第15話
雲海を貫き、天の頂に座す白金の神殿。そこでは、地上の喧騒とは無縁の「冷たい均衡」が支配していた。
円卓を囲むのは、天の法を司る七柱の幹部たち。その中心で、一柱の神が報告を終え、深々と頭を下げた。
「……アメノカグヤマが討たれ、北の『楔』が沈黙しました。相手は、マカツの残党。中心にいるのは、イワレビコと名乗る男です」
議場に、微かな、しかし鋭いざわめきが走った。神にとって、同胞の死は「悲しみ」ではなく、世界の計算式に生じた「致命的なエラー」に等しい。
「なぜ、虫ケラが神を殺せる? あれはただの清掃のはずだ。人間ごときの鉄の刃が、我らの理を穿つはずがない」
最奥に座す老神が、重苦しく問いかけた。その問いに応じたのは、影の中から現れた記録の神だった。
「……血筋です。あの男の奥底には、忌むべき**『海の血』**が流れている」
「海の血だと?」
「左様。かつて天の光を拒み、深淵の闇に魂を売った反逆の民――海神の末裔。彼らは千年前、天への反旗を翻し、地底へと追放されたはずでした。だが、その呪われた種火は、マカツという小国の中で細々と受け継がれていたようです」
海の血。それは神の光が届かぬ深海、絶対的な重圧と暗黒の中で鍛えられた、神を拒絶する「不純物」の呼称だ。
「道理で、フツノミタマを抜けるわけだ。あの黒剣は、同じく天に背いた者の魂にしか呼応せぬ」
「……放置できぬな。タケミカヅチを動かすまでもない。アメノワカヒコ。貴様に、その『出来損ないの海』を干上がらせる権利を与えよう」
議場の端で、一柱の若き神が静かに立ち上がった。その手には、標的をどこまでも追い続ける「天の狩弓」が握られていた。
神々の会議が知る由もなく、地上ではイワレビコが、自らの肉体に起きている「変異」と戦っていた。
破壊した『霊脈の楔』から溢れ出した膨大なエネルギーは、彼の黒い左腕に全て吸い込まれていた。フツノミタマが、持ち主の制御を離れて勝手に拍動を繰り返している。
「……、がぁッ!!」
イワレビコは膝をつき、岩を砕くほど左拳を地面に叩きつけた。
浸食はもはや顎の下を通り越し、左目周辺の皮膚までもが硬質化した黒い鱗に覆われている。視界の半分が、赤黒い「熱」の感覚へと書き換えられていく。
「イワレビコ! しっかりしろ、意識を持っていかれるな!」
ニニギが駆け寄ろうとするが、スイゼイがその胸を片手で制した。
「近寄るな、ニニギ。今あいつに触れれば、お前も『深淵』に引きずり込まれるぞ」
「深淵だと……? 何の話をしてやがる!」
「……血だ。あいつの中で眠っていた『神を拒む記憶』が、楔の力を喰らって目覚めかけている。あれはもう、マカツの王じゃない。神を喰らうために最適化された、古代の怪物の姿だ」
スイゼイの言葉通り、イワレビコの背中から、黒い霧が翼のような形を成して噴き出した。
「……ああ……聞こえる」
イワレビコの口から、地鳴りのような低い声が漏れた。
「海の底の……暗い、波の音が。……あいつらを、一人残らず引きずり込めと……叫んでいる」
彼が顔を上げた。
黄金色の左目は、今や瞳孔が縦に裂け、人ならざる捕食者のそれへと変貌していた。
その時。
遥か上空から、一筋の銀色の閃光が降り注いだ。
「――見つけたぞ。天を汚す不純物め」
空中。光り輝く巨大な鷲に跨り、新たな刺客、アメノワカヒコが弓を引いていた。
放たれた一矢は、空気を引き裂き、音速を超えてイワレビコの心臓へと突き進む。
だが、イワレビコは動かなかった。
回避も、防御もせず、ただ、黒い左腕を無造作に突き出した。
――バヂィィィィィンッ!!
神の必殺の矢を、彼は「素手」で掴み取り、そのまま握りつぶした。
左腕の鱗から、黒い火花が散る。
「……王?」
ニニギが呆然と呟く。
イワレビコは、ゆっくりと空中に浮いているアメノワカヒコを見上げた。
その顔に、以前のような「怒り」はない。ただ、腹を空かせた獣が、上質な肉を見つけた時のような、純粋で残酷な「歓喜」だけがあった。
「……次の飯か。丁度いい、喉が渇いていたところだ」
イワレビコの足元の地面が、一瞬で真っ黒な「泥」のように溶け出した。
それは影であり、同時に神を飲み込むための「墓標」でもあった。
反逆の第二幕。
「海の血」に目覚めた怪物が、天の狩人を迎え撃つ。




