第21話
音が、消えていた。
マカツの荒野に広がっていたのは、静寂という名の暴力だった。
タケミカヅチが放った一撃は、大気を、音を、そしてそこにいた者たちの「命」を等しく消滅させた。後に残ったのは、ガラス状に溶けて固まった巨大なクレーターと、立ち込める不快なオゾンの臭いだけだ。
「……あ、……ぁ」
泥の中に顔を埋めたまま、イワレビコは肺に残った僅かな空気を吐き出した。
激痛すら、もう遠い。
全身の神経が焼き切られ、脳が「痛み」という信号を受け取ることを拒否している。
彼はゆっくりと、動かない指先を土に食い込ませ、顔を上げた。
視界の左半分が、真っ暗だった。
フツノミタマと一体化し、神を屠ってきた自慢の「黒い左腕」は、肩の付け根から無造作に消し飛ばされていた。焼けた肉の断面から、黄金色の火花が時折、弱々しく散っている。
「……逃げたか。……それとも、殺す価値もないと……捨てられたか」
視線の先。
タケミカヅチの姿は、もうどこにもない。
あれほどの絶望を撒き散らした男は、一瞥もくれずに天へと帰ったのだ。道端の石を蹴り飛ばした男が、その石がどこへ転がったかを確認しないのと同じように。
「イワレビコ……ッ! おい、生きてるか!!」
瓦礫の山が崩れ、血まみれのニニギが這い出してきた。
彼の左腕もまた、タケミカヅチの余波で無惨に砕け、力なくぶら下がっている。大楯は熱で完全に溶け、右手に張り付いたまま離れない。
「ニニ……ギ……」
「喋るな。……酷いな、こりゃあ。……全部、消えちまった」
ニニギが周囲を見渡す。
誇り高きマカツの精鋭たち。イワレビコの背中を信じて盾を並べた二十人の男たち。
一人も、いない。
死体すら残っていない。ただ、彼らが持っていた鉄の破片が、あちこちで赤く熱を持って転がっているだけだ。
「……術も、効かなかった」
スイゼイが、泥水を吐き出しながら立ち上がった。
彼の瞳からは光が失われ、その両耳からは絶えず黒い血が流れ落ちている。神の絶対的な「法」に触れた代償。シャーマンとしての精神は、今、半分壊死していた。
「あいつは……武神じゃない。……タケミカヅチは、この世界の『重力』や『時間』と同じ……避けられぬ、抗えぬ、ただの『真実』だ。……人間が神に勝つなど、最初から……」
「……黙れ、スイゼイ」
イワレビコが、右腕一本で大地を押し、這い上がった。
「……まだ、……心臓が動いている」
彼は、足元に転がっていた【フツノミタマ】を見つめた。
腕と共に吹き飛ばされたはずの黒剣は、主を追うように、泥の中に刺さっていた。
刃は欠け、あれほど猛り狂っていた闇の拍動も、今は消え入りそうなほどに細い。
「腕を……食わせすぎたか。……すまない、フツノミタマ」
イワレビコは、右の手のひらで、黒い刃を握りしめた。
斬れる。血が流れる。
その痛みだけが、彼がまだ「人間」であることを証明していた。
「……ニニギ。……スイゼイ。……立つのだ」
イワレビコの声は、ひどく掠れていた。
だが、その右目に宿る光は、神に敗北する前よりも、ずっと昏く、深く、底知れぬ「怨念」を孕んでいた。
「……俺たちが、人間だというのなら。……理不尽に抗って、死ぬまで足掻くのが、人間の……『法』だろうが」
空の亀裂は、もう閉じていた。
皮肉なほどに美しい青空が、彼らを見下ろしている。
イワレビコは、失った左肩を右手で押さえ、天に向かって唾を吐いた。
ここからだ。
王でもなく、怪物でもなく、ただの「死に損ないの人間」たちが、天を地獄へ引きずり下ろすための、真の戦争が始まる。




