第13話
フツヌシが去った後のマカツは、死よりも重い沈黙に支配されていた。
神の「本気」の片鱗を見せつけられた民たちは、もはや平伏する気力さえ失い、ただ壊れた人形のように瓦礫の中に座り込んでいる。
「……あいつは、また来る」
イワレビコは、血に汚れた手を焚き火にかざしながら呟いた。
右肩の刺突痕は、神の呪いか、治癒を拒むように黒く変色している。フツノミタマの浸食と、フツヌシに刻まれた傷。イワレビコの身体は、内と外から「神殺しの代償」に蝕まれていた。
「次は俺の盾も持たねえ。……イワレビコ、何か手はねえのか」
ニニギが、無惨に切り裂かれた大楯を研ぎながら訊いた。
答えはなかった。力で届かぬのなら、智で穿つしかない。だが、神という理不尽の構造を、この地の人間は誰も知らない。
「――神の肉を裂く方法は知っていても、神の『家』の壊し方は知らぬようだな」
闇の中から、不意に声が響いた。
ニニギが即座に大楯を構え、イワレビコが黄金の左目で影を射抜く。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
戦士のような荒々しさはない。煤けた灰色の外套を纏い、顔の半分を深いフードで隠している。だが、その隙間から覗く瞳は、感情を削ぎ落とした氷のように冷たく、昏い。
「何者だ」
「名は、スイゼイ。……かつて、天の足元で神の靴を磨いていた男だ」
男――綏靖は、嘲笑うような足取りで焚き火の傍まで歩み寄ってきた。
オオクメが、その名を聞いて顔色を変える。
「スイゼイ……まさか、西の果てで神に反旗を翻し、一国を灰にしたという『裏切り者の祭司』か!?」
「祭司、か。……古臭い呼び名だな。俺はただ、神の化けの皮を剥ごうとして、返り討ちにあった死損ないに過ぎん」
スイゼイは、イワレビコの黒く変質した左腕を、無造作に掴んだ。
冷たい。その指先からは、生きている人間とは思えぬほどの虚無が伝わってくる。
「……フツノミタマ。よくもそんな呪物を引き抜いたものだ。お前の命、持ってあと数節といったところか」
「貴様に、何がわかる」
「わかるさ。神を殺すには、神の『法』を知らねばならん。お前がやっているのは、嵐に向かって闇雲に剣を振っているのと同じだ。……教えてやろうか。神軍の拠点がどこにあり、奴らが何を恐れているかを」
スイゼイの言葉に、場が凍りついた。
神の拠点を叩く。それは「待つ」だけの防衛戦から、こちらから地獄へ踏み込む「侵略」への転換を意味する。
「なぜ、俺たちに手を貸す」
イワレビコが、スイゼイの胸倉を掴み上げた。
「俺一人の憎しみでは、神の椅子には届かなかった。……だが、その黒い腕を持つお前という『火種』があれば、天を焼き尽くす大火になるかもしれない」
スイゼイは、首を絞められながらも、薄気味悪い笑みを浮かべた。
その瞳の奥にあるのは、正義でも救済でもない。神という絶対者を、自分と同じ泥の中に引きずり下ろしたいという、底なしの「怨恨」だった。
「信じられるか、こんな奴!」
ニニギが吐き捨てる。
「信じる必要はない。……だが、今のままではフツヌシが次に来た時、お前たちは全員、綺麗な灰になる」
スイゼイは外套の中から、一枚の奇妙な「地図」を取り出した。
それは人間の羊皮紙ではない。半透明の膜のようなものに、光る筋が脈動するように描かれている。神の国の縮図。
「北の断崖。そこに、神軍が地上の霊脈を吸い上げるための『楔』がある。そこを壊せば、神の鎧は一時的にその輝きを失う。……お前の黒い剣なら、その心臓を貫けるはずだ」
イワレビコは、スイゼイを放した。
この男は、毒だ。
関われば、自分たちもまた、取り返しのつかない闇に染まるだろう。
だが。
「……案内しろ。スイゼイ」
「殿! 罠かもしれませんぞ!」
オオクメの制止を、イワレビコは片手で制した。
「罠なら、その時あいつの首を飛ばすだけだ。……座して死ぬより、毒を喰らってでも前に進む」
スイゼイは、深くフードを被り直した。
「賢明な判断だ、イワレビコ。……歓迎しよう。地獄の最前列へ」
新たな「欠片」が加わった。
王、盾、そして案内人。
マカツの灰の中から、神の喉元を狙う「牙」が、本格的にその形を成し始めた。




