「馬の檻(おり)」前編
*** 戦後 ウィニペグ地区 第三隔離房 ***
鉄格子の向こうで、ウィリアムは眠っていた。
正確には、眠らされていた、というほうが近い。太ももには太い注射の痕が三つ並び、両腕は革のベルトで寝台に固定されている。股間には白い布が厚く巻かれ、その下からはまだ、ぴくりぴくりと、何かが小さく脈打つような気配があった。
「……うなされてる」
鉄格子の前の丸椅子で、ミユが膝を抱えていた。もう十六時間、この場所から動いていない。食事も運ばれてきた薄いスープを二口だけ飲んで、あとは冷めるに任せていた。
「ミユ、交代するよ。少しは休んでくれ」
扉の軋む音とともに、ユズトが入ってきた。手には書類の束。表紙には「第104期・ウィリアム=アシュトン 観察記録(極秘)」と殴り書きされている。
「ユズト、その書類……」
「ヒクシス指令が見せてくれた。正確には、僕が頼み込んで、むしり取ってきた、というほうが近いけど」
ユズトは苦笑いしながら、鉄格子の横の小さな机にそれを置いた。
「読んでいいの?」
「だめに決まってる。だから小声でね」
ミユは薄く笑った。笑ったのはあの襲撃以来、初めてのことだった。
ユズトが書類の一枚目をめくる。
《被験体A-104・身体所見》
──陰茎部、平常時7.8cm。触診にて内部に異物確認。X線撮影の結果、海綿体組織とは別に、細長い筋繊維状の塊が尿道に沿って寄生。先端は恥骨内部まで到達。生体反応あり。
……なお、異物は宿主の意思と独立して微弱な拍動を行う。
「……生きてるってこと?」
「うん。ウィリアムの中に、もう一頭、小さなパカラが住み着いてる。というより、もう、ウィリアムの一部になりかけてる」
「そんな……」
ミユが鉄格子を強く握った。指の関節が白くなる。
「安心して。パカラ化したときのウィリアムは、少なくとも僕たちを守るほうを選んだ。あの岩を運んでくれた。レッド班長も、チャンさんも、あの瞬間のあいつを信じたんだ。僕は、そのことを忘れない」
「……うん」
ふいに、寝台のウィリアムが呻いた。
「……塩……やめろ……父さん……塩は……」
ミユとユズトが顔を見合わせる。
「また、あの夢か」
「前にも言ってたの?」
「パカラ化したあと、意識が戻る直前に、何度か。『塩をかけるな』って」
ユズトは、懐から小さな手帳を取り出し、そこに短く書きつけた。
──「塩」/父親/幼少期の記憶/馬刺しの禁書との関連?
*** 本部作戦室 ***
「いやはや、困ったもんじゃ」
南方面統括師団長トット=ヒクシスは、執務机の上に両足を投げ出し、葉巻を転がしていた。机の上には、破壊された砦扉の修復工程表と、パカラ襲撃の被害報告書、そしてウィリアムの観察記録の写しが山のように積まれている。
対面の革張りの椅子には、四兵団統括団長クーパー=ケネディが静かに腰かけていた。訓練所の初日、ウィリアムたちの前に突然現れ、エロメンコ少佐を糞尿まみれで連行させた、あの男である。
「ケネディ殿、どうなさる。あの小僧、生かしておくのか、始末するのか」
「私に聞くのかね、ヒクシス。君の管轄だろう」
「いやいや、これはもう一地方のこっちゃあない。人類史上初の、パカラに食われて、パカラになって、パカラを殺して、人間に戻った男じゃ。しかもそのまま岩を運んで穴まで塞ぎよった。こんなもん、上に報告したら憲兵団が二日で接収しに来よる」
「もう来ておる」
「……は?」
「昨夜、王都から急使があった。明日には憲兵団の特務班が到着する。目的は一つ。ウィリアム=アシュトンの身柄の王都移送だ」
ヒクシスは葉巻を噛み潰した。
「馬鹿な。あの小僧はまだ意識も戻っとらんのじゃぞ。動かしたら死ぬ」
「王都はそれでも構わんと言っておる。『死体でもいい、解剖したい』とな」
「……くそったれ」
ケネディはふっと笑った。目だけは、笑っていなかった。
「ヒクシス。私は昔から、一つだけ信条がある。『人類のために死ぬ兵士は美しい。だが、人類のために死ね、と命令する連中は醜い』。……今回は、どうも後者が張り切っておるようだ」
「つまり?」
「つまり、私は今から三日間、猛烈に風邪をひく。書類仕事ができん。ウィリアム=アシュトンに関するいかなる命令書にも署名ができん。──わかるな?」
ヒクシスはにやりと笑った。
「はっ。ごほん、ごほん。どうやら私も風邪をもらったようじゃ。困ったのう」
「うつしてすまんな」
「なあに、こちらこそ」
二人の老人は、葉巻の煙の向こうで、静かに拳をぶつけ合った。
*** 第三隔離房 深夜 ***
「……ミユ?」
か細い声だった。
ミユの頭が勢いよく上がる。膝の上に落ちかけていた毛布が床に滑り落ちた。
「ウィリアム!!」
「しっ。声、でか……い……頭に、響く……」
ウィリアムは薄く目を開けていた。瞳孔はまだ少し濁っていたが、そこにいるのは間違いなく、ミユの幼馴染の、あの馬鹿なウィリアムだった。
「ユズト、呼んでくる!」
「待て、ミユ。待ってくれ。先に、一個だけ教えてくれ」
「なに?」
ウィリアムは、自分の股間を覆う白い布を、べルトに縛られた手の先でかすかに示した。
「ここ、まだ……ちゃんと、俺のか?」
ミユの頬が、かっと赤くなった。それから、何かが決壊するように、ぽろりと涙がこぼれた。
「馬鹿っ。目が覚めて最初に聞くことが、それなの?」
「だってよ、俺、夢の中でずっと、股から馬が生えて走ってた気がして……」
「生えてたわよ。バカみたいにでかい馬が。五メートルくらい」
「……まじかよ」
「まじ。そんで、あんたそれでパカラを五匹殺して、岩を運んで、穴を塞いだの」
ウィリアムは、しばらく天井を見つめたあと、小さく呟いた。
「……すげえじゃん、俺」
「うん」
「レッド班長は?」
ミユの表情が固まった。
「……そっか」
「ごめん」
「なんでミユが謝るんだよ。俺が不甲斐ないから、あの人に背中預けさせたんだろ」
沈黙が落ちた。鉄格子の向こうの廊下で、衛兵の足音だけが遠く響いている。
「ミユ。一個、頼みがある」
「なに」
「俺の股、触ってみてくれ」
「はあ?!」
「いや違え!そうじゃねえ!根元に……なんか、硬いの、あるんだよ。俺自身の感覚で、ある。骨みてえな。でも俺の骨じゃねえ。あれがなんなのか、確かめたい。けど俺は縛られてる。頼む」
ミユは長い沈黙のあと、鉄格子の隙間から手を差し入れ、ウィリアムの布の上から、おそるおそる下腹部に触れた。
こつ。
確かに、硬いものがあった。恥骨の内側、本来なら柔らかな脂肪と筋肉しかないはずの場所に、細い、しかし鋼のように硬い、何か。
「……ある」
「だろ」
「ウィリアム、これ……」
「俺の中に、まだ馬がいる。寝てるだけだ。起きてねえだけで、ずっといる。俺にはわかる」
そのとき、廊下の奥で扉が勢いよく開く音がした。
*** 同刻 廊下 ***
「通せと言っている!」
怒鳴り声は、ユズトのものだった。普段の穏やかさからは考えられない声量で、彼は衛兵二人を押しのけようとしていた。
「訓練兵ユズト=レムニス!ここは隔離区画だ!立ち入りは許可されていない!」
「許可ならヒクシス指令から受けている!これを見ろ!」
ユズトは一枚の紙片を突き出した。ヒクシスの署名入りの通行証である。ただし、インクがまだ半分ほど乾いていなかった。
「……本物だが、日付が今日の深夜になっているぞ」
「当然だろう!今しがた書いてもらった!明日の朝には憲兵団がここに来る!その前にウィリアムを移さないと、あいつは王都で切り刻まれる!」
「なっ、貴様、どこでそれを」
「クーパー=ケネディ統括団長から直接聞いた。あの方は『風邪をひいた』そうだ」
衛兵の顔が凍りついた。
「風邪」の意味を、この国の古参兵なら誰でも知っている。それは、統括団長が王都の命令を黙殺することを決めた、ということだ。そして過去、ケネディが「風邪をひいた」ときには、必ず誰かの命が一つ、救われている。
「……通れ」
「感謝する」
ユズトが駆け込んできたとき、ミユはまだ鉄格子越しにウィリアムの手を握っていた。
「二人とも、聞いてくれ。時間がない」
「ユズト、ウィリアム、目が覚めたのよ」
「知ってる。君の声、廊下まで響いてた」
ミユがまた顔を赤くする。ウィリアムが寝台の上で、かすれた声で笑った。
「ユズト、お前、なんか顔色やべえぞ」
「君の身柄が明朝、王都に送られる。解剖目的で」
「は?」
「つまり、生きたまま腹を裂かれて、中にいる馬を引きずり出される、ってことだ。ヒクシス指令とケネディ統括団長は時間稼ぎしかできない。だから今夜のうちに、君を『公式の書類上は死んだ』ことにして、別の場所に隠す」
「おいおいおい、話が早すぎて追いつかねえ」
「追いつかなくていい。走れるか?」
「……たぶん」
「じゃあ走ろう。今から、僕たち三人は、馬を飼う」
ウィリアムは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと笑った。
「……ユズト、お前、昔っからそういう言い方するよな」
「君のうなじを外して斬りたくないから、早く起きてくれ、ってね」
「覚えてんぞ、その台詞。あれ本気でビビった」
ユズトは小さな鍵束を取り出した。ケネディが「風邪薬」と称して机に置いていったものだ。ベルトの留め金が一つずつ外されていく。ウィリアムが上体を起こすと、下半身の奥で、確かに、何か、知らない重みが揺れるのを感じた。
馬が、寝返りをうった。
「……ユズト」
「なんだ」
「こいつ、名前つけていいかな」
「君の中にいる、こいつか?」
「ああ。ずっと『こいつ』じゃ呼びづれえ」
ユズトは少し考えてから、穏やかに言った。
「じゃあ、『躍進』にしよう」
「……ダセえな」
「僕たちの部隊名になる言葉だよ。ダサくない」
「部隊名?」
「話は歩きながらする。立てるか」
ウィリアムは寝台の縁に足を下ろした。床の冷たさが、足の裏から背筋まで駆け上がってくる。生きている、と思った。パカラの腹の中で溶けかけていた自分が、こうしてまた、冷たい床を踏んでいる。
廊下へ出る寸前、ウィリアムは振り返って、自分が寝ていた寝台を見た。シーツには、股の位置に薄い血の染みと、その上に、一本だけ、長く太い、茶色い毛が落ちていた。
「……置いてくぞ、躍進」
股の奥で、何かが、こくり、と頷いた気がした。
*** 砦外縁 廃倉庫 未明 ***
三人が辿り着いたのは、砦の外壁に半ば埋もれた古い補給倉庫だった。表向きは十年前の襲撃で半壊して以来、使われていないことになっている。しかし内部には、真新しい寝台と、机と、水と、そして──
「これ、《P型剃刃》じゃないの?それも、三本」
ミユが息を呑んだ。机の上には、撃退兵団最精鋭にしか支給されない特製のしなる刃が、綺麗に並べて置かれていた。
「ヒクシス指令からの『見舞いの品』だそうだ」
「見舞い……」
「僕たちは今夜から、書類上は存在しない」
ユズトは振り返り、二人を正面から見た。眼鏡の奥の瞳に、あの「穴を塞ぐ作戦」を提案したときと同じ、逆立った光が戻っていた。
「104期、臨時独立遊撃班『躍進』。隊員三名。任務は二つ。一つは、ウィリアムの体内のパカラの生態調査。どうして彼はパカラ化できたのか、他の人間にも同じことが起きる可能性があるのか。もう一つは──」
ユズトは一度、言葉を切った。
「もう一つは、あの日現れた《超大型パカラ》の正体を突き止めることだ」
ウィリアムとミユが同時に息を止めた。
水蒸気と共に砦を殴りつけ、一瞬で姿を消したあの五十メートル級。百年間の記録にも前例がない存在。
「あいつは、知能がある」
ユズトは静かに言った。
「ただ本能で人間を食うだけの奴らじゃない。穴を開ける場所を選び、開けた瞬間に消えた。まるで、穴を開けることだけが目的だったみたいに」
「誰かの差し金、ってことか?」ウィリアムが声を低くする。
「あるいは、パカラの中に『指揮官』がいる。……そして、その指揮官は、僕たち人間のことを、思ったよりずっとよく知っている」
ウィリアムは自分の下腹を、掌でそっと押さえた。
その下で、躍進が、ゆっくりと目を開けた気がした。
「上等じゃねえか」
ウィリアムは、ひび割れた声で、しかし確かに笑った。
「俺の中の馬と、俺たち三人と、ケネディ爺さんとヒクシスのじいさん。それだけで、人類の裏側を引っくり返してやろうってんだろ」
「そういうことになる」
「だったら、一個だけ約束してくれ」
「なに」
「もし俺が、いつか躍進に食われて、本物のパカラになっちまったら──」
ウィリアムはミユを見た。ミユの顔が、強張る。
「──ミユ、お前がうなじを削げ。ユズトじゃだめだ。お前がやれ。お前が一番上手い」
ミユは長いこと黙っていた。やがて、拳を握りしめ、短く、しかしはっきりと頷いた。
「……わかった。約束する。そのかわり、ウィリアム」
「ん?」
「その日が来るまで、ぜったいに、私より先に死なないで」
「善処する」
「善処じゃなくて、約束して」
「……約束する」
倉庫の天井の隙間から、薄い朝日が差し込み始めていた。遠く、ウィニペグ地区の鐘が、新しい一日を告げていた。昨日、砦の扉は破られ、多くの仲間が死に、ウィリアムは人間をやめかけた。それでも朝は来る。馬鹿みたいに、公平に来る。
「さてと」
ユズトが《P型剃刃》を一本、手に取った。
「初仕事だ。僕たちの馬に、調教の時間といこう」
ウィリアムの股の奥で、躍進が、確かに、嘶いた。




