「馬の檻(おり)」後編
*** 廃倉庫 朝 ***
「じゃあ、始めるね。ウィリアム、ズボンを脱いで」
「は?」
「躍進の調教だよ。任意でパカラ化できるようにならないと、君はいつ暴走するかわからない爆弾のままだ。まずは現状把握。下、見せて」
「ユズト、おまえ昔っからそういうとこあるよな。さらっとえげつないこと言う」
「褒め言葉として受け取っておく」
ミユは無言で背中を向けて、机の上の《P型剃刃》の手入れを始めた。耳の先がほんのり赤い。
ウィリアムが渋々ズボンを下ろす。布の下から現れた下腹部は、見た目こそ普通の十六歳のそれだったが、根元の皮膚にうっすらと、茶色い毛が三本、四本と、新しく生え始めていた。
「……増えてる」
「げっ。マジで言うなよ」
「君の意思とは無関係に、躍進は少しずつ表に出てこようとしてる。良くない兆候だ。でも逆に言えば、君が意識すれば、もっと早く出せるはずだ」
「出したくねえよ」
「出さないと君は死ぬ。憲兵団は今頃もう砦に着いてる」
ウィリアムは観念して、寝台に腰を下ろした。
「で、どうすりゃいい」
「目を閉じて。あの瞬間を思い出してくれ。パカラの腹の中で、君が『駆逐してやる』と決めたあの瞬間を」
「……」
「君の中で、何かが反応するはずだ」
ウィリアムは目を閉じた。
暗い、生温かい、酸の匂いのする胃袋。仲間の溶けた指。母さんの顔。父さんの手にあった塩。──駆逐してやる。一匹残らず。
ぞわり。
下腹の奥で、躍進が頭を起こした。今度ははっきりとわかった。何かが、自分の血管を逆流して上がってくる。
「来てる!来てるよウィリアム、その調子!」
「うっ……ぐっ……」
「ミユ、こっち見ないで!」
「見てないっ!」
ぼこり、と音がした。
ウィリアムの股間から、茶色い毛に覆われた一メートルほどの馬の首が、にゅるりと這い出した。先端の馬の頭部が、ぱち、と目を開け、きょろきょろと倉庫を見回した。
「で、出た……」
ミユが思わず振り返って、また慌てて顔を背けた。
「ヒヒン」
馬が小さく啼いた。
「……思ったより、かわいい」
ミユが小声で呟いた。
「かわいくねえよ!俺の股から馬が生えてんだぞ!」
「ウィリアム、その子と意思疎通してみて。手綱を握るんだ」
「手綱なんかねえよ!」
「比喩だよ!」
馬の頭部が、ウィリアムをじっと見上げた。黒い瞳に、ウィリアム自身の顔が映っていた。
(……お前、俺か?)
ウィリアムは心の中で問いかけた。
馬は、こく、と頷いた。
(俺たちは、同じ方を向いてるんだよな?)
もう一度、こく。
(じゃあ、引っ込め。今は出る時じゃねえ)
馬は名残惜しそうにウィリアムの腹に頬擦りをして、するすると元の場所に戻っていった。茶色い毛が三本、寝台の上に落ちた。
「成功だ……信じられない」
ユズトが呆然と呟いた。
「君は、意思で躍進を制御できる。これは人類史を書き換える発見だ」
「俺の股がか?」
「君の股がだ」
*** 砦本部 同時刻 ***
「ごほっ、ごほっ。いやはや、ひどい風邪での。喋るのもつらい」
ヒクシスは机に突っ伏したまま、王都から到着した憲兵団特務班長を出迎えた。鼻には大根おろしを詰め、顔には小麦粉を薄く塗ってある。完璧な病人である。
「ヒクシス指令、ウィリアム=アシュトンの引き渡しを求める。書類はこれだ」
「ああ……署名は、ケネディ統括団長の許可がいるのう……あの方も、ごほっ、風邪での……」
「ふざけているのか」
「ふざけとらんよ。本当に風邪なんじゃ。なんなら、君もうつるかもしれんな。ごほっ」
特務班長の顔が引きつった。
「……被験体の容態は」
「昨夜、息を引き取った」
「は?」
「パカラ化の反動でな。心臓がもたんかった。遺体は感染リスクの観点から、ケネディ統括団長の判断で焼却処分済みじゃ」
「勝手なことを!証拠は!」
「そこに、灰の壺がある」
机の隅に、確かに、小さな陶器の壺が置いてあった。中身はもちろん、昨晩ヒクシスが暖炉から掻き出した、ただの薪の灰である。
特務班長は壺を睨み、ヒクシスを睨み、それからもう一度壺を睨んだ。
「……王都に報告する。ただではすまんぞ」
「ごほっ、ごほっ、お大事に」
特務班長が憤然と退室した後、ヒクシスはゆっくりと顔を上げ、鼻から大根おろしを抜いた。
「クーパー殿、聞いとったか」
部屋の隅の本棚の裏から、ケネディがするりと姿を現した。
「見事な咳じゃった」
「お主の入れ知恵じゃろうが」
「私は何もしておらん。風邪をひいておったからな」
二人は声を殺して笑った。
*** 廃倉庫 昼 ***
「ユズト、これ、見て」
ミユが机の上の古びた本を指さした。ユズトの祖父の遺品である禁書『馬刺し料理大全』。あの三人が幼い頃、路地裏で開いたあの本だ。ユズトはここに持ち込んでいた。
「どうした?」
「このページの隅、変な模様があるの。料理の本にしては、不自然」
ユズトが顔を寄せる。レシピの欄外に、小さく、点と線の組み合わせが規則的に並んでいた。
「……これ、暗号だ」
「読めるの?」
「祖父が、子供の頃に教えてくれた古い符牒だ。憲兵に見つからないように本を残すための……」
ユズトは指で点と線を追った。眼鏡の奥の瞳が、見る見る大きくなっていく。
「……嘘だろ」
「なに?」
「『パカラの肉は、塩によって萎える。塩を恐れぬ個体あり。これを《王》と呼ぶ。王は人語を解し、人を選びて喰らう。砦の祖、これを封じたる地、北方の塩の湖』」
ウィリアムが息を呑んだ。
「塩の湖……ユズト、お前、前に俺に言ったよな。『塩水でできた湖を見にいくんだろ』って。あれ……」
「祖父から聞いた話の受け売りだったんだ。けど、ただの夢物語じゃなかった」
「《王》。それが、あの超大型パカラの正体ってことか?」
「可能性は高い。そして、もし百年前に『封じられた』ものが、何らかの理由で目覚めたのだとしたら……あの日の襲撃は、ただの周期じゃない。始まりだ」
倉庫の中に、重い沈黙が落ちた。
やがてウィリアムが、ぽつりと言った。
「俺の親父、失踪する前、よく『北』って言ってた。『北に行けば全部わかる』って。母さんが死んだ後、ずっとブツブツ呟いてた。俺に塩をかけようとしたのも──」
ウィリアムは自分の手を見つめた。
「──もしかしたら、俺の中の何かが、もう、あの頃から動いてたのかもしれねえ」
「ウィリアム……」
「親父を探す。北の、塩の湖まで行く。そこに《王》がいるなら、ぶっ殺す。親父がそこにいるなら……話を聞く。それだけだ」
ユズトが頷いた。ミユも頷いた。
「決まりだ。遊撃班『躍進』、最初の任務は北方調査。出発は今夜」
「装備は?」
「ヒクシス指令が、廃倉庫の地下にもう用意してくれている。馬車一台、立体機動装置一式、《P型剃刃》予備、食料二週間分。それと──」
ユズトは、机の引き出しから小さな麻袋を取り出した。中身がじゃり、と音を立てる。
「塩。三キロ」
「それ、俺にかけるんじゃねえだろうな」
「君が暴走したら、ためらわずかける」
「ユズト、お前マジで容赦ねえな……」
「君の親友だからね」
*** 砦北門 深夜 ***
月のない夜だった。
北門の通用口に、一台の幌付き馬車が静かに停まっていた。御者台にはユズト、荷台にはミユ、そして藁の山に半ば埋もれたウィリアムがいた。股間にはきつめのさらしが巻かれている。躍進が勝手に出てこないようにするための応急措置だった。
「出発の前に、これを」
暗がりから、ヒクシスとケネディが歩み出てきた。ヒクシスはもう咳をしていなかった。ケネディは一通の封書をユズトに渡した。
「北方の各駐屯所に対する通行許可証だ。私の名で書いてある。ただし、開けるのは本当に困った時だけにしろ。あまり頻繁に使うと、私が『風邪をひいた』ことが王都にばれる」
「肝に銘じます」
「ウィリアム」
ケネディが幌の中を覗き込んだ。
「君は今夜から、書類上は死人だ。死人にしかできんことがある。やってこい」
「……はい」
「それから、一つだけ覚えておけ。君の中の馬は、君のものだ。誰のものでもない。君が手綱を放さない限り、君は人間のままだ」
ウィリアムは藁の中で、しっかりと頷いた。
「ヒクシスのじいさん、ケネディのじいさん。レッド班長たちのこと──」
「言うな」ヒクシスが手を上げた。「あいつらは、お主らに先を託して死んだ。託された者が、託した者に詫びるな。胸を張って進め」
「……はい!」
ユズトが手綱を握った。馬がゆっくりと歩き出す。北門のくぐり戸が、軋みながら開いていく。
その向こうに広がっていたのは、人類が百年間、ほとんど踏み込めなかった広い広い「外」の世界だった。
暗い荒野の風が、馬車の幌を揺らした。
ウィリアムは藁から半身を起こし、後ろに遠ざかっていく砦の灯りを見つめた。あそこには、まだ眠っている仲間がいる。オーウェンも、オリビアも、アイザックも。生き残った104期の連中が、いつもの宿舎で、いつもの不味い飯を食って、いつもの愚痴をこぼしている。
「待ってろよ」
ウィリアムは小さく呟いた。
「俺たちが帰ってくる時はな、お前らの股からも、もう馬は生えねえ世界にしてやるからな」
「最後の一文、いる?」ミユが横から呆れた声を出した。
「いるんだよ。これが俺たちの大躍進なんだから」
ユズトが御者台で、声を出さずに笑った。
ミユが藁の上で、ウィリアムの肩を、こつんと小突いた。
ウィリアムの腹の奥で、躍進が、満足げに一度だけ嘶いた。
馬車は、北へ。
塩の湖と、《王》の眠る地へ。
失踪した父と、すべての答えのある場所へ。
遊撃班『躍進』の、最初の旅が始まった。




