荒野の三日目 塩の路(しおのみち
*** 砦北門外 荒野 夜明け前 **:
馬車の轍が、凍った泥の上に二本の線を刻んでいた。
ウィニペグ地区の灯りが、後方の暗闇の中で完全に見えなくなってから、もう三時間が経つ。御者台のユズトは手綱を握ったまま、ほとんど口をきいていなかった。視界の届かない闇の向こう、砦の外壁が終わったあたりから、空気の質が変わっていた。重い。生臭い。パカラの縄張りの匂いだ、とミユは思った。
「ユズト、交代する」
ミユが荷台から御者台へよじ登る。ユズトが無言で手綱を渡した。指先が、凍った革の感触を確かめる。
「……三体、ついてきてる。左後方」
ミユが前を向いたまま、静かに言った。
「わかってる。小型だ。単独行動じゃない、様子を見てる」
「追ってくる気はないの?」
「馬車の匂いを嗅いでる。ウィリアムの匂いを、嗅いでる」
ユズトが小さく言った。
荷台で藁に埋もれていたウィリアムが、のそりと半身を起こした。
「聞こえてるぞ。俺の股が珍しいんだろ、あいつら」
「ウィリアム、絶対に躍進を起こすな。今は不必要な戦闘は避ける」
「わかってる。……でも」
「でも?」
「なんか、あいつら、寄ってくる。俺の腹の中の躍進が、なんか……反応してる。吠えてる感じじゃなくて、鼻をひくひくさせてる感じ。犬が仲間の匂いを嗅ぐみたいな」
ユズトが眼鏡を押し上げ、手帳に短く書きつけた。
──躍進、同族への反応。敵意ではなく認知。要観察。
「無視しろ。そのまま進む」
「了解」
パカラたちは、結局、追ってこなかった。馬車が速度を上げると、三体の気配は闇の中に溶けていった。まるで、見届けたとでも言うように。
*** 荒野 夜明け 農村跡ーーー
太陽が地平線の端から這い上がってくるころ、廃村の輪郭が霧の中に浮かびあがった。かつて砦の外縁部に暮らしていた農民たちの集落だろう。百年前の最初のパカラ大襲撃で、跡形もなく捨てられたのだ。石造りの家屋の壁だけが残り、屋根はない。窓の穴から冷たい風が吹き抜けている。
「ここで休む。馬が限界だ」
ユズトが馬車を止める。
三人は廃村の一角、石壁が四面そろっている建物の中に馬車を引き込んだ。かつての納屋か何かだったろう。床の土は硬く乾いていて、昔、人が踏み固めた跡がある。
「焚き火は?」
「煙を出すな。今日は一日ここで休む。夜に出発する」
「食料は」
「ヒクシスのじいさんが用意してくれた干し肉とビスケットがある。あとは水」
ウィリアムが荷台から出て、足をぶらりと地面につけた。しびれている。一晩中、藁の中で丸まっていたせいだ。立ち上がって、腰を伸ばして、あたりを見回す。
誰もいない。音もない。風と、時々、遠くで何かが地面を蹴る低い振動だけ。
「静かだな」
「外は全部、奴らの世界だから」
ミユが淡々と言いながら、背負っていた荷をおろし始めた。撃退兵団の制服は砦に置いてきている。今の三人が着ているのは、ヒクシス指令が用意した地味な厚手のコートだ。どこにでもいそうな旅人に見えるように、という配慮だろうが、ユズトは相変わらず眼鏡をかけていて、ミユの動作は相変わらず無駄がなく、ウィリアムは相変わらず目立つ。お世辞にも旅人らしくはなかった。
「なあ、ユズト」
ウィリアムが石壁に背を預けながら言う。
「なんだ」
「俺の親父のことなんだけど」
ユズトが手帳から顔を上げた。
「……父親のことは、君が話したいときだけでいい。無理しなくていいよ」
「いや、聞いてくれ。訓練所に入る前の話だ」
ウィリアムは少し黙ってから、続けた。
「親父は、俺が七つのとき、最初に変なことを言い始めた。母さんが死んだ年だ。最初は普通に悲しんでたんだ。泣いてた。でもある時から、急に何かに取り憑かれたみたいに、夜中に本を読むようになった。どこにでもあるような本じゃない。羊皮紙みたいな、ボロボロの古い紙。拾ってきたのか、誰かにもらったのかもわからない。俺が覗き込もうとすると、必ず隠された」
「……内容は見えなかった?」
「一度だけ、親父が居眠りしてる隙に、チラッと見た。難しい字ばかりで読めなかったんだけど、絵があった」
「絵?」
「馬の絵だ。でかい馬の絵。ただし、普通の馬じゃない。でかい人間の股から生えてる馬の絵だ」
しん、と沈黙が落ちた。
ミユが手を止める。
「パカラの……絵?」
「そうだと思う。でも、その絵の横に、ちっちゃな人間の絵もあって……そいつは逃げてなかった。馬に乗ってた」
ユズトの眼鏡が、朝の光を弾いた。
「乗って……いた?」
「そう。パカラの馬の部分に、小さな人間が乗ってる絵。手綱を握って」
三人の間にまた静寂が流れた。外の風が、壁の隙間を細く鳴らした。
「ウィリアム」
ユズトが静かに言った。
「君の父親は、その絵を見て、何かを確信したんだと思う。そして、君に……」
「塩をかけようとした」
「うん。禁書の暗号には『パカラの肉は、塩によって萎える』とあった。普通に考えれば、塩はパカラを弱らせるものだ。でも、もし父親が違う目的で塩を使おうとしていたとしたら?」
「……どういうことだ?」
「塩水でできた湖、という話がある。砦の祖が《王》を封じた場所に、塩の湖がある。もし塩が単なる武器じゃなくて、パカラと人間を繋ぐ……何か、儀式的なものだとしたら?」
ウィリアムは自分の下腹に手を当てた。その下で、躍進が、ゆっくりと頭を動かした気がした。
「俺の中に、なんで躍進がいるんだ。俺はパカラに食われたから、パカラになった……それだけじゃないのか?」
「わからない。でも、食われてパカラ化した人間の記録は、百年の歴史の中に他にない。君だけだ」
「……」
「だから、可能性として考えてる。君はもしかしたら、ずっと前から、躍進を呼び込む何かを持っていたんじゃないか。君の父親がそれを知っていたんじゃないか」
ウィリアムは石壁に頭を預けて、天井のない青空を見上げた。
「……くそ、難しい話はわかんねえよ。でも一個だけわかることがある」
「なんだ」
「俺は、親父に会いたい。ぶん殴ってでも話を聞きたい。それだけだ」
「……うん」
「行くぞ、北へ。じいさんたちが稼いでくれた時間を無駄にするな」
ユズトが静かに頷いた。ミユが干し肉を一枚、無言でウィリアムに放った。
「食べなさい。倒れても知らないから」
「ありがとうよ」
「礼は要らない。ただのおせっかい」
「……うん、ありがとう」
ミユが、ほんの一瞬、耳の先を赤くして顔を背けた。
*** 廃村 昼 廃納屋ーーー
眠れないままウィリアムは、廃納屋の隅で膝を抱えていた。
ユズトはすでに眠っている。横向きに寝て、眼鏡を脱いだ顔は、どこか幼い。ミユは入口の近くで、P型剃刃を膝に置いたまま目を閉じていた。眠っているのか眠っていないのか、あいつはいつだってどちらともわからない顔をしている。
ウィリアムは自分の右手を見た。
手の甲に、薄く、茶色い毛が一本、生えていた。
(……増えてる)
ユズトが言っていた。躍進は少しずつ表に出てこようとしている。意識すれば制御できるが、無意識の時間が長くなれば、どうなるかわからない。
ウィリアムは、心の中で問いかけた。
(おい、躍進)
腹の奥で、何かがもそりと動いた。
(お前は、俺の敵か?)
返事はない。ただ、温かい。パカラの腹の中で溶けかけた自分を、内側から温めているような、そういう温度がある。
(俺の親父を知ってるか?)
突然、腹の中で何かが激しく動いた。驚いて、ウィリアムは思わず腹を押さえる。
違う。躍進が暴れているわけじゃない。何かに反応している。記憶のようなもの、映像のようなものが、腹の奥から浮かび上がってくる。
光。
白い、きつい光。
それから、塩の匂い。
それから──男の後ろ姿。大きな背中。荒野を歩いている。一人で、北へ。
(親父……!)
ウィリアムは思わず立ち上がりかけた。足が石を蹴って音を立てる。
「……なに。うるさい」
ミユが目を開けた。やっぱり眠っていなかった。
「ミユ、躍進が……なんか、見せてきた。親父の姿」
「……夢じゃないの」
「眠ってないから夢じゃない。あいつ、親父の匂いを知ってる。確かに知ってる。塩の匂いと一緒に、親父の後ろ姿が来た」
ミユがゆっくりと立ち上がり、ウィリアムの傍に来た。
「……ウィリアムのお父さん、生きてるかな」
「わからん」
「生きててほしい?」
「……当たり前だろ」
「そうね」
ミユはウィリアムの隣に、壁を背に並んで座った。二人の間に、ほんの少しの距離がある。子供のころ、三人で路地裏に並んで座ったあの感じに、少し似ていた。
「ミユ」
「なに」
「お前は、なんで撃退兵団に入ったんだ。本当の理由」
「……言ったでしょ。あんたがいなきゃだめだから」
「それだけか?」
ミユは少しだけ黙った。
「……私のお母さん、第七次パカラ大襲撃で死んだわ。私が四つのとき。あんたは知ってる」
「ああ」
「あの日のこと、あんまり覚えてないの。でも一個だけ覚えてることがある。お母さんが、私を押し入れの中に隠して、扉を閉めた。外でずっと、ドスン、ドスンって音がしてた。私は泣かないようにして、ずっと待ってた。だって、お母さんが帰ってくるって言ったから」
「……」
「帰ってこなかった。押し入れの中で、一晩待って、朝になって、隣のおじさんが扉を開けてくれたの。そのとき、私は思った。次は私が、扉の外に立つ番だって。誰かを押し入れに隠して、外で待つ番だって」
ウィリアムは何も言えなかった。
「だから、私がいなきゃだめなのよ。あんたの隣に。扉の外に立つのは、私の番なの」
「……お前、ずるいな」
「なにが」
「そんなこと言ったら、俺、死ねないじゃないか」
ミユが、ふっと笑った。短く、でも確かに笑った。
「そのためよ。さっさと寝なさい。夜に出発するんだから」
「……ああ」
ウィリアムは石壁に頭を預けて目を閉じた。腹の中で、躍進が、静かに息をした。
*** 廃村 黄昏 廃納屋 ーーー
夕方、ユズトが先に目を覚ました。
眼鏡をかけ、手帳を開き、昨日の観察記録の続きを書く。
それから、禁書を取り出した。
祖父の遺品、『馬刺し料理大全』。表紙の革は擦り切れ、背表紙はもう半分ほど剥がれかかっている。ユズトはそれを膝の上に置き、あの暗号のページを開いた。
北方の塩の湖。
砦の祖が《王》を封じた地。
ユズトは幼いころから、祖父の話を聞いていた。祖父は「外の世界を見たことがある老人」として、ウィニペグ地区では有名だった。百年前の最初のパカラ大襲撃の際、当時十二歳だった祖父の祖父が、命からがら砦の外から逃げ込んだという。その話が代々伝わり、ユズトの祖父の代になって、禁書とともに秘密の書庫に眠ることになった。
(おじいちゃん、俺は今、外にいる。お前が見た外の世界に)
ユズトはそっと心の中で語りかけた。
禁書の暗号のページの、さらに隅。見落としていた、もう一つの点と線の列がある。
(……なんだ、これ)
ユズトは指で追った。
──『王、人に宿りしことあり。宿りたる者、これを《種馬》と呼ぶ。種馬は王への門也。王の覚醒は種馬の完成によりてなる』
ユズトの指が止まった。
種馬。
王への門。
(ウィリアムは……門、なのか?)
ユズトは眼鏡のつるを持って、ゆっくりと考えた。
超大型パカラ、《王》が、砦に穴を開けた。砦の中にウィリアムがいた。そのウィリアムが、パカラに食われて、パカラ化して……。
偶然?
それとも。
(……王は、ウィリアムを狙って来たのか?)
手帳に素早く書きつける。
──《王》の目的、ウィリアムを食わせること? 種馬の「完成」を促すための行動? 誰かの意図か、王自身の本能か。
ユズトは一度、手帳を閉じた。
この推論を、今すぐウィリアムに話すべきか。
考える。
──まだだ。根拠が薄い。ウィリアムを無用に怯えさせる必要はない。でも、塩の湖に近づけば近づくほど、危険は上がる。心の準備だけはさせておいたほうがいい。
ユズトはページを一枚めくった。
別のページの欄外に、また暗号がある。今度は文章ではなく、地図だった。
荒野の中に、いくつかの点が打たれ、線でつながれている。方位は書いていないが、一番南の点の横に、小さく「砦」と読める記号がある。
ユズトは地図を眺め、手帳の白紙に模写し始めた。
点と線。
点と線。
そして、最も北の点の横に、波線が描かれていた。
水を意味する記号だ、とユズトは思った。
(塩の湖だ)
砦から、おおよそ四日から五日の距離に見える。現在位置が廃村なら、あと三日か。
(行ける)
*** 廃村 夜 出発前ーーー
「聞いてくれ、二人とも」
出発の準備をしながら、ユズトが三人を集めた。
「禁書に、また暗号があった。地図だ」
ユズトが手帳の模写を二人に見せた。
「これが砦で、ここが今俺たちがいる廃村。そして一番北が、塩の湖だ。三日で行ける」
「三日……。途中に、なんかあるのか?」
ウィリアムが地図を指でなぞる。
「点が四つある。砦、廃村、もう一箇所、そして湖。この間の点が何を意味するのかわからない。集落か、廃墟か、あるいは何かの目印か」
「悪い予感しかしないな」
「同感だ。ただ、これも読んだ」
ユズトが手帳の別のページを開いた。
「もう一つの暗号があった。『種馬』という言葉が出てくる。内容は──」
ユズトは一瞬、言いよどんだ。
「……率直に言う。ウィリアム、君が躍進を宿したのは偶然じゃない可能性がある。《王》が意図的に君に食わせた可能性がある」
沈黙。
ウィリアムの表情が固まった。
「……俺を、食ったのは、意図的……?」
「まだ推論の域を出ない。でも、可能性として話しておきたかった。もし《王》が君を狙って来たのだとしたら、北へ向かうことは、王の意図に沿うことになるかもしれない。その上で、それでも行くか、確認したかった」
「……行く」
「即答だな」
「当たり前だろ。行かないって選択肢が、俺にあると思うか。親父がいる。《王》がいる。答えがある。俺の股に馬が生えてる。こんな状況で、行かないって選んだら、俺は俺じゃない」
ユズトはゆっくりと頷いた。
「ミユは?」
「行くに決まってる。二人だけで行かせるわけないでしょ」
「わかった。それで決まりだ」
三人は荷物を馬車に積み、馬に水を飲ませた。夜の荒野に、また出発する。月はまだ細い。でも、目が慣れてくれば、地平線は見える。
「ユズト」
馬車が動き出す直前、ウィリアムが言った。
「さっきの話、俺が食われたのは《王》の意図かもって話」
「ああ」
「もし本当にそうだとしても、俺は怒んないからな」
「怒らない?」
「奴に感謝したいくらいだ。あの瞬間、俺は死にかけて、それで躍進が生まれて、穴が塞がれた。レッド班長が死んで、チャンさんが死んで、仲間が死んで、砦は守られた。奴がそれを計算してやったとしても……その結果、俺たちは生きてる。感謝はしないけど、怒りは無駄だ。ただ、一発ぶん殴る。それだけだ」
「……《王》を?」
「そいつを操ってる奴がいるなら、そっちを。俺の親父を巻き込んだ奴を。一発だけ」
ユズトは少し笑った。
「君は変わらないな」
「変わる必要がねえ」
*** 荒野 二日目 夜ーーー
二日目の夜は、嵐になった。
北から吹いてくる風が横殴りの雨に変わり、馬車の幌が激しくはためいた。馬が怯えて速度が落ちる。ミユが御者台で必死に手綱を引きながら、前方の暗闇を睨んだ。
「ユズト!前方、何か見える?」
「……石造りの、何か。建物じゃないか。五百メートルほど先」
「行ける?」
「行くしかない」
雨の中を進む。馬車の車輪が泥にはまるたびに、ウィリアムが荷台から出て、肩を当てて押した。全身がずぶ濡れになる。泥が靴の中に入ってくる。それでも進む。
やがて、石造りの建物の輪郭が、雨の向こうに浮かびあがった。
建物ではなかった。
壁だ。
砦の壁に似た、分厚い石積みの壁。ただし、砦よりずっと小さい。高さはせいぜい五メートルほど。そして、壁には穴が開いていた。正面から見れば、それはかつての「門」の跡だとわかる。今は崩れかけ、門扉も何もない、ただの大きな穴だ。
「なんだここ……」
ウィリアムが呟いた。
「……禁書の地図の、中間の点だ」
ユズトが雨に濡れた手帳を確認する。
「かつて、砦の外に、もう一つの砦があった。百年前の最初の大襲撃以前に」
「えっ」
「祖父から聞いた話だ。詳しくは知らなかった。でも、ここがそれだ」
三人は馬車を壁の内側に引き込んだ。壁の内側は、雨をある程度遮ってくれる。馬を柱の跡に繋ぎ、三人は濡れた服のまま、壁の陰に身を寄せた。
ウィリアムがぶるりと震えた。
「寒い」
「我慢して。焚き火は……今夜は仕方ない。少しだけ焚く」
ミユが荷の中から火打ち石を取り出した。石壁の陰で、小さな炎が生まれる。三人がその周りに集まる。
「なんで百年前に、砦の外に砦があったんだ」
ウィリアムが炎を見ながら言う。
「……パカラが出現する前から、ここにいた人たちがいたんだ。外の世界に。砦の住人は、もともと砦の中だけにいたわけじゃない。外にも村があって、町があって、別の砦があった。パカラが出現して、外の集落は全滅した。かろうじて逃げ込んだ者たちが、ウィニペグ砦に集まって、今の人類になった」
「……知らなかった」
「憲兵団は意図的に歴史を隠してる。砦の外に世界があったと知れば、人々は外に出たがる。それを恐れてる」
「外に出たって、パカラがいるじゃないか」
「そう。だから隠すだけじゃなくて、恐怖で縛る。パカラのことを実際よりもっと強大に、もっと謎に包んで宣伝することで、誰も外に出ようとしなくなる」
「……パカラは、実際より弱いのか?」
「少なくとも、百年前の人間は、パカラのいる世界で、外に集落を持っていた。共存はできなかったとしても、全滅はしていなかった。ということは、今の人類が思っているほど、外が絶望的な世界でもないかもしれない」
ウィリアムはしばらく炎を見つめた。
「お前、訓練兵のころから、そういうこと考えてたのか」
「……考えてた。ただ言えなかった」
「なんで言わなかった」
「君が死に急ぐから。考える前に動くから。正しい情報を渡しても、正しく使える状態じゃなかったから」
「……俺、そんなにやばかったか」
「食堂で立ち上がって演説してた訓練兵を覚えてるか」
「……忘れたい」
「忘れなくていい。あれが君の良いところでもある。ただ、これからは三人で考えてから動く。それだけ守ってくれれば、僕は何も言わない」
「……わかった。約束する」
ミユが二人を横目で見ながら、干し肉を一枚ずつ渡した。
「話しながら食べなさい。低体温症になる前に」
「……ありがとう」
「礼は言わなくていいって言ってる」
「……ありがとう、ミユ」
「……っ、もう知らない」
ミユが顔を背けた。ウィリアムが小さく笑った。ユズトが手帳にひたすら書きつけた。
*** 外砦跡 深夜ーーー
嵐が小さくなった、真夜中のことだった。
ウィリアムが、ふと目を覚ました。
誰かの気配がする。
パカラではない。もっと、細い気配。人間の、足音。
ウィリアムは静かに起き上がり、P型剃刃を手にした。ユズトとミユはまだ眠っている。起こすか? いや、まず確認する。相手の数と位置を。
壁の陰から、ゆっくりと頭を出した。
炎の光の届かない、暗がり。
そこに、人影があった。
一人。
背中を向けている。大きな背中。荒野を見ている。北の方角を見ている。
その肩越しに、遠くの地平線に、かすかに、白いものが見えた。
塩の湖だ、とウィリアムは直感した。晴れ間が出たのか、細い月の光を反射して、白く光っている。
そして、その人影の足元に、小さな麻袋があった。じゃり、と音がした。
(塩……?)
ウィリアムの腹の中で、躍進が激しく反応した。
(知ってる。この人の匂いを、躍進は知ってる)
ウィリアムは歩き出した。足音を殺して、石の上を、ゆっくりと。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
人影は、振り返った。
ウィリアムは息を止めた。
白髪交じりの、精悍な顔。目元の形が、ウィリアムに似ている。深く刻まれた皺の間に、長い旅の疲れと、何か別の、ずっと重いものが宿っていた。
「……ウィリアム」
男が言った。かすれた、でも確かに聞き覚えのある声で。
「父さん……」
ウィリアムは、P型剃刃を握ったまま、動けなかった。
嬉しいのか。怒っているのか。泣きたいのか。殴りたいのか。
全部だ。全部が、一度に来て、言葉が出てこない。
父親が、ゆっくりと口を開いた。
「……来てくれた。俺の計算通りだ」
その言葉が、ウィリアムの全身に、冷水を浴びせた。
「計算……」
「お前を砦に残して来た。お前が育ち、強くなり、撃退兵団に入るのを待った。そして、お前が十分に強くなったころ、奴を動かした」
「……奴?」
「《王》だ。俺が、王を呼んだ。お前を食わせるために」
静寂が、石と石の間を満たした。
ウィリアムは、P型剃刃の柄を、ゆっくりと、力を込めて握り直した。
「……俺は」
「ウィリアム」
「俺は今から、親父を一発ぶん殴る。言ってた通りに」
「そうしろ。それでいい」
ウィリアムの拳が、父の頬を打った。
乾いた音が、夜の荒野に響いた。
父は倒れなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じ、それから開いた。
「……続きを、聞いてくれるか」
「聞く。でも、もう一発ぶん殴ってからだ」
「そうしろ」
ウィリアムは、もう一度、拳を握った。
その背後で、目を覚ましたミユとユズトが、無言で、ウィリアムの後ろに立った。
三人は、夜の荒野に、肩を並べて立っていた。
塩の湖が、遠く、白く光っていた。
躍進が、ウィリアムの腹の奥で、静かに、目を開けた。
*** 外砦跡 夜ーーー
つづく




