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神を殺す王 ―神武東征ダークファンタジー―  作者: 水前寺鯉太郎
神殺しの始まり

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第3話

耳鳴りが、止まない。


 視界は白く濁り、上下の感覚さえ曖昧だった。


 イワレビコは、泥の中に顔を埋めたまま、必死に酸素を求めて喘いだ。呼吸をするたびに、肺の奥で鋭いガラス片が暴れ回るような激痛が走る。


 神兵が放った「光」の余波。それは熱ですらなかった。存在そのものを否定するような、絶対的な断絶。


「……様……イワレビコ様!」


 遠くで、誰かが叫んでいる。


 歪んだ視界の端に、馬から転げ落ち、泥まみれになりながらこちらへ這い寄ってくる影が見えた。


 近衛兵のナガハ。イワレビコと共に幼少期から武芸を競い、弟のように可愛がってきた若者だ。


「来る……な……」


 声にならない血の泡が口から溢れる。


 だが、ナガハは止まらなかった。彼は折れた槍を杖代わりに立ち上がり、イワレビコの前に立ちはだかった。その震える手で、神兵を見上げる。


「我が主には……指一本、触れさせん……!」


 馬上にある神兵は、相変わらずあの不気味な「微笑」を崩さない。


 乳白色の目が、ゴミを見るような無関心さでナガハを捉えた。


「忠義か。人間の持つ、最も無価値な感情の一つだな」


 神兵が、わずかに指を動かした。


 それだけだった。


 ナガハの身体が、まるで見えない巨人に握りつぶされたかのように、不自然な角度で折れ曲がった。


「が、あ……」


 叫び声さえ、完遂されなかった。


 ナガハの身体は、神兵が放った不可視の圧力によって、地面に叩きつけられた。骨が砕ける「メキメキ」という乾いた音が、静まり返った広場に響き渡る。


 ナガハの瞳から、急速に光が失われていく。彼は最後にイワレビコの方を向き、血に濡れた唇を微かに動かした。


(お逃げ、ください)


 音にならない言葉を残し、ナガハの首が力なく垂れた。


 二十二年の短い生涯が、神兵の「暇つぶし」のような指の動き一つで、あっけなく幕を閉じた。


「ナガ……ハ……」


 イワレビコの指先が、泥を掻く。


 怒りよりも先に、巨大な「虚無」が彼を襲った。


 自分が王として剣を抜いた結果が、これだ。親友を救えず、家臣を無惨な死に追いやり、村をさらなる業火に投げ込んだ。


 神に逆らう。その報いは、本人ではなく、常に周囲の弱き者たちへと向けられる。


 神兵は、もはやイワレビコに興味を失ったようだった。


 六本足の馬が、ゆっくりと歩き出す。蹄は、横たわるナガハの死体を避けることさえせず、その背中を無造作に踏み砕いて通り過ぎた。


「この地の不浄は、この程度の焔では清めきれぬか」


 神兵が空を見上げる。


 閉じかけていた空の亀裂が、再びわずかに開き、そこから幾筋もの白い光が雨のように村へと降り注いだ。


 


 それは、終わりの始まりだった。


 光が触れた場所から、家々が白磁のように結晶化し、次の瞬間には風に舞う灰へと変わっていく。叫び声を上げる暇もなかった。逃げようとした老婆も、親を呼ぶ子供も、神兵の通り道にあるすべてが、平等に「灰」へと還元されていく。


 殺戮ではない。


 それは、ただの「抹消」だった。


 どれほどの時間が経っただろうか。


 熱気が引き、代わりに死の冷気が辺りを支配し始めた頃。


 イワレビコは、辛うじて上体を起こした。


 目の前に広がっていたのは、彼が知る「マカツ」の姿ではなかった。


 緑豊かな村も、タカクラジの家も、活気に満ちた広場も、何一つ残っていない。そこにあるのは、月の表面のような無機質な灰の荒野と、点在する黒い影――かつて人間であったものの成れの果て――だけだった。


 神兵の姿は、もうどこにもない。


 空は皮肉なほどに澄み渡り、銀色の月が、静まり返った廃墟を冷ややかに照らしていた。


「殿……っ!」


 城の方から、生き残ったわずかな兵たちを引き連れてオオクメが駆け寄ってくる。


 老臣は、惨状を目の当たりにし、言葉を失ってその場にへたり込んだ。


「ああ……なんということだ……神の怒りに触れるとは、これほどまでに……」


 イワレビコは、オオクメの声を遠くに聞きながら、傍らに転がっていたナガハの腕を握った。


 冷たかった。つい先刻まで、共に酒を飲み、武芸を語り合った温もりは、もうどこにもない。


 


 彼は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、再び膝をついた。


 視界の端に、何かが光った。


 自分が振るい、神兵の肌に触れることさえできなかった、王家伝来の鉄剣。


 それは無残に曲がり、刃こぼれし、今はただの「折れた鉄屑」として転がっている。


 イワレビコは、その鉄屑を掴み取った。


 鋭い破片が手のひらに食い込み、新たな血が流れる。


 だが、彼はその手を緩めなかった。


「……オオクメ」


「は、はい、殿……」


「これが……世界の『道理』か」


 イワレビコの声は、驚くほど静かだった。


 叫びも、涙もない。ただ、凍りついたような絶対的な沈黙が、その声に宿っていた。


「神は天にあり、人は地に這う。逆らえば消される。……それがこの世界の形か」


「左様にございます……ですから、私は、あれほど申し上げたのです。人間は、神の足元にも及ばぬと……」


「そうか」


 イワレビコは、折れた剣を地面に突き立てた。


 そして、灰と化した村を、ナガハの亡骸を、そしてかつてタカクラジがいた場所を、一度だけゆっくりと見渡した。


「及ばぬのなら、超えるまでだ」


 彼は血に塗れた手で、自分の右肩の傷――神兵に刻まれた、一生消えぬであろう醜い焼灼痕――を強く押しつぶした。


 激痛が脳を貫く。その痛みが、彼の心を辛うじてこの世に繋ぎ止めていた。


「道理が人間を殺すなら、俺がその道理を殺す。神が天にあるなら、引きずり落として土に埋める」


 イワレビコは立ち上がった。


 折れた肋骨を、剥き出しの意志だけで繋ぎ合わせるように。


 


 彼は空を見上げなかった。


 ただ、自らの足元に広がる、愛した民たちの灰を、その瞳に深く沈めていった。


「神を殺す。……そのためなら、俺は人であることを捨てる」


 夜風が吹き抜け、灰が舞う。


 かつて王であった男の背中を、月光が冷たく、しかし鋭く切り裂いていた。

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