第16話
北の断崖を包んでいた空気が、一変した。
それは湿り気を帯び、鉄の匂いと、どこか塩辛い潮騒の香りを孕んでいた。イワレビコの足元から広がる黒い影は、もはや光の反射が生む物理現象ではない。それは天の光を拒絶し、すべてを等しく沈める「深海の闇」そのものだった。
「……目障りな影だ。天の光に、影など不要」
空中を舞うアメノワカヒコが、二の矢を番える。
今度は一本ではない。神の魔力が込められた八本の銀矢が、扇状に広がり、逃げ場を塞ぐようにイワレビコを強襲した。
「イワレビコ、避けろ!」
ニニギが叫ぶ。だが、イワレビコは一歩も動かない。
「……沈め」
イワレビコが低く呟くと、彼の周囲の空間が目に見えて「歪んだ」。
放たれた八本の矢が、イワレビコの手前に差し掛かった瞬間、まるで見えない巨大な重石を乗せられたかのように、軌道が急激に下へと折れ曲がったのだ。
銀矢は地面に突き刺さることさえ許されず、黒い影の中に吸い込まれ、そのまま圧壊した。
「何だと……? 我が矢の慣性を殺したのか!?」
「……お前の矢は、軽すぎる」
イワレビコの声は、まるで数千メートルの深海から響いてくる地鳴りのようだった。
「ここはもう、お前たちの『空』じゃない。……俺の『底』だ」
イワレビコが地面を蹴った。
爆発的な跳躍。しかしそれは、これまでの俊敏な動きとは異なっていた。彼の背後に立ち上る黒い霧が、まるで巨大な尾鰭のように大気を掻き、推進力を生んでいる。
「当たらぬと言ったはずだ!」
ワカヒコは光の鷲を操り、さらに高度を上げた。狩人の定石――間合いを保ち、疲弊を待つ。
だが、ワカヒコの計算は「海の血」の異常性を捉えきれていなかった。
イワレビコが空中で【フツノミタマ】を横に一閃する。刃は空を切ったはずだった。だが、剣先から放たれたのは斬撃ではなく、「重圧」の塊だった。
「ぐ、あぁッ!?」
突如として、ワカヒコと光の鷲に、数倍の重力がのしかかる。
空を飛ぶための揚力が物理的に押し潰され、優雅な狩人は無様に高度を落とした。
「おのれ……人間ごときが、この私を地に引きずり下ろそうというのか!」
ワカヒコは着地際、最後の足掻きとして、ニニギとスイゼイに向けて矢を放った。
イワレビコを直接討てぬなら、その「足枷」を狙う。神の冷酷な合理性だ。
「させねえよッ!!」
ニニギが真っ赤に焼けた大楯を掲げ、光の矢を正面から受け止める。
だが、ワカヒコの放った「天の追撃矢」は、楯を掠めてスイゼイの肩を深く貫いた。
「が、あぁッ……!」
スイゼイが血を吐き、膝をつく。
その瞬間、戦場を支配していた「潮騒」の音が、狂ったような「怒号」へと変わった。
「……あ」
ニニギは、見てしまった。
スイゼイが傷ついた瞬間、イワレビコの全身から溢れ出した黒い霧が、もはや制御を失った「触手」のように蠢き、周囲の岩石を粉砕していく様を。
「……消えろ。光ごと、すべて」
イワレビコがワカヒコの眼前に現れた。
その顔の左半分は完全に黒い鱗に覆われ、黄金の瞳が爛々と輝いている。
ワカヒコは恐怖に顔を歪め、短剣を抜こうとしたが、遅すぎた。
イワレビコの黒い爪が、ワカヒコの光の翼を鷲掴みにし、そのまま根元から「引きちぎった」。
「ぎゃあああああああッ!!」
神の絶叫が断崖に響き渡る。
イワレビコは冷徹に、フツノミタマを逆手に持ち替えた。
剣が、神の肉を求めて歓喜の鳴動を上げる。
「待て、イワレビコ! 止めろ!」
スイゼイを抱えながら、ニニギが叫ぶ。
「そいつをそんな風に殺したら……お前、本当に戻れなくなるぞ!!」
イワレビコの動きが、一瞬だけ止まった。
黄金の瞳が、僅かに揺れる。
だが、彼の耳に届いたのは、ニニギの声ではなく、血脈の奥底で渦巻く「数千年の怨嗟」だった。
――殺せ。
――喰らえ。
――天を、地の底へ。
「……俺は、もう……戻る場所なんて……ないんだ」
黒い刃が、アメノワカヒコの胸を真っ向から貫いた。
ワカヒコの身体が、黒い霧に侵食され、黄金色の血を撒き散らしながら灰へと変わっていく。
イワレビコはその灰を浴びながら、力なく立ち尽くした。
彼の左腕から始まった黒い浸食は、今や首筋を超え、心臓の鼓動を黒い毒へと塗り替えていた。




