第25話
隼人の里を包む朝霧は、重く、湿っていた。
イワレビコは里の広場で、一本の木槍を右腕だけで突き出していた。左肩の傷跡は、ツチグモが与えた薬草の力で塞がってはいたが、そこから先にあるはずの腕の喪失感が、今も彼の平衡感覚を狂わせる。
「……浅いな。もっと腰を落とせ、マカツの王」
石段に腰掛けたツチグモが、退屈そうに石斧を研ぎながら言い放った。
イワレビコは答えず、再び槍を繰り出した。脇に挟み、背骨を軸にして放つ一突き。黒剣【フツノミタマ】を持っていた頃のような爆発的な破壊力はない。だが、大気を「穿つ」その一点には、これまでにない鋭利な殺意が宿っていた。
その時だった。
里を囲む断崖の頂、霧を切り裂いて「銀色の光」が地上へ差し込んだ。
「……来たか。思ったより早かったな」
スイゼイが、両耳に包帯を巻いた姿で影から這い出してきた。彼の虚ろな瞳は、空中に浮かぶ「異常」を正確に捉えていた。
空中に滞空しているのは、三騎の神軍偵察兵。
彼らは巨大な白翼の鷲に跨り、乳白色の眼球で里を見下ろしていた。手には、狙った獲物を決して外さないという「天の測量儀」が握られている。
「不浄なる生存者を確認。……座標、南の果て。……清めを、開始せよ」
感情を廃した歌のような声。
偵察兵の一人が、測量儀から一条の光線を放った。それは里の貯蔵庫を一瞬で結晶化させ、爆発させた。
「ひいぃっ……!」
「神様だ! 神様がまた来たぞ!」
里の民たちが、蜘蛛を散らすように逃げ惑う。ツチグモの顔が怒りに歪んだ。
「おのれ……! ここまで追ってくるとは。……野郎ども、武器を取れ! 犬として死ぬのは今日でおしまいだ!」
隼人の戦士たちが吠える。だが、空を舞う鷲に対して、石斧では届かない。
イワレビコは、傍らに置かれた真新しい槍を掴んだ。
それはマカツの鉄と、隼人の硬木、そしてスイゼイが「神の法」を乱すために呪いを刻んだ**【天の沼矛】**の残骸だ。
「……ニニギ、盾だ」
「おうッ! 腕が一本死んでるが、こいつだけは離さねえ!」
ニニギが、隼人の黒石で補強した新しい大楯を掲げ、イワレビコの前を走る。
偵察兵の光線が楯を打つが、黒石の重厚さがその熱を強引に逸らした。
「……、……!」
イワレビコは、ニニギの楯を足場にして断崖の中腹へと跳んだ。
左腕がないために、跳躍の軌道が僅かにぶれる。だが、彼は空中を蹴る際、右腕の槍に自らの「海の血」を流し込んだ。
――重圧。
槍の穂先から、目に見えない質量の波が放たれる。
空を舞う鷲の翼が、突如として数倍の重力に襲われ、悲鳴を上げて高度を落とした。
「何だ……!? 物理的な……斥力だと……?」
神兵が驚愕に目を見開く。
その隙に、イワレビコは槍を右脇に固定し、全身を一本の「楔」として突き出した。
「……剣なら、届かなかったな」
――ドォォォォォンッ!!
長槍の穂先が、偵察兵の胸板を貫き、背後の巨岩ごと刺し貫いた。
黄金色の血が噴き出し、イワレビコの頬を焼く。
「一騎……!」
残る二騎が慌てて距離を取ろうとする。だが、地上の隼人の戦士たちが放った投石と、スイゼイが放った不協和音の呪文が、彼らの逃走を阻んだ。
「逃がすな! 天に知らせを送らせるな!」
ツチグモが吠え、石斧を投じる。
イワレビコは岩場を蹴り、次の獲物へと槍を向けた。
右腕一本。重心は不安定。呼吸は苦しい。
だが、その槍の感触は、かつてのどの武器よりも頼もしかった。
数分後。
里には、三羽の鷲の死骸と、灰になった偵察兵の残骸だけが残された。
静寂が戻った里で、イワレビコは槍を杖にして立ち尽くしていた。
彼の右腕は、神の血と、過負荷による内出血で真っ赤に染まっている。
「……勝った。……勝ったぞ、殿!」
ニニギが、折れた指を無視して歓喜の声を上げる。
しかし、イワレビコは空を見上げたまま、表情を変えなかった。
亀裂はまだ空に残っている。
偵察が来たということは、次に現れるのは「軍隊」だ。
「……ツチグモ。……民に言え。……マカツへ、戻ると」
「……何だと?」
「逃げても、ここはいつか焼かれる。……なら、こちらから出向く。……神を、殺すための軍を集めにいくんだ」
イワレビコの言葉に、里中が息を呑んだ。
「人間は神に逆らえない」。
その絶望の宣告を、片腕の王は、今、自らの槍で完全に破り捨てた。
第三幕、反撃の戦争。
南の果てから、天を穿つための「泥臭い行軍」が始まろうとしていた。




