文化祭一日目②:花と月
文化祭で出される軽食なんて、そう腹が膨れるものでも無い。だから他の教室で、たこ焼きとか焼きそばとかテイクアウトできるものを、いくつか購入した。校庭に用意された休憩スペースのテント、その中の人がいない場所を選んで、愛歌と食べていた。
そんな時のこと。
「あぁ、一緒に文化祭回ってるのを見たって聞いたから、どこかと思ったら、こんなとこにいたんだ」
そう背後から女子に話しかけられた。
「……橘さん?」
愛歌が俺の背後を見て言ったので、振り返った。
確かにそこには橘がいた。今更何の用があるんだろう。
「ねえ瀬里賀さん? ちょっとこれ見てくれない?」
そういってコトンと俺たちの間の机にスマホを置いた。
ドクッ。
心臓が跳ねる。
そこには、階段下で俺と、あの女の子がキスをしている写真が映されていた。
「え? いや、なんで……」
あの時は頭を押さえつけられていたはずだ。
なんでこんな……、俺の方から迫ってるみたいになって……。
「ねえ見てよ。こいつあんたに隠れてこんなことしてたの。しかも学校で! どう思う?」
あの時と同じ笑みを浮かべながら、そんな事を訊いていた。
「あ、あの愛歌……」
本当のことを言おうと思うのに、うまく言葉が出ない。
「へぇ……。ちょっと貸していただけます?」
「!? 何を!?」
そう言って愛歌は自身のスマホを繋げ、2、3秒操作したかと思うと、写真の加工が取れた。
「なっ!」
「わかりやすすぎますよ」
そう言って、なんでもないことのようにスマホを返した。どれだけ時間をかけて加工したのか知らないけど、正気の沙汰じゃねえな。
それをひったくるようにしながら、橘は大きな舌打ちをした。
「ムカつくんだよ、お前! ずっとずっと! 最初から足りてないものなんてないくせに、いろんなもん取ってって! いつだって満ち足りたような顔して! ずっと余裕そうで! 人生楽しそうで! 全部全部ムカつくんだよ!」
橘はダムが決壊したみたいに、言葉を吐き出す。
「わかってんだよ。こっちはお山の大将で。もっと高い山には近づくことさえできない。ならせめて! お前みたいなのは、高い山の上にでもいて、庶民を見下してればいいだろ! 当てつけるみたいに、下までわざわざ降りてくんじゃねえよ!」
そしてすべて流しきったみたいに、ピタと止まった。
愛歌は黙って聞いていた。怒りでも、哀れみでもなく、ただ真っ直ぐに橘とぶつかろうとしていたんだと思う。
「……」
だから少しの間、言葉を考えているようだった。
「人は理性と知恵を得た。同時に自身が何者であるか、その答えを与えられぬまま放り出されることになった」
「はぁ? 何言ってんの?」
「だから人は人に、どう見られているのかで、その穴を埋めようとしてしまう。あなたもそうでしょう?」
「またそうやって上から馬鹿にして!」
「私もそうです!」
また橘が激高しそうになる。それを愛歌が静かに、しかし力強く言葉で止めた。
「あなたが言った、私はなんでも持っているという言葉。そう、それが私に貼られた属性。それに振り回されて生きてきた。今のあなたにはもしかしたら、嫌味に感じられてしまうのかもしれませんが、それでもあえて言います。私は私の持ち合わせていない普通が羨ましかった。ずっとずっと心から、羨ましいと思っていた。だからこの学校に来ました」
愛歌は少しだけ寂しそうな顔を見せる。
「ここに来たからといって、私が普通になれるわけじゃない。それはわかっていたし、実際そうだった。いつだって隣の芝生は青く見えるし、人の持つ花は輝いて見える。でも、まずはそれを認めないと息苦しいだけだって、私も気づいたんです。その上で自分にしかないものを抱えて生きて行くしかないんです」
愛歌は一呼吸おいて話を続ける。
「あなたと同じように、私もあなたのような人間が羨ましかった。きっとそうやって人と比べて生きて行くんです。これからも、ずっと。羨ましいと、そう感情で思うことはいいと思うんです。でもそれを他人のせいにしてしまったら、他人の持っているものを壊すことで穴埋めしようとしてしまったら、いつか、……あなたの花まで枯れてしまいますよ」
一瞬、風が吹いた音がした。すぐに校舎の向こうから、文化祭の喧騒が聞こえた。
橘の目が、何かを言いかけて止まる。
「……ばっかみたい」
それだけ呟いて、橘はその場を去っていった。
どこかで吹奏楽部の演奏の音が聞こえる。
風が吹いて紙が飛ばされていく。
人ごみに紛れ、橘の姿は見えなくなった。
……その後、俺は人生の中で橘の声を聞くことは、二度となかった。
その日の夜、愛歌の家で俺たちは最後の練習をした。
「うん。バッチリっしょ」
真夏が言う。そして、その日はあまり遅くならないうちに解散した。明日、全力を出せるように。
陽と真夏の二人は家に帰った。
その後、借りていた部屋の窓を開け、夜風を感じながら、愛歌の家の庭を眺めた。
風が草を揺らして波を作っている。それが部屋に、緑の香りを流し込んできた。
「あとは明日、全力出すだけだね」
愛歌がそう話しかけてきた。
「うん」
それだけ返事した。
「寂しくなるな」
「少しね。でもまた昼休みには集まれるから」
「……確かにそうだけど、ここに集まることは減るだろ? 俺も帰るし」
「あら、私は今まで通りここに、泊まってくれてもいいのよ」
それは……、ダメだな。
ずっと愛歌に甘えてばかりじゃ、俺がダメになっちゃいそうだから。
でも……。
「たまには……、いいかもな」
「ええ。待ってる」
そう愛歌が微笑む。
この部屋で月明かりに照らされた彼女の笑顔を見ていると、ふと、あの雨の夜のことを思い出してしまった。
雪のように白い肌、清流のように美しく流れる金髪、新緑の葉みたいに明るく深い緑色の瞳、月光で輝く桜色の唇と、その細やかな肌理の一本一本までも、艶やかに見えてしまう。……邪な衝動に駆られてしまいそうで、目をそらした。
「なぁ、愛歌……」
「なに?」
そしてふと言葉を漏らしてしまった。
しかしその後の言葉が、鼓動によって断ち切られてしまったように、喉でつっかえて音にならなかった。たったの二文字。それが自分には、遠い言葉のようだった。
「明日、頑張ろうな」
代わりに話したのはそんな言葉だった。
「ええ、もちろん」
そう言って笑う彼女の横顔が、月の光を反射して淡く光っていた。
もし、今この瞬間を閉じ込めておけたらと、そんなメルヘンなことを一瞬本気で考えてしまった。でも、月の光は掴めないからこそ、きっと美しいんだろう。
きっと自分にできることはそれじゃない。それならいつか、こんな夜の想いすら歌にできたら。そう思った。




