表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

「馬の檻(おり)」前編

*** 戦後 ウィニペグ地区 第三隔離房 ***

 鉄格子の向こうで、ウィリアムは眠っていた。

 正確には、眠らされていた、というほうが近い。太ももには太い注射の痕が三つ並び、両腕は革のベルトで寝台に固定されている。股間には白い布が厚く巻かれ、その下からはまだ、ぴくりぴくりと、何かが小さく脈打つような気配があった。

「……うなされてる」

 鉄格子の前の丸椅子で、ミユが膝を抱えていた。もう十六時間、この場所から動いていない。食事も運ばれてきた薄いスープを二口だけ飲んで、あとは冷めるに任せていた。

「ミユ、交代するよ。少しは休んでくれ」

 扉の軋む音とともに、ユズトが入ってきた。手には書類の束。表紙には「第104期・ウィリアム=アシュトン 観察記録(極秘)」と殴り書きされている。

「ユズト、その書類……」

「ヒクシス指令が見せてくれた。正確には、僕が頼み込んで、むしり取ってきた、というほうが近いけど」

 ユズトは苦笑いしながら、鉄格子の横の小さな机にそれを置いた。

「読んでいいの?」

「だめに決まってる。だから小声でね」

 ミユは薄く笑った。笑ったのはあの襲撃以来、初めてのことだった。

 ユズトが書類の一枚目をめくる。

 《被験体A-104・身体所見》

 ──陰茎部、平常時7.8cm。触診にて内部に異物確認。X線撮影の結果、海綿体組織とは別に、細長い筋繊維状の塊が尿道に沿って寄生。先端は恥骨内部まで到達。生体反応あり。

 ……なお、異物は宿主の意思と独立して微弱な拍動を行う。

「……生きてるってこと?」

「うん。ウィリアムの中に、もう一頭、小さなパカラが住み着いてる。というより、もう、ウィリアムの一部になりかけてる」

「そんな……」

 ミユが鉄格子を強く握った。指の関節が白くなる。

「安心して。パカラ化したときのウィリアムは、少なくとも僕たちを守るほうを選んだ。あの岩を運んでくれた。レッド班長も、チャンさんも、あの瞬間のあいつを信じたんだ。僕は、そのことを忘れない」

「……うん」

 ふいに、寝台のウィリアムが呻いた。

「……塩……やめろ……父さん……塩は……」

 ミユとユズトが顔を見合わせる。

「また、あの夢か」

「前にも言ってたの?」

「パカラ化したあと、意識が戻る直前に、何度か。『塩をかけるな』って」

 ユズトは、懐から小さな手帳を取り出し、そこに短く書きつけた。

 ──「塩」/父親/幼少期の記憶/馬刺しの禁書との関連?

*** 本部作戦室 ***

「いやはや、困ったもんじゃ」

 南方面統括師団長トット=ヒクシスは、執務机の上に両足を投げ出し、葉巻を転がしていた。机の上には、破壊された砦扉の修復工程表と、パカラ襲撃の被害報告書、そしてウィリアムの観察記録の写しが山のように積まれている。

 対面の革張りの椅子には、四兵団統括団長クーパー=ケネディが静かに腰かけていた。訓練所の初日、ウィリアムたちの前に突然現れ、エロメンコ少佐を糞尿まみれで連行させた、あの男である。

「ケネディ殿、どうなさる。あの小僧、生かしておくのか、始末するのか」

「私に聞くのかね、ヒクシス。君の管轄だろう」

「いやいや、これはもう一地方のこっちゃあない。人類史上初の、パカラに食われて、パカラになって、パカラを殺して、人間に戻った男じゃ。しかもそのまま岩を運んで穴まで塞ぎよった。こんなもん、上に報告したら憲兵団が二日で接収しに来よる」

「もう来ておる」

「……は?」

「昨夜、王都から急使があった。明日には憲兵団の特務班が到着する。目的は一つ。ウィリアム=アシュトンの身柄の王都移送だ」

 ヒクシスは葉巻を噛み潰した。

「馬鹿な。あの小僧はまだ意識も戻っとらんのじゃぞ。動かしたら死ぬ」

「王都はそれでも構わんと言っておる。『死体でもいい、解剖したい』とな」

「……くそったれ」

 ケネディはふっと笑った。目だけは、笑っていなかった。

「ヒクシス。私は昔から、一つだけ信条がある。『人類のために死ぬ兵士は美しい。だが、人類のために死ね、と命令する連中は醜い』。……今回は、どうも後者が張り切っておるようだ」

「つまり?」

「つまり、私は今から三日間、猛烈に風邪をひく。書類仕事ができん。ウィリアム=アシュトンに関するいかなる命令書にも署名ができん。──わかるな?」

 ヒクシスはにやりと笑った。

「はっ。ごほん、ごほん。どうやら私も風邪をもらったようじゃ。困ったのう」

「うつしてすまんな」

「なあに、こちらこそ」

 二人の老人は、葉巻の煙の向こうで、静かに拳をぶつけ合った。

*** 第三隔離房 深夜 ***

「……ミユ?」

 か細い声だった。

 ミユの頭が勢いよく上がる。膝の上に落ちかけていた毛布が床に滑り落ちた。

「ウィリアム!!」

「しっ。声、でか……い……頭に、響く……」

 ウィリアムは薄く目を開けていた。瞳孔はまだ少し濁っていたが、そこにいるのは間違いなく、ミユの幼馴染の、あの馬鹿なウィリアムだった。

「ユズト、呼んでくる!」

「待て、ミユ。待ってくれ。先に、一個だけ教えてくれ」

「なに?」

 ウィリアムは、自分の股間を覆う白い布を、べルトに縛られた手の先でかすかに示した。

「ここ、まだ……ちゃんと、俺のか?」

 ミユの頬が、かっと赤くなった。それから、何かが決壊するように、ぽろりと涙がこぼれた。

「馬鹿っ。目が覚めて最初に聞くことが、それなの?」

「だってよ、俺、夢の中でずっと、股から馬が生えて走ってた気がして……」

「生えてたわよ。バカみたいにでかい馬が。五メートルくらい」

「……まじかよ」

「まじ。そんで、あんたそれでパカラを五匹殺して、岩を運んで、穴を塞いだの」

 ウィリアムは、しばらく天井を見つめたあと、小さく呟いた。

「……すげえじゃん、俺」

「うん」

「レッド班長は?」

 ミユの表情が固まった。

「……そっか」

「ごめん」

「なんでミユが謝るんだよ。俺が不甲斐ないから、あの人に背中預けさせたんだろ」

 沈黙が落ちた。鉄格子の向こうの廊下で、衛兵の足音だけが遠く響いている。

「ミユ。一個、頼みがある」

「なに」

「俺の股、触ってみてくれ」

「はあ?!」

「いや違え!そうじゃねえ!根元に……なんか、硬いの、あるんだよ。俺自身の感覚で、ある。骨みてえな。でも俺の骨じゃねえ。あれがなんなのか、確かめたい。けど俺は縛られてる。頼む」

 ミユは長い沈黙のあと、鉄格子の隙間から手を差し入れ、ウィリアムの布の上から、おそるおそる下腹部に触れた。

 こつ。

 確かに、硬いものがあった。恥骨の内側、本来なら柔らかな脂肪と筋肉しかないはずの場所に、細い、しかし鋼のように硬い、何か。

「……ある」

「だろ」

「ウィリアム、これ……」

「俺の中に、まだ馬がいる。寝てるだけだ。起きてねえだけで、ずっといる。俺にはわかる」

 そのとき、廊下の奥で扉が勢いよく開く音がした。

*** 同刻 廊下 ***

「通せと言っている!」

 怒鳴り声は、ユズトのものだった。普段の穏やかさからは考えられない声量で、彼は衛兵二人を押しのけようとしていた。

「訓練兵ユズト=レムニス!ここは隔離区画だ!立ち入りは許可されていない!」

「許可ならヒクシス指令から受けている!これを見ろ!」

 ユズトは一枚の紙片を突き出した。ヒクシスの署名入りの通行証である。ただし、インクがまだ半分ほど乾いていなかった。

「……本物だが、日付が今日の深夜になっているぞ」

「当然だろう!今しがた書いてもらった!明日の朝には憲兵団がここに来る!その前にウィリアムを移さないと、あいつは王都で切り刻まれる!」

「なっ、貴様、どこでそれを」

「クーパー=ケネディ統括団長から直接聞いた。あの方は『風邪をひいた』そうだ」

 衛兵の顔が凍りついた。

 「風邪」の意味を、この国の古参兵なら誰でも知っている。それは、統括団長が王都の命令を黙殺することを決めた、ということだ。そして過去、ケネディが「風邪をひいた」ときには、必ず誰かの命が一つ、救われている。

「……通れ」

「感謝する」

 ユズトが駆け込んできたとき、ミユはまだ鉄格子越しにウィリアムの手を握っていた。

「二人とも、聞いてくれ。時間がない」

「ユズト、ウィリアム、目が覚めたのよ」

「知ってる。君の声、廊下まで響いてた」

 ミユがまた顔を赤くする。ウィリアムが寝台の上で、かすれた声で笑った。

「ユズト、お前、なんか顔色やべえぞ」

「君の身柄が明朝、王都に送られる。解剖目的で」

「は?」

「つまり、生きたまま腹を裂かれて、中にいる馬を引きずり出される、ってことだ。ヒクシス指令とケネディ統括団長は時間稼ぎしかできない。だから今夜のうちに、君を『公式の書類上は死んだ』ことにして、別の場所に隠す」

「おいおいおい、話が早すぎて追いつかねえ」

「追いつかなくていい。走れるか?」

「……たぶん」

「じゃあ走ろう。今から、僕たち三人は、馬を飼う」

 ウィリアムは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと笑った。

「……ユズト、お前、昔っからそういう言い方するよな」

「君のうなじを外して斬りたくないから、早く起きてくれ、ってね」

「覚えてんぞ、その台詞。あれ本気でビビった」

 ユズトは小さな鍵束を取り出した。ケネディが「風邪薬」と称して机に置いていったものだ。ベルトの留め金が一つずつ外されていく。ウィリアムが上体を起こすと、下半身の奥で、確かに、何か、知らない重みが揺れるのを感じた。

 馬が、寝返りをうった。

「……ユズト」

「なんだ」

「こいつ、名前つけていいかな」

「君の中にいる、こいつか?」

「ああ。ずっと『こいつ』じゃ呼びづれえ」

 ユズトは少し考えてから、穏やかに言った。

「じゃあ、『躍進やくしん』にしよう」

「……ダセえな」

「僕たちの部隊名になる言葉だよ。ダサくない」

「部隊名?」

「話は歩きながらする。立てるか」

 ウィリアムは寝台の縁に足を下ろした。床の冷たさが、足の裏から背筋まで駆け上がってくる。生きている、と思った。パカラの腹の中で溶けかけていた自分が、こうしてまた、冷たい床を踏んでいる。

 廊下へ出る寸前、ウィリアムは振り返って、自分が寝ていた寝台を見た。シーツには、股の位置に薄い血の染みと、その上に、一本だけ、長く太い、茶色い毛が落ちていた。

「……置いてくぞ、躍進」

 股の奥で、何かが、こくり、と頷いた気がした。

*** 砦外縁 廃倉庫 未明 ***

 三人が辿り着いたのは、砦の外壁に半ば埋もれた古い補給倉庫だった。表向きは十年前の襲撃で半壊して以来、使われていないことになっている。しかし内部には、真新しい寝台と、机と、水と、そして──

「これ、《P型剃刃》じゃないの?それも、三本」

 ミユが息を呑んだ。机の上には、撃退兵団最精鋭にしか支給されない特製のしなる刃が、綺麗に並べて置かれていた。

「ヒクシス指令からの『見舞いの品』だそうだ」

「見舞い……」

「僕たちは今夜から、書類上は存在しない」

 ユズトは振り返り、二人を正面から見た。眼鏡の奥の瞳に、あの「穴を塞ぐ作戦」を提案したときと同じ、逆立った光が戻っていた。

「104期、臨時独立遊撃班『躍進』。隊員三名。任務は二つ。一つは、ウィリアムの体内のパカラの生態調査。どうして彼はパカラ化できたのか、他の人間にも同じことが起きる可能性があるのか。もう一つは──」

 ユズトは一度、言葉を切った。

「もう一つは、あの日現れた《超大型パカラ》の正体を突き止めることだ」

 ウィリアムとミユが同時に息を止めた。

 水蒸気と共に砦を殴りつけ、一瞬で姿を消したあの五十メートル級。百年間の記録にも前例がない存在。

「あいつは、知能がある」

 ユズトは静かに言った。

「ただ本能で人間を食うだけの奴らじゃない。穴を開ける場所を選び、開けた瞬間に消えた。まるで、穴を開けることだけが目的だったみたいに」

「誰かの差し金、ってことか?」ウィリアムが声を低くする。

「あるいは、パカラの中に『指揮官』がいる。……そして、その指揮官は、僕たち人間のことを、思ったよりずっとよく知っている」

 ウィリアムは自分の下腹を、掌でそっと押さえた。

 その下で、躍進が、ゆっくりと目を開けた気がした。

「上等じゃねえか」

 ウィリアムは、ひび割れた声で、しかし確かに笑った。

「俺の中の馬と、俺たち三人と、ケネディ爺さんとヒクシスのじいさん。それだけで、人類の裏側を引っくり返してやろうってんだろ」

「そういうことになる」

「だったら、一個だけ約束してくれ」

「なに」

「もし俺が、いつか躍進に食われて、本物のパカラになっちまったら──」

 ウィリアムはミユを見た。ミユの顔が、強張る。

「──ミユ、お前がうなじを削げ。ユズトじゃだめだ。お前がやれ。お前が一番上手い」

 ミユは長いこと黙っていた。やがて、拳を握りしめ、短く、しかしはっきりと頷いた。

「……わかった。約束する。そのかわり、ウィリアム」

「ん?」

「その日が来るまで、ぜったいに、私より先に死なないで」

「善処する」

「善処じゃなくて、約束して」

「……約束する」

 倉庫の天井の隙間から、薄い朝日が差し込み始めていた。遠く、ウィニペグ地区の鐘が、新しい一日を告げていた。昨日、砦の扉は破られ、多くの仲間が死に、ウィリアムは人間をやめかけた。それでも朝は来る。馬鹿みたいに、公平に来る。

「さてと」

 ユズトが《P型剃刃》を一本、手に取った。

「初仕事だ。僕たちの馬に、調教の時間といこう」

 ウィリアムの股の奥で、躍進が、確かに、いなないた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ