第12話
夜明け前、マカツの廃墟を包んでいたのは、霧ではなく「銀色の殺気」だった。
野営地の外周で見張りに立っていた三人の兵が、声を上げる暇もなく崩れ落ちた。首を跳ねられたのではない。ただ、喉元の細い血管を一筋、産毛を剃るような速さで断ち切られていた。
「……来たぞ。全員、起きろ!」
イワレビコの咆哮が、静寂を破った。
彼は既にフツノミタマを抜き、瓦礫の上に立っていた。黒い左腕が、かつてないほど激しく脈打っている。浸食は既に鎖骨のあたりまで及び、黒い血管のような紋様が首筋を這い上がっていた。
霧の向こうから、一人の男が歩いてくる。
六本足の馬さえ連れていない。重厚な鎧も纏っていない。ただ、雪のように白い着流しを身に付け、腰に一振りの細身の直刀を差した、あまりに「静かな」男だった。
男の顔に、あの不気味な固定された笑顔はない。
ただ、研ぎ澄まされた鏡のような無表情。
「我が名はフツヌシ。将軍タケミカヅチが配下、天の刃なり」
男の声は、風に触れただけで肌が切れそうなほど鋭かった。
彼はイワレビコが持つ黒剣を一瞥し、僅かに眉を動かした。
「……その剣。かつて天が打ち捨てた忌み物。まさか、虫ケラの手にあるとはな。カグヤマが不覚を取った理由が分かった。……不快だ」
フツヌシが動いた。
瞬きをする一瞬、彼の姿が消えた。
「ニニギッ!」
「分かってるッ!」
ニニギが大楯を構え、イワレビコの前に割り込む。
――キィィィィィンッ!
耳を劈く高音が響き、ニニギの鉄楯に一本の白い「線」が走った。
神の光による熱線ではない。ただの、物理的な「斬撃」だ。それも、分厚い鉄の塊を紙のように断ち切らんとする、極限の剣理。
「が、ああッ……重い! なんだこの一撃は……!」
ニニギの巨体が、僅か一太刀で数メートルも後退させられる。
「……盾か。無意味だな」
フツヌシが再び消える。
今度は、ニニギの背後にいた。
「逃がさん!」
イワレビコがフツノミタマを横に払う。黒い影がフツヌシの軌道を追い、大気を腐食させながら迫る。
フツヌシは空中で身を翻し、黒剣の刃を自らの直刀の「面」で受け流した。
火花が散る。
黒と銀。二つの剣が、至近距離で激突した。
「……その腕。既に人ではないな」
フツヌシの冷徹な瞳が、至近距離でイワレビコの黄金の左目を射抜く。
「神を殺すために、自ら毒を喰らうか。……滑稽よな。その剣が貴様の魂を食い尽くすのが先か、我が貴様の首を落とすのが先か。試してみるか?」
フツヌシの直刀が、目にも止まらぬ速さで突きを放つ。
一、二、三。
イワレビコの肩、脇腹、太もも。
フツノミタマを振るう速さを凌駕する、神速の刺突。
「ぐ……っ!」
血が噴き出す。だが、イワレビコは退かない。
傷口から溢れる黒い霧が、フツヌシの白い着流しを蝕み始める。
「道理を説くのが、神の仕事だったか……?」
イワレビコが、獣のような低い声で笑った。
「俺は、お前たちの『速さ』にも『正しさ』にも興味はない。……ただ、当てる。当てれば、殺せる」
イワレビコは、自らの身体をフツヌシの剣線に晒した。
肉を斬らせ、骨を断つ。ハードボイルドなまでの狂気。
直刀がイワレビコの右肩を貫いた瞬間、彼は左手の黒い爪でフツヌシの胸倉を掴んだ。
「捕まえたぞ……フツヌシ」
フツノミタマが、持ち主の命を削りながら、最大級の闇を纏って振り下ろされる。
「……なるほど。確かに狂っている」
フツヌシは、貫かれた自らの直刀を捨て、素手でイワレビコの胸を突き飛ばした。
その衝撃だけでイワレビコは吹き飛ばされ、瓦礫に激突する。
フツヌシは無傷。だが、彼の着流しの袖が黒く焼け焦げ、消え去っていた。
「一太刀、我の装束に触れたか。……誉めてやろう、死人よ」
フツヌシは、地面に落ちた直刀を指先一つで手元に呼び戻した。
彼は追撃の手を止め、空を仰いだ。
「刻限か。……タケミカヅチ様がお呼びだ」
空に、再び巨大な亀裂が走る。
フツヌシは、ゴミを掃いた後のような淡々とした様子で、イワレビコを見下ろした。
「次は、首を貰う。……それまで、その剣に食われぬよう、精々抗うがいい」
銀色の閃光と共に、フツヌシの姿が消えた。
後に残されたのは、血まみれのイワレビコと、深く切り裂かれたニニギの盾。
そして、神軍の「本気」を目の当たりにし、腰を抜かして動けない民たちの沈黙だけだった。
「……ニニギ。生きてるか」
「ああ。……だが、次はねえぞ、イワレビコ。あいつ、まだ遊んでやがった」
イワレビコは、震える右手で黒剣を地面に突き立てた。
勝てなかった。
刺客一人、仕留めることさえ叶わなかった。
だが、その瞳に宿る黄金の炎は、以前よりも一層、暗く深く燃え上がっていた。




