い、岩石が浮き上がる。三つの首には、以前と同じく「固定された笑顔」の仮面が。だが、その仮面の奥にある灰色の瞳からは、もはや慈悲も理性も失われ、ただ純粋な破壊の衝動だけが渦巻いていた。
「……ォォォォォォォッ!!」
三つの首が同時に咆哮を上げた。
その声波だけで、周囲にいた神兵も人間も、等しく圧殺された。
「……、……。……来い、化け物」
イワレビコは、義手の左腕をギチ、ギチと鳴らし、右手の槍【天の沼矛】を低く構えた。
黄金色に燃え上がった灰色の左目が、巨大な獣を射抜く。
ケルベロスが動いた。
俊敏。あまりに俊敏。巨大な質量が、音速を超えて迫る。
イワレビコは、義手の左腕を地面に向けて突き出した。
――重圧・深淵底!!
小手が放つ「海の血」の圧力が、ケルベロスの真下の地面を一瞬で「深海」の重圧へと変えた。ケルベロスの前脚が砂の中に沈み込み、その動きが僅かに鈍る。
その隙に、イワレビコは右手の槍を繰り出した。
――一閃。
穂先が、ケルベロスの右首の仮面を砕いた。
黄金色の血が噴き出す。だが、獣は止まらない。中央の首が、雷光を纏った顎でイワレビコの胴体を噛みちぎろうと迫る。
「……、……!」
イワレビコは、砕けたケルベロスの仮面の破片を、小手の爪で鷲掴みにした。
――喰え。
小手を通じて、イワレビコ自身の「海の血」と、一万の「呪い」を、ケルベロスの体内に直接流し込む。
ケルベロスの体内で、純白の雷と真っ黒な怨念が衝突し、不快な爆発音を立てる。
「……が、あ、ァァッ!!」
ケルベロスが悶え苦しみ、残った二つの首で雷のブレスを吐き散らした。
マカツの地が、光と闇の渦に飲み込まれる。
イワレビコは、自らの身体が焼けるのを無視して、再び跳躍した。
小手でケルベロスの首を掴み、右手の槍を、その胸元の「心臓」へと向けた。
「……天の理が、地に落ちる……音が……聞こえるか」
イワレビコは、全身の骨が砕けるのを覚悟で、槍を突き下ろした。
――断。
槍の穂先が、ケルベロスの白金の毛皮を、鎧を、そしてその奥にある神の核心を、真っ向から穿ち抜いた。
――ドォォォォォンッ!!
マカツの全域を包む、凄まじい大爆発。
光も闇も、人間も神も、全てがその爆風に吹き飛ばされた。
静寂。
光が収まった後、そこには広大なクレーターだけが残されていた。
一万の軍勢も、神殿も、フツヌシも、ニニギも、スイゼイも、誰もいない。ただ、真っ黒な灰が降り注ぐ中、二人の男が、泥の中に座り込んでいた。
イワレビコ。
彼の左肩に繋がれた黒い小手は、神のエネルギーに耐えきれず、完全に粉砕されていた。右手の槍も折れ、穂先は失われている。全身は焼かれ、血の涙を流しながら、辛うじて人間としての光を留めている。
そして、その眼前に。
タケミカヅチが、人間に戻り、跪いていた。
彼の大槍は地面に転がり、高潔だった軍服は泥にまみれ、その胸元には、イワレビコが穿った「真っ黒な穴」が空いていた。黄金色の血が、灰の上に滴り落ちる。
「…………」
タケミカヅチは、自らの胸の穴を見つめ、やがてゆっくりと顔を上げた。
虹彩も瞳孔もない灰色の瞳に、初めて、人間に対する「驚愕」と、そして「承認」の色が浮かんでいた。
「……面白い人間だ」
タケミカヅチの声は、掠れた雷鳴のようだった。
「我らの武を、理を、その泥にまみれた执念で、ここまで穿つとはな。……イワレビコよ。……誉めてやろう。貴様は、天が認める『敵』となった」
「……、……」
「だが、勘違いするな。……我らは、天の執行者に過ぎぬ。……貴様が穿ったのは、天の『表面』に過ぎん」
タケミカヅチの身体が、ゆっくりと黄金色の光となって崩れ始めた。神の死。
タケミカヅチは、最期に、イワレビコの後ろ、閉じていく空の亀裂を見つめた。
その瞳に宿る、底なしの恐怖と、歓喜。
「……天は、お前を殺す」
タケミカヅチの身体が、光の粒子となって霧散した。
将軍の死。
後に残されたのは、片腕を無くし、泥の中に沈んだ一人の王。
そして、神に勝利し、しかし、真なる「天の怒り」を買った、この世界の「呪い」だけだった。
「……ああ。……上等だ」
イワレビコは、折れた槍を杖に、辛うじて立ち上がった。
空の亀裂は、閉じていた。
だが、その向こうから、これまでとは比較にならぬほどの、圧倒的な「殺意」が、地上を見下ろしているのを、彼は感じていた。
復讐は終わった。
だが、それは人間と天の、真なる戦争の幕開けに過ぎなかった。
王でもなく、怪物でもなく、ただの「神殺しの男」が、一人。
泥と灰の中で、天を睨みつけ、再び歩み出した。




