第23話
泥と血にまみれた敗走は、十日に及んだ。
タケミカヅチの雷が焼き払ったのは、マカツの軍勢だけではない。イワレビコの王としての誇り、そして「神を殺せる」という傲慢な確信さえも、あの白光の中に蒸発していた。
一行は南へ、さらに南へと逃れた。追ってくる神軍の「銀の猟犬」をニニギが砕けた盾で防ぎ、意識を失いかけるスイゼイをイワレビコが右腕一本で支え、獣道を這うように進んだ。
辿り着いたのは、峻険な崖に囲まれ、潮騒が牙を剥く南の辺境――**「隼人の里」**だった。
「……止まれ、死人ども。ここから先は、天の光も届かぬが、人の情けも届かぬ場所だ」
霧の向こうから、鋭い声が響いた。
現れたのは、赤い樹皮を編んだような奇妙な鎧を纏い、犬の皮を被った戦士たちだった。隼人の民。彼らは中央の王権に与さず、独自の荒ぶる神を信奉し、海と共に生きる「忘れられた民」だ。
「……マカツの……王だ。……通して、もらう」
イワレビコが、折れた槍を杖に一歩前に出た。
左肩の欠損。そこから立ち上る黒い霧は、今や弱々しい。だが、彼の右目に宿る「飢えた狼」のような光を見て、隼人の戦士たちは一瞬だけたじろいだ。
「マカツの王だと? あの、神を殺すと嘯いた大馬鹿者か」
戦士たちの間を割り、一人の大男が進み出た。
隼人の長、ツチグモ。その全身には、神から与えられた「服従の証」である刺青が刻まれている。
「無惨な姿だな。腕を奪われ、民を失い、それでもまだ生きようというのか。……イワレビコよ、教えてやろう。この里の者は皆、知っている。『人間は、神に逆らえない』。それがこの世界の、たった一つの、壊しようのない真実だ」
「……、……」
「逆らえば、里が焼かれる。抗えば、種が絶える。だから我らは、犬のように地に這い、神の靴を舐めて生き延びてきた。……お前の通った道には、死体しか残っていない。この里に、その呪いを持ち込むな」
ツチグモの言葉は、槍よりも深くイワレビコの胸を突いた。
背後で、ニニギが膝をついた。限界だった。
スイゼイは、神の法に焼かれた脳が悲鳴を上げ、虚空を掴んで震えている。
自分についてきた結果が、これだ。
正しいのは、ツチグモの方かもしれない。神に跪き、魂を売ってでも、民を「生かす」のが王の仕事ではないのか。
「……それでも」
イワレビコは、右手の槍を強く握りしめた。
手のひらの傷が痛み、鮮血が柄を伝って滴り落ちる。
「……それでも、俺は……まだ、諦め方を知らない」
「なら、その槍で証明してみせろ。片腕の王よ」
ツチグモが、巨大な石斧を構えた。
歓迎の宴はない。
あるのは、絶望を知る者同士の、残酷な「生存の儀式」だけだった。
「俺たちが神に逆らえないことを……その身に、二度と忘れぬほど刻み込んでやる」
南の果て。
荒れ狂う波の音を背景に、落ち延びた王の、本当の試練が始まろうとしていた。




