第18話
勝利の味は、砂を噛むようだった。
東の回廊を灰にした一行は、さらに北の荒野へと進んでいた。
イワレビコの歩みは止まらない。彼の左半身を覆う黒い鱗は、今や首の筋を網の目のように這い上がり、左耳の形さえも尖った獣のそれへと変えつつあった。
彼が吐き出す息は白く、しかしそこには海水が腐ったような、重く冷たい湿り気が混じっている。
「……イワレビコ、少しは休め。……おい、聞いてんのか」
後ろを歩くニニギが、血のついた手で彼の肩を掴んだ。
その瞬間、イワレビコが反射的に【フツノミタマ】を抜き放ち、ニニギの喉元に突きつけた。
黒い刃から溢れる殺意が、ニニギの肌をチリチリと焼く。
「……触るな。……次は、斬る」
イワレビコの右目——辛うじて人間として残された瞳——に、一瞬だけ激しい後悔が走る。だが、黄金色に染まった左目は、親友をただの「動く肉」としてしか捉えていなかった。
「……っ。ああ、そうかよ」
ニニギは手を離し、苦々しく吐き捨てた。
二人の間に流れていた信頼という温もりは、神を殺すごとに削り取られ、今や殺伐とした「刃」の空気だけが残されていた。
「……無駄な争いはよせ。獲物が、まだ生きているぞ」
スイゼイが、傷ついた肩を抑えながら前方のクレーターを指差した。
破壊された拠点の中心。
瓦礫に下半身を押しつぶされた一柱の神兵が、黄金の血を流しながら横たわっていた。幹部クラスに近い、高位の神だ。
イワレビコは音もなく歩み寄り、その神の胸元に黒い爪を立てた。
「拠点は二つ壊した。……次はどこだ。天の玉座は、どこにある」
神は、苦痛に顔を歪めることはなかった。
それどころか、彼はイワレビコの異形の姿を見て、くつくつと喉を鳴らして笑い始めたのだ。
「……はは、は……。哀れな。……泥を喰らい、己を捨て、そこまでして届いたつもりか」
「何が……おかしい」
「拠点を二つ? ……虫ケラよ、お前が壊したのは、我らが地上を掃除するために置いた『塵取り』に過ぎぬ。天の広大さを、一欠片も理解しておらぬのだな」
神の瞳に、深い憐憫の色が浮かぶ。
「お前が『海の血』に目覚めたところで、それは所詮、地の底の澱み。……真なる天の意志、武の絶対権現が動けば、その黒い夢も一瞬で蒸発する」
「……誰のことだ」
「将軍、タケミカヅチ。……彼が腰を上げた時、お前たちは知るだろう。神とは、倒すべき敵ですらなく、ただ『そこに在るだけで死を強いる法則』であることを……」
神の身体が、内側から黄金の光を放ち始めた。自爆。
イワレビコは無造作に神の首を跳ね、その光を黒い腕で握りつぶした。
神は死んだ。
だが、その最期の笑い声が、耳の奥から離れない。
「……タケミカヅチ。……その名、知っているのか、スイゼイ」
イワレビコが、重い口を開いた。
スイゼイの顔から、さらに血の気が引いていた。シャーマンである彼は、その名の響きだけで、これから来る「終焉」の重圧を誰よりも敏感に感じ取っていたのだ。
「……天の執行者だ。……カグヤマやワカヒコが『狩人』なら、あいつは『断頭台』そのものだ。戦うという概念すら成立しない……。現れた瞬間、すべてが『終わる』と言われている」
その時。
雲ひとつないはずの夜空が、一瞬、青白く光った。
雷鳴は聞こえない。
だが、大気中の水分がすべて沸騰したかのような、異様な「静電気」が一行の肌を刺した。
イワレビコのフツノミタマが、恐怖に震えるように、これまでにないほど激しく鳴動する。
「……来たな」
イワレビコは、黒く染まった指先を天に向けた。
遥か上空。そこには亀裂も、戦船もなかった。
ただ、一筋の「純白の雷」が、静かに、しかし確実にマカツの地へと狙いを定めていた。
神々の余裕。
「上には上がいる」という冷酷な事実が、マカツの希望を音もなく削り始めていた。




