第14話
北の断崖。そこは、大地の脈動が天へと吸い上げられる、世界の「傷口」のような場所だった。
垂直に切り立った崖の頂には、巨大な水晶の杭が突き立てられている。それが『霊脈の楔』だ。杭は一定の間隔で脈動し、周囲の空間から色彩を奪い、純粋な光のエネルギーへと変換して天へ送り続けていた。
「あれが、神軍の動力源か……」
ニニギが、大楯の影からその光景を盗み見る。
楔の周囲には、黄金の鎧に身を固めた神兵が百騎以上。これまでの偵察隊とは格が違う。彼らは微動だにせず、ただ機械的な秩序をもってその場を「管理」していた。
「……これから俺が、奴らの『論理』を狂わせる。効果は数十秒。その間に、王、お前が楔を叩け」
スイゼイが、外套の中から錆びついた真鍮の鈴を取り出した。
彼は迷うことなく自らの手首を小刀で切り裂き、溢れ出す鮮血を鈴に滴らせた。
「おい、何を……」
ニニギが絶句する。スイゼイの血は、どす黒く濁り、まるで意志を持っているかのように鈴の表面を這い回っていた。
「神の声を聞くには、人間としての理性を捨てる必要がある……。黙って見ていろ」
スイゼイが鈴を振る。
チリン、チリン――。
その音は、耳を塞ぎたくなるほど不快で、この世のものとは思えぬ不協和音を奏でた。
その瞬間、神兵たちの動きが止まった。
彼らの黄金の鎧が不規則に点滅し、一糸乱れぬ陣形が、まるで壊れた絡繰りのように崩れ始める。
「今だ。行け……死にたくなければな」
「……ニニギ、突入するぞ!」
「おうッ!!」
イワレビコとニニギ、そしてマカツから付いてきた数少ない精鋭たちが、一気に断崖を駆け上がる。
イワレビコは【フツノミタマ】を抜き放った。黒い刃が光のエネルギーを吸い込み、黒い稲妻を散らす。
「不浄なる……ノイズが……」
一騎の神兵が、震える手で光の槍を構えようとする。だが、スイゼイの呪術によってその動作は極端に遅れ、焦点も定まっていない。
イワレビコは黒い左腕で神兵の首を掴み、そのまま握りつぶして突き進む。
だが、神の拠点は甘くなかった。
「楔に触れさせるな。全滅を以て清めよ」
スイゼイの干渉を強引に跳ね除け、十数騎の神兵が正気を取り戻した。
彼らが放つ光の矢が、イワレビコの背後に続くマカツの兵たちを襲う。
「ぎゃああああッ!」
「助けて……くれ……!」
昨日まで共に泥水を啜ってきた仲間たちが、一瞬にして光に焼かれ、灰となって消えていく。
ニニギが大楯で防ごうとするが、多方向からの狙撃は防ぎきれない。
「止まるな! 楔を壊さなければ、全員死ぬぞ!!」
イワレビコは、背後の悲鳴をあえて耳から排除した。
一歩でも立ち止まれば、死んだ者たちの犠牲が無駄になる。
王の心は、フツノミタマの冷たさに呼応するように、急速に凍りついていった。
「そこだッ!!」
イワレビコは跳躍した。
巨大な水晶の楔の前に、スイゼイが血を吐きながら叫ぶ。
「イワレビコ! そこに……神の『心臓』がある! 黒剣を、その中枢へ叩き込め!」
イワレビコは全身の筋肉を軋ませ、フツノミタマを上段から振り下ろした。
黒い刃が水晶の表面に触れた瞬間、世界が、静止した。
――カァァァァァァンッ!!
水晶の楔が、内側から黒く腐食し始める。
霊脈のエネルギーが逆流し、周囲一帯に凄まじい衝撃波が吹き荒れた。
神兵たちが、その「供給源」を断たれた衝撃で膝をつく。
イワレビコは着地し、荒い息をつきながら振り返った。
そこにあったのは、勝利の光景ではなかった。
生き残った仲間は、ニニギとスイゼイ。そして、瀕死の兵が数人のみ。
後の者はすべて、この一瞬の隙を作るための「肉の壁」となって消えていた。
「……勝ったぞ。楔は壊した」
スイゼイが、顔中の穴から血を流しながら、自嘲気味に笑った。
その視線の先で、破壊された楔の破片が、冷たく地面を埋めていた。
イワレビコは、自分の黒い左腕を見つめた。
楔を破壊した衝撃か、浸食は今や首の付け根を越え、顎のラインまで這い上がっている。
仲間を捨て、人間性を削り、手に入れた最初の「拠点破壊」。
それは祝杯を挙げるにはあまりに血生臭く、そして虚しい戦果だった。
「……次だ。スイゼイ。次の楔はどこだ」
イワレビコの声には、もはや一欠片の迷いもなかった。
死んでいった者の名前さえ呼ばないその横顔に、ニニギは、神よりも恐ろしい「何か」の誕生を予感していた。




