雨と熱
「俺からも聞いていいか?」
「何?」
「……最近、俺のこと避けてたよな」
あの手を弾かれた事件以来、どこか余所余所しく、前と同じように話せなかった。
でもこうして泊めてくれたり、話を聞いてくれたりして、嫌われたわけじゃなさそうだったから、ずっと見ないふりをしていた。
でも頭の片隅では気になっていた。
「あぁ……、えっと、その。白自身も知っているのよね。橘さんたちが流していた、あなたの噂」
「ああ」
「それ聞いて少し動揺してしまったの」
そういえば、橘と愛歌が言い合ってた時、そんな話をしていたのを思い出す。
「ごめんなさい。あなたを傷つけたわよね」
俺が寝ていたベッドの横まで来て頭を下げた。
「なんで愛歌が謝るんだ」
「だって……」
二人して少し黙ってしまう。
「……じゃあ、さ。一つ教えてくれ」
「何?」
そう言って頭をあげた。
「なんで今日、俺のこと信じてくれたんだ?」
あの教室での一件で、俺はもう終わったと思った。
愛歌に嫌われたってそう思った。
でも実際には違った。
「……私はあなたを信じてる。そして、そんな私のことを、私は信じてるの」
「なんだそれ」
少し笑ってしまった。
「ふふ。真夏の受け売りなんだけど、私が言うとやっぱり変かな。でも」
愛歌はゆっくりと車椅子を動かし、ベッドの上へ器用に腰を下ろした。その仕草は雨よりも静かだった。
「あなたもあなたのことを、もっと信じてあげても良いんじゃないかな」
「でも……」
「お兄さんのことだけじゃないでしょ。その、野村君のこととか、色々と負い目に思ってることがあるんでしょ」
「え?」
なんでその名前知ってんだ?
「ごめん。噂を聞いてあなたの中学での出来事少し調べちゃったの」
「いや、いいよ。隠してるわけじゃないし」
野村は中学の時、唯一友達だった人だ。……だと思ってた人だ。
自分で首吊って、今はもう、この世にはいない。
「だからね。その、何が言いたいかって言うと……。……辛いって思ったならそりゃ辛いって思っていいし、幸福だって思ったなら幸福だって感じたっていいの」
そう言って、上半身の力だけでゆっくりこっちに這ってきた。
「そりゃ傷も痛むよ。息も苦しいよ。だって人間だもん。生きてるんだもん。そう簡単に癒えないよ」
愛歌の温かい手が自分の手に絡んできた。
「でもさ、だからって幸せになっちゃいけない人なんていないし、求めちゃいけないわけでもないでしょ。そうやって生きていくのだって人間でしょ!」
その言葉はなんだか、今手で感じているもののように暖かく感じた。
でも、少しだけその温もりが怖かった。
「……だから、あなたも、生きてよ……」
「俺、そんなゾンビみたいに死んでるように見える?」
「うん」
即答される。その想いが、繋いだ手を通じてすっと入ってくるようだった。
少しの間、部屋が静寂で満たされる。
「あと、あなたが好き」
「え? へ?」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の時間が止まった気がした。
突如放たれたその言葉に、まるでレモンを絞るみたいに、心臓がギュっとなるのを感じた。
「だから、あなたを信じてる理由! 私はあなたが好きなの!」
「っ!?」
愛歌にもう一度そう言われ、上から唇を重ねられた。
少しのあいだそうしてから、そっと離れる。
ゼロ距離で見つめ合う。お互いの息と息が混ざり合うのを感じ、湿った熱が頬を伝う。
そして、もう一度唇を重ねる。濡れた唇が触れ合って、互いの呼吸が少しずつ乱れていく。雨で冷えた部屋の空気の中で、愛歌と触れている部分だけがやけに熱い。それでも離れられなかった。
唇が離れるたび、かすかに音が鳴る。その音が、雨の粒よりも近くで響く。
ただ唇を重ねているだけなのに、胸の奥で何か温かいものがじんわりと、痛いくらいにせり上がってきた。
唇の隙間から、そっと愛歌の舌先が伸びてくる。
「待って」
しかし、震える手で愛歌の肩を押さえ、そっと上体を起こした。
「え?」
「ごめん。まだ怖いんだ。俺、本当に臆病で、人を好きになったり、幸せを感じたり、そんなことすら怖いんだ」
正直に言葉を繋げた。
「もっと素直になれるようにするから。もうちょっとだけ待っててほしい」
そう俺が言い終わると、愛歌が小さく息を吸い込み、両腕を伸ばした。
気づけば俺は、その腕の中にいた。
「うん。待ってる」
愛歌の体の熱はとても暖かくて……今はただ、その鼓動だけが雨を越えて響いていた。離れたくないと思った。
外ではまだ小さな雨が降り続いていたが、痛みは少しだけ遠のいた気がした。




