第22話
泥の中に突き刺さった【フツノミタマ】は、もはやかつての禍々しい拍動を止めていた。
イワレビコは、右の手のひらでその柄を握り、引き抜こうとした。だが、肩の付け根から失われた左腕の欠落が、彼の平衡感覚を無残に狂わせる。
「……あ、……が」
抜けない。
かつては体の一部のように軽かった黒剣が、今はただの、呪わしく重い鉄の塊にしか感じられなかった。
左腕という「器」を失ったことで、イワレビコの中から神殺しの異能が剥がれ落ち、彼はただの「片腕の男」へと引き戻されていた。
「無理だ、イワレビコ。その剣は、お前の『闇』を食って動いていた。……今の空っぽのお前じゃ、持ち上げることすら叶わん」
スイゼイが、血を吐きながら冷酷に告げる。
背後からは、タケミカヅチの軍勢の残党――銀色の猟犬たちが、獲物の死を確認するために音もなく近づいてきていた。
「クソ……! 殿、これを使ってくれ!」
ニニギが、砕けた盾の破片と共に、戦場に転がっていた「一本の棒」を投げ渡した。
それは、先ほどタケミカヅチの一振りで蒸発したマカツ兵の一人が持っていた、折れかけた鉄の長槍だった。
イワレビコは、反射的にその槍を右手で掴んだ。
重い。
だが、剣とは違う。
槍の柄を通じて、大地の感触が掌に伝わってくる。
剣は自分の内に闇を溜め込む武器だが、槍は自分の外にある敵を、遠くから射止めるための道具だ。
「……タケミカヅチの槍は、一振りで十人を殺した」
イワレビコは掠れた声で呟いた。
黄金色だった左目は、今や濁った灰色に沈んでいる。だが、その瞳に映る景色は、かつてよりずっと鮮明だった。
「……あいつに届くには、剣じゃ短すぎる。……一歩でも、一寸でも、遠くから奴の心臓を穿たねば、俺たちに勝機はない」
イワレビコは、折れた槍の穂先を、迫りくる銀の猟犬へと向けた。
左腕がない。重心が安定しない。
だが、彼は右足を深く引き、全身のバネを槍の「点」へと集中させた。
――突き。
それは、技と呼ぶにはあまりに不格好で、しかし凄まじい執念を孕んだ一閃だった。
猟犬の眉間に、鉄の穂先が吸い込まれる。
神の眷属の硬い皮膚を、イワレビコの「海の血」が混じった殺意が、力任せに突き破った。
「……、が」
仕留めた。
剣で喰らうのではなく、槍で「拒絶」したのだ。
「……これだ」
イワレビコは、自らの右腕に伝わる強烈な反動を噛み締めた。
左腕という「怪物」を失い、彼は改めて知った。自分はただの人間であり、人間が神という天災を止めるには、命を懸けてその「間合い」を支配するしかないのだと。
「……その槍。……マカツの蔵に眠っていた、あの『錆びた穂先』を付け替えれば、あるいは……」
スイゼイが、朦朧とする意識の中で呟いた。
かつて、海神の血族が天を突くために鍛え、あまりの重さに誰も扱えなかったという伝説の槍――**【天の沼矛】**の残骸。
「……戻るぞ。マカツへ」
イワレビコは、折れた槍を杖代わりに立ち上がった。
背後の闇に、フツノミタマを置き去りにして。
それは、復讐の手段を変えるという宣言だった。
己を蝕む「黒剣」との決別。
そして、神の象徴である「槍」を以て神を討つという、皮肉に満ちた宣戦布告。
「ニニギ、スイゼイ。……俺を支えろ。……次は、逃げん」
夕闇の荒野に、三つの影が這うように進み出す。
神に逆らえないと宣告されたその地で、片腕の王は、空を穿つための一条の光を手にしていた。




