第27話
夜明け前、隼人の里を包んでいたのは、潮騒をかき消すような「地響き」だった。
里を囲む断崖の尾根。そこに現れたのは、銀色の神兵ではない。
獣の皮を纏い、顔を赤黒い泥で塗った凶暴な戦士団――熊襲。
そして、整然とした陣形を組み、重厚な鉄の鎧で身を固めた筑紫の精鋭――磐井。
合わせて五千を超える軍勢が、蟻の這い出る隙もないほどに里を包囲していた。
「……神の手先か。いや、神に魂を売った『猟犬』どもか」
里の広場、イワレビコは義手の指を一つずつ確かめるように握り込んだ。
ギチ、ギチ……。
鋼と神経が擦れる鈍い音が、静寂に響く。左肩の断面からは、今も黒い怨念が義手の隙間を縫って陽炎のように立ち上っていた。
「イワレビコよ! その首を差し出せ!」
崖の上から、磐井の将が吠えた。
「お前一人が神に抗ったせいで、我らの国は供物の倍増を命じられた! お前の首こそが、我らが生き延びるための唯一の献上品だ!」
その言葉を聞いた瞬間、里に集まっていた敗残兵たちの中に動揺が走った。
「自分たちのせいで、他者が苦しんでいる」という加害者意識。それは、神の暴力よりも深く人間の心を折る。
「……ニニギ。……下がっていろ」
イワレビコは、黒石の盾を構えようとしたニニギを制し、一人で前に出た。
右手には【天の沼矛】。左手には、隼人の知恵が詰まった「黒い義手」。
「……供物を捧げて、いつまで生き延びるつもりだ」
イワレビコの声は、低く、しかし里の隅々にまで届くほどに響いた。
「明日、その供物がお前自身や、お前の子供に変わるだけではないのか」
「黙れ! 今この瞬間を生きられぬ者に、明日などないわッ!!」
熊襲の戦士たちが、咆哮と共に崖を駆け下りてきた。
彼らは獣のような俊敏さで、石斧や投げ槍を放つ。
「……、……!」
イワレビコは、義手の左腕を地面に向けて突き出した。
――圧。
義手の内部に秘められた「海の血」の重圧が、物理的な衝撃波となって放射された。
突進してきた熊襲の戦士たちが、まるで見えない巨人の足に踏みつけられたかのように、砂の中に叩きつけられる。
「な……!? 何だ、この力は!」
「……次は、槍だ」
イワレビコは右手の槍を、一寸の狂いもなく磐井の将へと向けた。
義手で槍の柄をがっしりと固定し、全身のバネを穂先の一点に集中させる。
――穿て。
放たれた一突き。
槍は空気を切り裂くのではなく、空間そのものを「圧縮」して進んだ。
磐井の将が掲げていた鉄の盾を、穂先は紙のように貫き、その兜の飾りを弾き飛ばした。
殺してはいない。
だが、その一撃に込められた圧倒的な「格の違い」に、五千の軍勢が水を打ったように静まり返った。
「……俺を殺して、神に媚びを売りたいなら、そうしろ。……だが、俺を殺した後に残るのは、また元の『家畜』の日々だ」
イワレビコは、義手の爪で槍の刃をなぞった。
黒い火花が散る。
「……俺と共に来い。……神を殺し、供物のいらぬ世を作る。……そのための『盾』に、お前たちのその命を貸せ」
沈黙。
潮騒の音だけが響く中、熊襲の戦士の一人が、ゆっくりと石斧を地面に置いた。
一人、また一人と、磐井の兵たちも槍を下げ、片腕の王を見つめた。
彼らが求めていたのは、神への生け贄ではなく、**「戦って死ぬ権利」**を与えてくれる強者だったのだ。
「……マカツの……いや、人間軍の王よ」
磐井の将が、兜を脱ぎ捨て、膝をついた。
「……我ら五千の命、あなたの槍に預けよう。……家畜のまま死ぬのは、もう御免だ」
「……、……。……行くぞ」
イワレビコは振り返らず、北の空を見上げた。
南の果ての民、隼人。そして寝返った熊襲と磐井。
「人間軍」は今、万を超える巨大な「呪い」の塊へと膨れ上がった。
マカツへの帰還。
それはもはや敗走ではない。天を呑み込むための、真っ黒な津波の始まりだった。




